最近の歴史書を読むとやたらに「倭」「倭王権」「大王」という文字が多く見られる。政治的というか思想的な悪意を感じるのは私だけだろうか。憲法学会だけでなく歴史学会も共産主義者に占領されてしまったのであろうか。「倭」という蔑称を「日本」に替えるように支那との外交交渉でやっと替えさせたのに、なぜ日本人が自らを蔑称で呼ばなければいけないのか。せめて仮名の「やまと」か、「大和」のやまとで良いではないか。
今は「天皇」と書いて「てんのう」と呼ぶが、元は「すめらみこと」「すめらき」「すめらぎ」であり、「治天下」と書いて「あめしたしらす」または同じ意味の「御宇」を「天皇」の頭につけて読んでいた(治天下天皇、または御宇天皇)。
上代では「すめらみこと」「すめらぎ」「すめらき」または「あまつきみ(天つ君)」という言葉があるのに、歴史の本や教科書でわざわざ「大王」という如何にも地位が低そうな名前を使う必要があるのか。
また「王権」という言葉も、本来は「kingship」という単に「王であること」という意味しかない。
それなのに、天皇を「権力を持った単なるどこの国でもいるような王様」と思わせようとする悪意を感じるのは私だけだろうか。
共産主義者は「天皇制廃止」のためだったら、何でもするようだ。歴史を塗り替えることだってしかねない。
私は歴史に関しては、素人である。しかし、プロであるはずの歴史学者がことごとく共産主義者になってしまったら、素人でも戦わなければならない。
素人の抵抗を見よ。
今回は「古代の『天皇』の尊称は本当に『大王(おおきみ)」だったのか」という主題で考える。
まず「大王説」の根拠になっているのが、稲荷山古墳から出土された鉄剣と、江田船山古墳出土の大刀の銘文である。
稲荷山古墳の鉄剣銘の内容を以下に記す。
「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」
これを読みやすくすると、
「辛亥の年(西暦471年?)七月に記す。乎獲居(おわけ)の臣(おみ、つまり臣下)の祖先の名は意富比垝(おほひこ)、その子の名は多加利足尼(たかりすくね)、その子の名は弖已加利獲居(てよかりわけ)、その子の名は多加披次獲居(たかひしわけ)、その子の名は多沙鬼獲居(たさきわけ)、その子の名は半弖比(はてひ)、その子の名は加差披余(かさはよ)、その子の名は乎獲居(おわけ)の臣(おみ)。世世杖刀人の首(かしら)となり、事(つか)え奉り來りて今に至る。獲加多支鹵の大王の寺、斯鬼宮(しきのみや)に在(いま)す時に、吾(われ)、天下を左(たす)け治む。この百錬の利刀を作ら令(し)め、吾が事(つか)え奉(まつ)れる根原を記(しる)すなり。」
江田船山古墳出土の大刀には、
「治天下獲加多支鹵(推定)大王世、・・・」と記されている。
これが、「天皇(すめらぎ、てんのう)」の称号が「大王(おおきみ)」であった根拠である。
本当にそうであろうか。
次に推古天皇と聖徳太子が作らせた法隆寺薬師像の光背銘の文を示す。
「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
これを読みやすくすると、
「池邊(いけべ)の大宮に天(あめ)の下を治(し)らしめしし天皇(すめろき)大(おほ)御身(みみ)勞(いたつ)き賜(たまい)し時、歳(ほし)丙午(ひのえうま)に次(やど)るの年なり。大王(おほきみ)の天皇(すめろき)と太子(ひつぎのみこ)を召して、誓願(せいがん)し賜(たま)ひ、我が大(おほ)御病(みやまひ)太平(たひ)らぎなむと欲(おも)ほし坐(ま)す。故(かれ)将(まさ)に寺を造(つく)り薬師像を作り仕へ奉(まつ)らむと詔(の)りたまふ。然(しか)れども當時崩(かむさ)り賜(たま)ひて、造り堪(あ)へざれば、小治田(をはりだ)の大宮に天(あめ)の下治(し)らしめしし大王(おほきみ)の天皇(すめろき)及び東宮聖王と大命を受け賜(たま)ひて、歳は丁卯(ひのとう)に次(やど)る年に、仕(つか)へ奉(まつ)りき。」
これをわかりやすくすると、
「池邊の大宮に住まわれる日本国を統治されていたすめらみこと(天皇)のお体がお病気になられた時、それは干支でいうと丙午の年であった。おおきみ(大王)のすめろき(天皇)とひつぎのみこ(皇太子)をお呼びになられて、誓願をたてて、我が病が治るように欲している。それ故、そのために寺を建て、薬師如来像を作ってお仕えし奉るようにと詔された。しかし、その時すめらみことは崩御され、建て作れなかったので、小治田の大宮に住まわれ日本国を統治されていたおおきみ(大王)のすめろき(天皇)と東宮にお住いの聖王(聖徳太子)とがその(用明天皇の)大命を受け賜て、干支は丁卯の年に、仏像にお仕えし奉った。」
「池邊の大宮の天の下を治らしめししすめらみこと」は用明天皇のことである。当時は天皇毎に御殿が立てられていたので、その御殿を「〇〇の大宮」と呼んでいた。
「小治田の大宮の天の下を治らしめししおおきみのすめろき」は推古天皇のことである。
この文の中で『おおきみ(大王)』という言葉は二回出てくる。どちらも推古天皇にかかっている。しかし、用明天皇には『おおきみ(大王)』という言葉はかかっていない。
それから、『おおきみ(大王)』と「すめらき」が二重に使われている。
もし、『おおきみ(大王)』という言葉が天皇の尊称であるのであれば、用明天皇にもかからなければおかしいし、『おおきみ(大王)』と「すめらみこと(天皇)」を二重で使うことは意味がなくなる。
このことから推測されるのが、『おおきみ(大王)』とは天皇の尊称ではなく、この文を書いた人の直属の主君を指しているということである。
つまり、この文を書いた人は推古天皇の臣下であるから、推古天皇にのみ『おおきみ(大王)』という言葉を使っているのである。
『おおきみ(大王)』という言葉の意味は、「我が偉大なる主君」という意味である。
ここでややこしいのが、天皇の臣下が書いた文だと全て「おおきみ(大王)」となることである。
ここで、天皇以外に「おおきみ(大王)」を使った例を示そう。
聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が作らせたという「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」である。これは、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵されている、
その銘文は以下の通りである。
斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大
臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥 己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥
己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為
后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己
等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃 弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名
尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶 妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治
天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在
辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩
于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與
母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世 間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応
生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看 悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之
悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繍帷二張 画者東漢 末賢高麗
加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻
以下に読み下し文を示す。
斯帰斯麻(しきしま)宮に天の下治ろしめしし天皇 名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと) 巷奇(そが)の大臣(おおおみ) 名は伊奈米(いなめ)の足尼(すくね)の女(むすめ) 名は吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)を娶して大后(おおきさき)とし 生みませる名は多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと) 妹の名は等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと) 復(また)大后の弟 名は乎阿尼乃弥己等(おあねのみこと)を娶して后と為し 生みませる名は孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと) 斯帰斯麻天皇の子 名はヌ奈久羅之布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと) 庶妹 名は等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)を娶して 大后と為し 乎沙多(おさた)の宮に坐して 天の下治しめして 生みませる名は尾治王 多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと) 庶妹 名は孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと)を娶して 大后と為し 濱辺の宮に坐して 天の下治しめして 生みませる名は等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと) 尾治大王の女 名は多至波奈大女郎(たちばなおおいらつめ)を娶して后と為したまう
歳は辛巳に在る十二月廿一日癸酉の日入に 孔部間人母王 崩(かむあが)りたまう 明年の二月廿二日申戌の夜半に 太子 崩りたまいぬ 時に多至波奈大女郎 悲哀(かな)しみ嘆息(なげ)きて 天皇の前に畏み白して曰さく「之を啓(もう)すは恐れありと雖も心に懐いて止使(やみ)難し 我が大王(大皇)と母王と 斯りし如く従遊まして 痛酷(むご)きこと比なし 我が大王の所告(のたま)いけらく『世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なり』と其の法を玩味(あじわい)みるに 我が大王は 応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う 而るに 彼の国の形は眼に看がたき所なり 稀(ねが)わくば図像に因りて大王の往生したまえる状(さま)を観(み)んと欲(おも)う」と天皇 之を聞こしめして 凄然たまいて告曰(のりたま)わく「一の我が子有り 啓す 所誠に以て然か為す」と諸の妥女等に勅して 繍帷二張を造らしめたまう
画ける者は 東漢末賢(やまとのあやのまけん) 高麗加世溢(こまのかせい) 又 漢奴加己利(あやのぬかこり) 令せる者は 椋部秦久麻(くらべのはたのくま)なり
上記読み下し文の大意です。
しきしまの宮(磯城嶋宮)に天の下治らしめしし天皇(すめらみこと)、名は「あめくにおしはるきひろにはのみこと(天國排開廣庭尊=欽明天皇)」、そが(蘇我)の大臣「いなめ(稲目)の足尼(すくね/宿禰)」の娘、名は「きたしひめのみこと(堅鹽媛命)」を娶りて大后(おおきさき)とし、名は「たちばなとよひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)」・妹(いも)の名は「とよみけかしきやひめのみこと(豐御食炊屋姫尊=推古天皇)を生みたまわれた。また大后の弟は 名は「おあねのみこと(小姉命)」を后とし、名は「あなほべはしひとのひめみこ(穴穂部泥部皇女)」を生みたまわれた。しきしまの天皇が御子、名は「ぬなくらのふとたましきのみこと(渟中倉太珠敷尊=敏達天皇)」、庶妹(ままいも)名は「とよみけかしきやひめのみこと」を娶りて大后となし、おさたの宮(譯田宮/他田宮)に坐(いま)して天の下を治らしめていた。名は尾治王(おはりのみこ)を生みたまわれた。「たちばなとよひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)」、庶妹(ままいも)名は「あなほべはしひとのひめみこ」を娶りて大后となし、いけのべの宮(池邊宮)に坐しまして天の下を治しめされた。名は「とよのみみのみこと(豐聰耳皇子=聖徳太子)」を生みたまわれた。尾治大王の娘、名は「橘大女郎(たちばなのおおいらつめ)」を娶りて后となされた。
辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日夕暮れ、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。我が大皇(太子)と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。我が大王(太子)は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。我が大王(太子)は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって大王(太子)の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳を作らせた。画者(図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)である。
この文の中で「大王(おおきみ)」は尾治大王と聖徳太子に対して使われている。それなのに、天皇(すめらみこと)である欽明天皇、敏逹天皇、用明天皇には使われていない。
この文の主体は、聖徳太子の后橘大女郎である。尾治王は橘大女郎の父であり、聖徳太子は夫である。
聖徳太子を「我が大王」と呼んでいるように、「大王」とは「偉大なる主人」という意味で、「天皇の称号」としての意味はない。尾治王は父なので、「偉大なる我が父」という意味で「大王」という言葉を使っていると思われる。
稲荷山古墳の鉄剣が作られたのが西暦471年、聖徳太子が亡くなったのが西暦622年と150年の間がある。しかし、この150年の間に「大王」の意味が変わるであろうか。
同時期に一人にしか使えない「天皇の尊称」を父や夫に使うようになるだろうか。
私は考えられないと思う。
稲荷山古墳の鉄剣の作者は「乎獲居(おわけ)の臣」であり、「乎獲居(おわけ)の臣」は「獲加多支鹵の大王」の正に「臣下」であった。
だから、「乎獲居(おわけ)の臣」にとって、「獲加多支鹵の大王」は「天皇」であり、「我が偉大なる主君」でもある訳だ。
このように、共産主義者が主張するような「大王」という天皇の称号はなかったのだ。
日本の歴史を抹消し、改竄しようとする悪意のある共産主義歴史学者が日本の学会にいて良いのだろうか。
学者と名乗ってさえいれば、大量に本を出し、教科書に内容を勝手に改竄して良いのだろうか。
日本国民、皆に問いたい。
「日出づる処」新聞
2018年7月5日木曜日
2018年4月8日日曜日
十七條憲法 第三条 日本は古来「法治国家」
三に曰く、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地となす。天覆(おお)い地載せて四時順行し、万気(ばんき)通うことを得(え)う。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
三に言う。天皇より詔を承(うけたまわ)ったら、臣下は必ずそれに対して謹んで従わなければなりません。天皇とは例えれば天であり、臣下は例えれば地であります。この世界は天が覆い、地の上に載せているので、四季が毎年同じように流れ、万物の気が通うことができます。もし地である臣下が、天である天皇を逆に覆うようにする、つまり臣下が天皇を従わせようと欲したならば、たちまちこの国は壊れることになるでしょう。この理由により、国家元首である天皇が詔を発したならば、臣下はそれを承ります。上の者が指示したならば、下の者はそれに従わなければなりません。故に、天皇から詔を承ったら臣下は必ず謹んでそれに従いましょう。もし謹んでそれに従わない、つまり叛逆するようなことがあれば、それは自然の流れで国が滅びることにつながるでしょう。
この第三条は、単純な論理しか理解できないマルクス史観の人か、複雑な統治と言う仕組みを理解しようとする人かによって、意味が違ってきます。
マルクス史観の人はこう解釈します。「天皇が命令し、臣下はそれに従わなければならない」。天皇つまり「支配者」、臣下つまり役人や一般国民は「被支配者」と言う構図です。単純なので理解しやすいです。理解しやすいことと、実際にそれが本当なのかは、関連がありません。逆に国の統治のようなものが単純な訳がありません。
この第三条は現在も実質守られています。詔は現在の法律です。法律を公布しているのは誰でしょう。現在も天皇です。詔は「みこと・のり」つまり、天皇が公布した法、つまり国法、法律です。単なる天皇の命令の訳がありません。天皇が独裁者だったことはないのです。独裁者かそうでないかの見分け方は、「恣意的な統治」を行うかどうかです。国民主権だって独裁になりえます。フランス革命時のロベスピエールや選挙で選ばれたヒトラー、革命を起こしたレーニンだって「国民の代表」でした。しかし、恣意的な統治を行って、国民を殺しまくりました。国民主権の方がよほど悪い独裁者を生みます。古来天皇は「恣意的な統治」を行なっていたでしょうか。
抑も「詔」は誰が中身を考えるのでしょう。天皇の個人的な意見でしょうか。そんな訳がありません。大和朝廷では臣下の有力者か有能な者が大きな方針を考え、下級官僚の人たちが文面を整え、合議で決定し、天皇が発表した形にしたと思われます。現代とほとんど変わりません。今は政府与党、つまり与党と省庁の官僚で法案を作り、それを国会で議論し、決定したものを天皇が発布する、基本同じなのです。五箇条の御誓文や大日本帝国憲法だって、天皇が考えた訳ではありません。臣下が考えたものを「天皇から承った」と言う形にして、つまり「天皇が作って述べられた」と「見なして」いるのです。それを単純なことしか理解できない人達が、その「見なして」いる部分を、本当にそのまま受け取って、「天皇が命令している」と信じているに過ぎないのです。
そして、詔つまり国の法律を臣下、官僚だけでなく一般国民が従わなかったら、どうでしょう。「恣意的な」法律だったら、従いたくなくなるのも分かります。「恣意的でない」統治に必要な法律であれば、臣下、天皇以外なので国民全員が従うべきです。国民が従うことで、国民の節度ある自由や権利が守られた状態、つまり「社会の秩序」が守られるのです。もちろん、無限の自由や権利は認められることはありえないし、昔になればなるほど、身分によって自由と権利、そして義務の範囲は違ったことでしょう。しかし、国として、国民が「法による秩序」に守られて生きることが可能になった訳です。日本は古来「法治国家」、「法治主義」の国だったのです。
三に言う。天皇より詔を承(うけたまわ)ったら、臣下は必ずそれに対して謹んで従わなければなりません。天皇とは例えれば天であり、臣下は例えれば地であります。この世界は天が覆い、地の上に載せているので、四季が毎年同じように流れ、万物の気が通うことができます。もし地である臣下が、天である天皇を逆に覆うようにする、つまり臣下が天皇を従わせようと欲したならば、たちまちこの国は壊れることになるでしょう。この理由により、国家元首である天皇が詔を発したならば、臣下はそれを承ります。上の者が指示したならば、下の者はそれに従わなければなりません。故に、天皇から詔を承ったら臣下は必ず謹んでそれに従いましょう。もし謹んでそれに従わない、つまり叛逆するようなことがあれば、それは自然の流れで国が滅びることにつながるでしょう。
この第三条は、単純な論理しか理解できないマルクス史観の人か、複雑な統治と言う仕組みを理解しようとする人かによって、意味が違ってきます。
マルクス史観の人はこう解釈します。「天皇が命令し、臣下はそれに従わなければならない」。天皇つまり「支配者」、臣下つまり役人や一般国民は「被支配者」と言う構図です。単純なので理解しやすいです。理解しやすいことと、実際にそれが本当なのかは、関連がありません。逆に国の統治のようなものが単純な訳がありません。
この第三条は現在も実質守られています。詔は現在の法律です。法律を公布しているのは誰でしょう。現在も天皇です。詔は「みこと・のり」つまり、天皇が公布した法、つまり国法、法律です。単なる天皇の命令の訳がありません。天皇が独裁者だったことはないのです。独裁者かそうでないかの見分け方は、「恣意的な統治」を行うかどうかです。国民主権だって独裁になりえます。フランス革命時のロベスピエールや選挙で選ばれたヒトラー、革命を起こしたレーニンだって「国民の代表」でした。しかし、恣意的な統治を行って、国民を殺しまくりました。国民主権の方がよほど悪い独裁者を生みます。古来天皇は「恣意的な統治」を行なっていたでしょうか。
抑も「詔」は誰が中身を考えるのでしょう。天皇の個人的な意見でしょうか。そんな訳がありません。大和朝廷では臣下の有力者か有能な者が大きな方針を考え、下級官僚の人たちが文面を整え、合議で決定し、天皇が発表した形にしたと思われます。現代とほとんど変わりません。今は政府与党、つまり与党と省庁の官僚で法案を作り、それを国会で議論し、決定したものを天皇が発布する、基本同じなのです。五箇条の御誓文や大日本帝国憲法だって、天皇が考えた訳ではありません。臣下が考えたものを「天皇から承った」と言う形にして、つまり「天皇が作って述べられた」と「見なして」いるのです。それを単純なことしか理解できない人達が、その「見なして」いる部分を、本当にそのまま受け取って、「天皇が命令している」と信じているに過ぎないのです。
そして、詔つまり国の法律を臣下、官僚だけでなく一般国民が従わなかったら、どうでしょう。「恣意的な」法律だったら、従いたくなくなるのも分かります。「恣意的でない」統治に必要な法律であれば、臣下、天皇以外なので国民全員が従うべきです。国民が従うことで、国民の節度ある自由や権利が守られた状態、つまり「社会の秩序」が守られるのです。もちろん、無限の自由や権利は認められることはありえないし、昔になればなるほど、身分によって自由と権利、そして義務の範囲は違ったことでしょう。しかし、国として、国民が「法による秩序」に守られて生きることが可能になった訳です。日本は古来「法治国家」、「法治主義」の国だったのです。
2017年11月2日木曜日
十七條憲法 第二条 仏教は国教だった
二に曰く、篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、即ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。
二に言う。篤く三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは仏、法理、僧侶のことである。それは命あるもの全て(四生とは胎生、卵生、湿生、化生という仏教における生物の分類)の最後のよりどころであり、全ての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理を貴ばないことがあろうか。人ではなはだしく悪い者は少ない。よく教えるならば正道に従うものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によって心を正せるだろうか。
ここで聖徳太子が言いたいのは、仏教を日本の国教とするという宣言です。イギリスでは国教会があり、アメリカでも大統領の宣誓はキリスト教の聖書に触れながら、行われるように、欧米でも国の中で宗教は重要視されています。なぜ宗教を大切にするのかということですが、第一は国民の道徳を保つためです。
新渡戸稲造が外国人に聞かれたそうです。「欧米ではキリスト教によって道徳が守られているが、日本ではどうしているのか?」と。
稲造はその時言葉につまり、その後思い返して日本人の道徳を保っているのは「武士道」だと気付き、書いたのが英語で書かれた『武士道』です。
聖徳太子は、豪族や官僚、一般国民の道徳の低下を嘆いていたのでしょう。天皇の暗殺が(崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された)起きるような世の中です。風紀が乱れていた可能性は高いです。
次に、神道との関係です。十七条憲法の中で神道についての記載はありません。その場合、書いてない理由としては二つ考えられます。一つは書く価値も意味もないという場合、もう一つは当たり前過ぎて書く必要がない場合です。
どう考えても神道が軽視されるはずがありません。そうなると当たり前過ぎてという理由になります。神道とは日本国にとって正に「国体」そのものです。つまり神道は日本の憲法の根本そのものです。だからこそ、十七条憲法には書かれていないのです。
仏教を国教にしたとしても、国の憲法の基礎そのものである神道の上に国民の道徳を守る目的で仏教が乗っかっているだけなのです。だから、仏教が神道を押しのけている訳ではないのです。
聖徳太子のような哲学者であれば、仏教のような宗教がなくても道徳は守ることは可能です。しかし、そこまでの知恵者はほとんどいません。そうなると、「信じる」ということにして、道徳を守らせることが重要になります。道徳とは「嫌なことを我慢する」ためのものではありません。道徳とは「その人自身が適度な自由を持って幸せに生きる」ためのものです。
国の統治の根本に「道徳」が必要であると聖徳太子は考えていました。今の日本にもこのことは必要と思われます。大日本帝國憲法の時はその道徳維持のために作られたのが、「教育勅語」でした。次の憲法の改正時には道徳に対する政策も必要になるでしょう。
二に言う。篤く三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは仏、法理、僧侶のことである。それは命あるもの全て(四生とは胎生、卵生、湿生、化生という仏教における生物の分類)の最後のよりどころであり、全ての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理を貴ばないことがあろうか。人ではなはだしく悪い者は少ない。よく教えるならば正道に従うものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によって心を正せるだろうか。
ここで聖徳太子が言いたいのは、仏教を日本の国教とするという宣言です。イギリスでは国教会があり、アメリカでも大統領の宣誓はキリスト教の聖書に触れながら、行われるように、欧米でも国の中で宗教は重要視されています。なぜ宗教を大切にするのかということですが、第一は国民の道徳を保つためです。
新渡戸稲造が外国人に聞かれたそうです。「欧米ではキリスト教によって道徳が守られているが、日本ではどうしているのか?」と。
稲造はその時言葉につまり、その後思い返して日本人の道徳を保っているのは「武士道」だと気付き、書いたのが英語で書かれた『武士道』です。
聖徳太子は、豪族や官僚、一般国民の道徳の低下を嘆いていたのでしょう。天皇の暗殺が(崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された)起きるような世の中です。風紀が乱れていた可能性は高いです。
次に、神道との関係です。十七条憲法の中で神道についての記載はありません。その場合、書いてない理由としては二つ考えられます。一つは書く価値も意味もないという場合、もう一つは当たり前過ぎて書く必要がない場合です。
どう考えても神道が軽視されるはずがありません。そうなると当たり前過ぎてという理由になります。神道とは日本国にとって正に「国体」そのものです。つまり神道は日本の憲法の根本そのものです。だからこそ、十七条憲法には書かれていないのです。
仏教を国教にしたとしても、国の憲法の基礎そのものである神道の上に国民の道徳を守る目的で仏教が乗っかっているだけなのです。だから、仏教が神道を押しのけている訳ではないのです。
聖徳太子のような哲学者であれば、仏教のような宗教がなくても道徳は守ることは可能です。しかし、そこまでの知恵者はほとんどいません。そうなると、「信じる」ということにして、道徳を守らせることが重要になります。道徳とは「嫌なことを我慢する」ためのものではありません。道徳とは「その人自身が適度な自由を持って幸せに生きる」ためのものです。
国の統治の根本に「道徳」が必要であると聖徳太子は考えていました。今の日本にもこのことは必要と思われます。大日本帝國憲法の時はその道徳維持のために作られたのが、「教育勅語」でした。次の憲法の改正時には道徳に対する政策も必要になるでしょう。
2017年6月29日木曜日
十七條憲法 第一条 相手を尊重しつつ議論することが大切
聖徳太子の定められた十七條憲法について書いていきます。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴(たふと)しと為し、忤(さから)うこと無きを旨と為(せ)よ。人皆黨(たむら)有り、亦(また)達(さと)れる者少なし。是(ここ)を以て、或は君父に順(したが)わず、乍(また)隣里に違(たが)う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)わば、即ち事理(じり)自ずから通ず、何事か成らざらん。
最初の文については最後に述べます。
まず人は皆考えが近い者で集まり、その集団が複数できてしまう。また複雑な事を考える事ができ、世の中の真理に近づける者つまり賢者、哲学者はいつの世もとても少なく、ほとんどの人たちは、そこまでの知恵を持っていない。そうなるとどうなるか?集団同士で相争い、そして多くの人たちは、賢者の言うことを理解できず、やはり相争うことになってしまう。そうなると、天皇に臣民が従わず、父に子が従わず、村同士で争うような状況になってしまう。
しかし、天皇や父が優しくなり、臣下や子どもが仲良くしようとし、何事も話し合うことができれば、物事の真理が自然と通じるようになり、どんな事もうまくいくようになる。
(そして最初の文は同じ内容を繰り返しています。)
お互いに争わないようにすることが一番大切である。
というような意味です。
イギリスの議会制民主主義での議会のようなものを思い描いているように思えます。
イギリスでは国会で激しい議論をした後でも、与野党と仲良く会話することができると聞きます。
昔から、子どもの頃から、相手を尊重して議論するという習慣が出来上がっているのでしょう。
「相手を尊重するという前提の中で、議論する」
世の中の全てを論理で説明することはできません。
論理はあくまでも世の中を説明するための道具に過ぎないので、一部を説明することが可能なだけです。
だから、「相手を論破する」ことはあまり意味をなしません。
絶対的な論理を得ることはできないのです。
議論の中から、お互いに世の中の真理を垣間見るのがせいぜい出来ることです。
でも、それが大切なのです。
明治に帝国憲法ができ国会が始まってから現在まで、国会で意味のある議論、日本国をどのような良い国にするか、日本国民の正義とは何かという議論ができたことがあるのでしょうか。
今の国会を見ていても、与党と野党がただ敵対し、日本国としてどのような国にしたいのか、日本国民としての正義は何なのか、などは議論されません。
そのような複雑で高度で真摯な議論ができる国会議員も少なさそうです。
正に衆愚政治です。
聖徳太子の時代から、日本人は「相手を尊重しながら議論をする」ということがおそらく苦手だったのでしょう。
そして、議論の合わない相手を殺してしまう。
崇峻天皇が蘇我馬子に殺意を抱いたため、すぐに蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいのこま)を使って崇峻天皇を暗殺させ、すぐ東漢直駒を殺し、証拠隠滅をした。
意見の合わない人はすぐ殺し合って時代だった訳です。
聖徳太子は日本人が苦手なことを克服してこそ、良い国になると考えたのではないでしょうか。
今こそ、日本国に生まれた賢者は、思想や政治、法の分野に参加し、相手を尊重しながら一人ずつゆっくり議論する必要があると思います。
こういう話は、英米文化圏にしか通用しません。
ロシアや中国、朝鮮ではこのような話は永遠にできないと思います。
これらの国は強いか弱いかしかないからです。
「相手を尊重する」の意味もわからないでしょう。
殺し合わず、相手を尊重して議論する文化を作り上げましょう。
しかし、サヨク・リベラル思想の人とは議論ができません。
なぜなら、サヨク・リベラル思想の人は、「〜は〜である」という言葉に縛られ続け、物事を多角的に考えられないからです。
例えば、「戦争は悪である」と一度信じたら、自分や家族を守るために戦争をせざる得ない状況でさえ、それを否定し、自分が殺されても、自分の考えの間違いに気づきません。
サヨク・リベラル思想の人は議論できないからと言って、殺してはいけません。
しかし、サヨク・リベラル思想の人を権力のある地位から追い出さなければなりません。
議論できる保守勢力を強くしていきましょう。
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴(たふと)しと為し、忤(さから)うこと無きを旨と為(せ)よ。人皆黨(たむら)有り、亦(また)達(さと)れる者少なし。是(ここ)を以て、或は君父に順(したが)わず、乍(また)隣里に違(たが)う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)わば、即ち事理(じり)自ずから通ず、何事か成らざらん。
最初の文については最後に述べます。
まず人は皆考えが近い者で集まり、その集団が複数できてしまう。また複雑な事を考える事ができ、世の中の真理に近づける者つまり賢者、哲学者はいつの世もとても少なく、ほとんどの人たちは、そこまでの知恵を持っていない。そうなるとどうなるか?集団同士で相争い、そして多くの人たちは、賢者の言うことを理解できず、やはり相争うことになってしまう。そうなると、天皇に臣民が従わず、父に子が従わず、村同士で争うような状況になってしまう。
しかし、天皇や父が優しくなり、臣下や子どもが仲良くしようとし、何事も話し合うことができれば、物事の真理が自然と通じるようになり、どんな事もうまくいくようになる。
(そして最初の文は同じ内容を繰り返しています。)
お互いに争わないようにすることが一番大切である。
というような意味です。
イギリスの議会制民主主義での議会のようなものを思い描いているように思えます。
イギリスでは国会で激しい議論をした後でも、与野党と仲良く会話することができると聞きます。
昔から、子どもの頃から、相手を尊重して議論するという習慣が出来上がっているのでしょう。
「相手を尊重するという前提の中で、議論する」
世の中の全てを論理で説明することはできません。
論理はあくまでも世の中を説明するための道具に過ぎないので、一部を説明することが可能なだけです。
だから、「相手を論破する」ことはあまり意味をなしません。
絶対的な論理を得ることはできないのです。
議論の中から、お互いに世の中の真理を垣間見るのがせいぜい出来ることです。
でも、それが大切なのです。
明治に帝国憲法ができ国会が始まってから現在まで、国会で意味のある議論、日本国をどのような良い国にするか、日本国民の正義とは何かという議論ができたことがあるのでしょうか。
今の国会を見ていても、与党と野党がただ敵対し、日本国としてどのような国にしたいのか、日本国民としての正義は何なのか、などは議論されません。
そのような複雑で高度で真摯な議論ができる国会議員も少なさそうです。
正に衆愚政治です。
聖徳太子の時代から、日本人は「相手を尊重しながら議論をする」ということがおそらく苦手だったのでしょう。
そして、議論の合わない相手を殺してしまう。
崇峻天皇が蘇我馬子に殺意を抱いたため、すぐに蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいのこま)を使って崇峻天皇を暗殺させ、すぐ東漢直駒を殺し、証拠隠滅をした。
意見の合わない人はすぐ殺し合って時代だった訳です。
聖徳太子は日本人が苦手なことを克服してこそ、良い国になると考えたのではないでしょうか。
今こそ、日本国に生まれた賢者は、思想や政治、法の分野に参加し、相手を尊重しながら一人ずつゆっくり議論する必要があると思います。
こういう話は、英米文化圏にしか通用しません。
ロシアや中国、朝鮮ではこのような話は永遠にできないと思います。
これらの国は強いか弱いかしかないからです。
「相手を尊重する」の意味もわからないでしょう。
殺し合わず、相手を尊重して議論する文化を作り上げましょう。
しかし、サヨク・リベラル思想の人とは議論ができません。
なぜなら、サヨク・リベラル思想の人は、「〜は〜である」という言葉に縛られ続け、物事を多角的に考えられないからです。
例えば、「戦争は悪である」と一度信じたら、自分や家族を守るために戦争をせざる得ない状況でさえ、それを否定し、自分が殺されても、自分の考えの間違いに気づきません。
サヨク・リベラル思想の人は議論できないからと言って、殺してはいけません。
しかし、サヨク・リベラル思想の人を権力のある地位から追い出さなければなりません。
議論できる保守勢力を強くしていきましょう。
2017年6月25日日曜日
帝国憲法制定の精神 六
金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
52ページからの引用です。
以上は日本憲法制定の精神と欧米各国学者政治家の批評であります。それでこれを一言にして申せば、日本憲法は 明治天皇の遠大なる叡慮により国体に基づいて、海外諸国の憲法を斟酌し、その長を採り短を捨て、我が皇基を振起せよとの五ヶ条の御誓文を畏(かしこ)みて起草せられたものである。故に日本の歴史及び国体を知らずして日本の憲法を解釈線とすることはそもそも間違いである。従来日本の憲法学者のいろいろ著述した書冊を見ましても、日本の憲法がその歴史と国体とに鑑み、また欧米の憲法史及びその論理を研究して起草されたものであることを深く調べたものあるを見ることができない。ただ欧州の憲法学者または法律学者の理論を根拠として解釈するもののみ。この不磨の大典は日本の歴史を咀嚼し、かつその起草の沿革を熟知するに非ざれば、決して正当なる解釈をなすことはできないと思います。
先年アメリカから取り寄せました。「モダーン・ヒストリー」(近世史)という書物を読みました。この本はコロンビア大学の教授で歴史の専門家であるヘイ、ムーンという両人が合著したものでありまして、つい五、六年前の事まで書いてあります。その中に非常に私に感動を与えたことがありました。その句に曰く、欧州大戦に於いて、彼の国威赫赫(かくかく)たるドイツ帝国は亡び、ロシアも亡び、オーストリアも亡び、三大帝国は亡びてしまった、今日ヨーロッパに残っている帝国は、イギリス、ベルギー、イタリア等の諸国を算するのみである、しかしこれらの諸国は帝国というのも名のみであって、その実は民衆主義が権力を持っておる、ここに目を転じて全世界を見れば、神聖不可侵皇帝の在すは、ただ独り日本帝国一カ国のみと。神聖不可侵皇帝はただ独り日本帝国あるのみと近世史を書いたヘイとムーンの二学者が言っておる。私は早速丸善に言い付けて五、六十部取り寄せるように言っておきましたから、諸君が彼の書店にお出でになったらありましょう。
これを要するに日本は世界無比の帝国でありまた世界無比の憲法を有しておることは、我々大和民族の非常な名誉でありまた誇りである。しかるにこの名誉と誇りを損なうような憲法の解釈を弄することは、甚だ遺憾に耐えない。私は豈(あ)に徒らに弁を好む者ではないが、ただ憲法制定の残存者の一人として 明治天皇の偉大なる宏謨(こうぼ)を奉戴し、伊藤公がその卓見をもって起草せられたることを、諸君に説明する義務を尽くさんと欲するのみである。我々日本臣民は全力を尽くしてこの不磨の大典の憲法を擁護しなければなりませぬ。これが日本帝国の臣民として 明治天皇に対し奉る義務である。蓋し日本の憲法は 明治天皇の御代までは成文としてはなかったが、その精神その原理は、二千五百有余年間天日の如く炳乎(へいこ)として儼存(げんそん)しておった。それが一度 明治天皇の叡慮によって成典となって現るるや、世界の政治家、憲法学者が異口同音に賞賛の声を放ち、また立憲国の淵源(えんげん)たる英国の憲法学者は、日本の憲法以上の憲法は我々に於いて起草すること能わずと、賞賛嘆美の言葉を惜しまなかった。これ偏(ひとえ)に 明治天皇の御稜威(みいつ)の然らしむるところであると誠に感激に堪えざる次第である。よって何卒この光輝ある憲法、この世界無比の憲法が、少しもその尊厳を毀損することなく、益々その光彩を発揮せんことを、我々は日本臣民の義務として諸君と共に粉骨砕身して力を尽くしたいと思います。
今日は炎暑の際長時間に亘り清聴を汚しまして誠に恐縮に存じます。終わりに臨んで今日私をして一場の演説をお与え下さった松田文部大臣閣下に対しても、厚く御礼を申し上げます。
(終わり)
これは昭和十年七月の講演の内容です。その十年後に敗戦となり、 GHQと国内の共産主義者らによって不磨の大典の帝国憲法を改正させられました。この帝国憲法を守れなかったのは日本国民の責任でもあります。戦前も戦後も日本では憲法学者は頼りになりません。イギリスではなく、ドイツやフランスの大陸系の憲法学ばかり勉強しているから、わからなくなるのです。この金子賢太郎伯爵の講演録を読み、日本の歴史を学び直してから日本の憲法をどうすべきかを考えてもらいたいです。憲法のことは憲法学者や政治家に任せるのではなく、一般国民もそれなり勉強するべきと思います。その時にこの講演録が参考になれば幸いです。
52ページからの引用です。
以上は日本憲法制定の精神と欧米各国学者政治家の批評であります。それでこれを一言にして申せば、日本憲法は 明治天皇の遠大なる叡慮により国体に基づいて、海外諸国の憲法を斟酌し、その長を採り短を捨て、我が皇基を振起せよとの五ヶ条の御誓文を畏(かしこ)みて起草せられたものである。故に日本の歴史及び国体を知らずして日本の憲法を解釈線とすることはそもそも間違いである。従来日本の憲法学者のいろいろ著述した書冊を見ましても、日本の憲法がその歴史と国体とに鑑み、また欧米の憲法史及びその論理を研究して起草されたものであることを深く調べたものあるを見ることができない。ただ欧州の憲法学者または法律学者の理論を根拠として解釈するもののみ。この不磨の大典は日本の歴史を咀嚼し、かつその起草の沿革を熟知するに非ざれば、決して正当なる解釈をなすことはできないと思います。
先年アメリカから取り寄せました。「モダーン・ヒストリー」(近世史)という書物を読みました。この本はコロンビア大学の教授で歴史の専門家であるヘイ、ムーンという両人が合著したものでありまして、つい五、六年前の事まで書いてあります。その中に非常に私に感動を与えたことがありました。その句に曰く、欧州大戦に於いて、彼の国威赫赫(かくかく)たるドイツ帝国は亡び、ロシアも亡び、オーストリアも亡び、三大帝国は亡びてしまった、今日ヨーロッパに残っている帝国は、イギリス、ベルギー、イタリア等の諸国を算するのみである、しかしこれらの諸国は帝国というのも名のみであって、その実は民衆主義が権力を持っておる、ここに目を転じて全世界を見れば、神聖不可侵皇帝の在すは、ただ独り日本帝国一カ国のみと。神聖不可侵皇帝はただ独り日本帝国あるのみと近世史を書いたヘイとムーンの二学者が言っておる。私は早速丸善に言い付けて五、六十部取り寄せるように言っておきましたから、諸君が彼の書店にお出でになったらありましょう。
これを要するに日本は世界無比の帝国でありまた世界無比の憲法を有しておることは、我々大和民族の非常な名誉でありまた誇りである。しかるにこの名誉と誇りを損なうような憲法の解釈を弄することは、甚だ遺憾に耐えない。私は豈(あ)に徒らに弁を好む者ではないが、ただ憲法制定の残存者の一人として 明治天皇の偉大なる宏謨(こうぼ)を奉戴し、伊藤公がその卓見をもって起草せられたることを、諸君に説明する義務を尽くさんと欲するのみである。我々日本臣民は全力を尽くしてこの不磨の大典の憲法を擁護しなければなりませぬ。これが日本帝国の臣民として 明治天皇に対し奉る義務である。蓋し日本の憲法は 明治天皇の御代までは成文としてはなかったが、その精神その原理は、二千五百有余年間天日の如く炳乎(へいこ)として儼存(げんそん)しておった。それが一度 明治天皇の叡慮によって成典となって現るるや、世界の政治家、憲法学者が異口同音に賞賛の声を放ち、また立憲国の淵源(えんげん)たる英国の憲法学者は、日本の憲法以上の憲法は我々に於いて起草すること能わずと、賞賛嘆美の言葉を惜しまなかった。これ偏(ひとえ)に 明治天皇の御稜威(みいつ)の然らしむるところであると誠に感激に堪えざる次第である。よって何卒この光輝ある憲法、この世界無比の憲法が、少しもその尊厳を毀損することなく、益々その光彩を発揮せんことを、我々は日本臣民の義務として諸君と共に粉骨砕身して力を尽くしたいと思います。
今日は炎暑の際長時間に亘り清聴を汚しまして誠に恐縮に存じます。終わりに臨んで今日私をして一場の演説をお与え下さった松田文部大臣閣下に対しても、厚く御礼を申し上げます。
(終わり)
これは昭和十年七月の講演の内容です。その十年後に敗戦となり、 GHQと国内の共産主義者らによって不磨の大典の帝国憲法を改正させられました。この帝国憲法を守れなかったのは日本国民の責任でもあります。戦前も戦後も日本では憲法学者は頼りになりません。イギリスではなく、ドイツやフランスの大陸系の憲法学ばかり勉強しているから、わからなくなるのです。この金子賢太郎伯爵の講演録を読み、日本の歴史を学び直してから日本の憲法をどうすべきかを考えてもらいたいです。憲法のことは憲法学者や政治家に任せるのではなく、一般国民もそれなり勉強するべきと思います。その時にこの講演録が参考になれば幸いです。
帝国憲法制定の精神 五(下)
金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
46ページからの引用です。
次にイギリスに渡りました。予(かつ)て懇意なるハーバート・スペンサーを直に訪(おとな)うて、一週間程前に送って置きました日本憲法について貴下の意見を聴きたいと申しましたところ、同人が大体または各条について縷々(るる)述べました批評は今ここには省略しまして、結論だけはこうであります。
日本の憲法は日本の歴史と同一の精神及び性質を有するにあらざれば将来これを実施すすに当たり非常なる困難を生じ、遂に憲法政治の目的を達すること能わざるにいたらん。蓋(けだ)し日本の憲法は欧米諸国の憲法を翻訳し、直にこれを採用して外国と同一の結果を得んと欲するは誤解の甚だしきものなり。今この憲法を一読するに日本古来の歴史、習慣を本とし起草せられたるは、余の最も賞賛するところなり。
次にオックスフォード大学の憲法講座を持つアンソン法学部長に面会しました。この人はドイツでも、フランスでも、米国でも、アンソンの憲法上の議論とあらば、皆耳を傾けて聞くと言われる程の憲法のオーソリティー(権威者)であります。この人には私は二回も会って彼の質問に答え、また私も意見を述べましたが、それを総括して申しますと。
日本憲法の精神は主権者の大権は悉く 天皇にありて 天皇が万機を総攬し給うにあり。これ世人は日本憲法を評してドイツ主義を学びたりと言うといえども、英国憲法を遠く古(いにしえ)に溯(さかのぼ)って深く研究すれば、その精神もまた実にこの精神に他ならざるなり。これ世人が英国政治の実際にのみ注目して、英国憲法の歴史とその精神とを識別せざるに依るなり。
これを要するにアンソンの意見は日本の 天皇が大権を総攬遊ばされるのはイギリスで国王が中心に成って居らるる憲法の歴史と同じである。その点は日本もイギリスに似て居ると言うのであります。
次は同じくオックスフォード大学の憲法学者ダイシーと面談しました。この人は、日本が財政についてドイツ流を採用したことを賞賛しました。
曰く、
日本憲法中、財政についてドイツ流を採用して、イギリス議会の財政監督権を採用せざるを見て、大に日本憲法の強固善良なるに敬服す。憲法第六十七条の如きは英国の例に倣(なら)わず、ドイツ皇帝が法律に依らず財務行政に依って数多の財政処分を為すことを得る例に倣い、財政案議決権を帝国議会より減殺し、永久経費を削除軽減することを得ざらしめ、以って国家に必要なる政務を処理継続することを得せしめたるは、日本の将来に大なる影響を及ぼすのみならず、憲法学の原理を確定するに至らん。これ英国の憲法より日本の憲法が一層優秀なるものとして余の感服するところなり。もし余をして新たに憲法を起草せしめんか、この日本帝国の憲法に依るの外なきなり。
ダイシーは世界に雄名を轟かしたる憲法学者である。この人にしてもし新たに興る国より憲法を起草せよと頼まれても、伊藤公の起草せられたる憲法以外に筆を執ること能わずというのでありまして、日本憲法は非常な好評を博したのであります。
次にオックスフォード大学の公法教授ゼイムス・ブライスに面談しました。この人は縷々グラッドストンの内閣に列したる人である。この人の意見書は長文でありますからその結論だけ申します。
日本憲法は全体より評すれば、慎思熟慮を費やして起草したるものと言うべし。就中(なかんずく)その条章の簡約にして能く詳細の規定を避けたるは、起草者の深く注意せしところなるべし。殊に重大なる権力を 天皇の統治に帰し、陸海軍統帥の大権と共に国務上の大権を総攬し給い、英国の君主よりも多くの行政命令発布権を 天皇が有せらるることを明記したるは起草者の賢明なる識見なりと感服す。
それから帰途再びアメリカに立ち寄りマサチューセッツ州の大審院院長ホームスに面会しました。この人はかつてハーバード大学にて法律学の講師時代に私に法律学を教えた先生である。この人の批評の要領を述ぶれば、
憲法学の原理程各種の法律学に於いて不定にして且つ不強固なるものはあらざるなり。故に憲法学の位置を称して変遷の時代にありという。この見地より日本憲法を見れば、余が最も賞賛するところは日本古来の歴史、制度、習慣に基づき、しかしてこれを修飾するに欧米の憲法学の論理を適用したるにあり。蓋し欧米の憲法は欧米諸国には適当なるも欧米と歴史を異にする日本国には適応せざるなり。
このホームスの意見の要点は憲法ほど原理の定まっていないものはない。また憲法は移り変わるものである。故に外国の憲法を翻訳してそのまま之を行うということは大間違いである。いずれの国にもその国固有の歴史習慣があるから、それを土台として憲法を作るのが当たり前である。そこを伊藤公が見破って起草されているから感心するというのであります。
次にハーバード大学の憲法の講義を受け持っているサヤー教授に面会しました。この人は私が先年米国留学中彼の大学にて法律学を教わった先生であります。この人の評がありますが、長いから省略して結論だけ申します。
日本憲法第六十七条の憲法上の大権に基づける既定の歳出とは即ち第十条の 天皇は行政各部の官制及び文武官の棒給、第十二条の 天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定むるという二項に関する歳出なり。元来 天皇の御趣旨はたとい憲法を制定して立憲政治を実施すると雖も、国防及び内外の政務については、政府は旧来の如く百年一日の如く継続して、専ら国家の存続を図るをもって第一の目的とすべきものなりというにあり。
これを要するにサヤーの意見は文武官の棒給、陸海軍の常備兵額の如きものは、たとい議会が解散になろうとも、規定の歳出は前年度の予算を施行することを得る様に規定せられて、百年一日の如く国家の存続を完全ならしめられた。よって将来はこの主義により欧米の憲法の原則も変わってくるであろうとまで言うのである。
私は帰朝の後、これらの事を詳しく伊藤公に報告致しましたところ、伊藤公も耳を傾けて聴いておられましたが、私の報告が終わりますと、伊藤公の言わるるには、我輩は君が出発してから帰って来るまで大磯の別荘で日夜どう言うようにヨーロッパ、アメリカの政治家や憲法学者が批評するであろうかと、内心ビクビクしておったが、今君から詳しい報告を聴いて安心した。ただに非難せぬばかりか賞賛の言葉を聴くに至っては実に悦ばしい。明日は早速上京して 陛下に拝謁を願い憲法起草の責任解除を奏請せんと言われました。しかして翌日は上京し、参内せられました。しかし責任解除の勅命があったかどうかは九重雲深くして私は存じませぬ。その後私も宮中に召され山縣総理大臣と共に御前に於いてヨーロッパ、アメリカの政治家、学者の意見即ちただ今申しました事を一時間ばかり上奏致しました。
46ページからの引用です。
次にイギリスに渡りました。予(かつ)て懇意なるハーバート・スペンサーを直に訪(おとな)うて、一週間程前に送って置きました日本憲法について貴下の意見を聴きたいと申しましたところ、同人が大体または各条について縷々(るる)述べました批評は今ここには省略しまして、結論だけはこうであります。
日本の憲法は日本の歴史と同一の精神及び性質を有するにあらざれば将来これを実施すすに当たり非常なる困難を生じ、遂に憲法政治の目的を達すること能わざるにいたらん。蓋(けだ)し日本の憲法は欧米諸国の憲法を翻訳し、直にこれを採用して外国と同一の結果を得んと欲するは誤解の甚だしきものなり。今この憲法を一読するに日本古来の歴史、習慣を本とし起草せられたるは、余の最も賞賛するところなり。
次にオックスフォード大学の憲法講座を持つアンソン法学部長に面会しました。この人はドイツでも、フランスでも、米国でも、アンソンの憲法上の議論とあらば、皆耳を傾けて聞くと言われる程の憲法のオーソリティー(権威者)であります。この人には私は二回も会って彼の質問に答え、また私も意見を述べましたが、それを総括して申しますと。
日本憲法の精神は主権者の大権は悉く 天皇にありて 天皇が万機を総攬し給うにあり。これ世人は日本憲法を評してドイツ主義を学びたりと言うといえども、英国憲法を遠く古(いにしえ)に溯(さかのぼ)って深く研究すれば、その精神もまた実にこの精神に他ならざるなり。これ世人が英国政治の実際にのみ注目して、英国憲法の歴史とその精神とを識別せざるに依るなり。
これを要するにアンソンの意見は日本の 天皇が大権を総攬遊ばされるのはイギリスで国王が中心に成って居らるる憲法の歴史と同じである。その点は日本もイギリスに似て居ると言うのであります。
次は同じくオックスフォード大学の憲法学者ダイシーと面談しました。この人は、日本が財政についてドイツ流を採用したことを賞賛しました。
曰く、
日本憲法中、財政についてドイツ流を採用して、イギリス議会の財政監督権を採用せざるを見て、大に日本憲法の強固善良なるに敬服す。憲法第六十七条の如きは英国の例に倣(なら)わず、ドイツ皇帝が法律に依らず財務行政に依って数多の財政処分を為すことを得る例に倣い、財政案議決権を帝国議会より減殺し、永久経費を削除軽減することを得ざらしめ、以って国家に必要なる政務を処理継続することを得せしめたるは、日本の将来に大なる影響を及ぼすのみならず、憲法学の原理を確定するに至らん。これ英国の憲法より日本の憲法が一層優秀なるものとして余の感服するところなり。もし余をして新たに憲法を起草せしめんか、この日本帝国の憲法に依るの外なきなり。
ダイシーは世界に雄名を轟かしたる憲法学者である。この人にしてもし新たに興る国より憲法を起草せよと頼まれても、伊藤公の起草せられたる憲法以外に筆を執ること能わずというのでありまして、日本憲法は非常な好評を博したのであります。
次にオックスフォード大学の公法教授ゼイムス・ブライスに面談しました。この人は縷々グラッドストンの内閣に列したる人である。この人の意見書は長文でありますからその結論だけ申します。
日本憲法は全体より評すれば、慎思熟慮を費やして起草したるものと言うべし。就中(なかんずく)その条章の簡約にして能く詳細の規定を避けたるは、起草者の深く注意せしところなるべし。殊に重大なる権力を 天皇の統治に帰し、陸海軍統帥の大権と共に国務上の大権を総攬し給い、英国の君主よりも多くの行政命令発布権を 天皇が有せらるることを明記したるは起草者の賢明なる識見なりと感服す。
それから帰途再びアメリカに立ち寄りマサチューセッツ州の大審院院長ホームスに面会しました。この人はかつてハーバード大学にて法律学の講師時代に私に法律学を教えた先生である。この人の批評の要領を述ぶれば、
憲法学の原理程各種の法律学に於いて不定にして且つ不強固なるものはあらざるなり。故に憲法学の位置を称して変遷の時代にありという。この見地より日本憲法を見れば、余が最も賞賛するところは日本古来の歴史、制度、習慣に基づき、しかしてこれを修飾するに欧米の憲法学の論理を適用したるにあり。蓋し欧米の憲法は欧米諸国には適当なるも欧米と歴史を異にする日本国には適応せざるなり。
このホームスの意見の要点は憲法ほど原理の定まっていないものはない。また憲法は移り変わるものである。故に外国の憲法を翻訳してそのまま之を行うということは大間違いである。いずれの国にもその国固有の歴史習慣があるから、それを土台として憲法を作るのが当たり前である。そこを伊藤公が見破って起草されているから感心するというのであります。
次にハーバード大学の憲法の講義を受け持っているサヤー教授に面会しました。この人は私が先年米国留学中彼の大学にて法律学を教わった先生であります。この人の評がありますが、長いから省略して結論だけ申します。
日本憲法第六十七条の憲法上の大権に基づける既定の歳出とは即ち第十条の 天皇は行政各部の官制及び文武官の棒給、第十二条の 天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定むるという二項に関する歳出なり。元来 天皇の御趣旨はたとい憲法を制定して立憲政治を実施すると雖も、国防及び内外の政務については、政府は旧来の如く百年一日の如く継続して、専ら国家の存続を図るをもって第一の目的とすべきものなりというにあり。
これを要するにサヤーの意見は文武官の棒給、陸海軍の常備兵額の如きものは、たとい議会が解散になろうとも、規定の歳出は前年度の予算を施行することを得る様に規定せられて、百年一日の如く国家の存続を完全ならしめられた。よって将来はこの主義により欧米の憲法の原則も変わってくるであろうとまで言うのである。
私は帰朝の後、これらの事を詳しく伊藤公に報告致しましたところ、伊藤公も耳を傾けて聴いておられましたが、私の報告が終わりますと、伊藤公の言わるるには、我輩は君が出発してから帰って来るまで大磯の別荘で日夜どう言うようにヨーロッパ、アメリカの政治家や憲法学者が批評するであろうかと、内心ビクビクしておったが、今君から詳しい報告を聴いて安心した。ただに非難せぬばかりか賞賛の言葉を聴くに至っては実に悦ばしい。明日は早速上京して 陛下に拝謁を願い憲法起草の責任解除を奏請せんと言われました。しかして翌日は上京し、参内せられました。しかし責任解除の勅命があったかどうかは九重雲深くして私は存じませぬ。その後私も宮中に召され山縣総理大臣と共に御前に於いてヨーロッパ、アメリカの政治家、学者の意見即ちただ今申しました事を一時間ばかり上奏致しました。
2017年5月7日日曜日
帝国憲法制定の精神 五(上)
金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
42ページからの引用です。
明治二十二年二月十一日の紀元節に憲法発布がありました。さて憲法できたが議会は如何にして開くかにつき政府はいろいろの準備をしなければならぬ。よって私は欧米各国
の議会の内部の組織及び憲法運用の模様を視察するの必要を建議し、政府はこれを認め
、六月十一日私に欧米派遣の命がありました。よって中橋徳五郎、太田峰三郎、水上浩躬、木内重四郎の四人を随行とし欧米諸国を巡回した。私が出発する以前に伊藤公の言悪るには憲法は我輩が 明治天皇の叡旨を奉じ、君ら三人の他には誰にも相談しないで起草したために、世人は、伊藤がビスマルクの政策に倣い、ドイツの憲法を真似て書いたと言って攻撃したが、決してそうではない、それで君が欧米諸国に行ったならば、彼の国の政治家、憲法学者より忌憚なき批評を聴いて来て貰いたいと言われた。よって私は枢密院において英文に反訳した憲法を携えて渡航しました。
まず第一にアメリカに渡りまして彼の国の国務長官ゼイムス・ブレーンに面会しました。この人は学者でまた政治家である。アメリカの国務長官の職務として合衆国憲法の解釈及び各州創立の際に於ける州の憲法許可権を有する重要な地位にある人であります。この人に面会致しました時ブレーン曰く、
「私は日本政府から憲法の英訳したものを受け取ったが、実は多忙にしてまだ読んでいない、聞くところよれば貴下は起草者の一人であるからまず愚見を述べて後にお尋ねしたいことがある。もし今日私が憲法を起草するならばこう言う方針で書きたいと思う。それは自分が四十年間合衆国憲法を研究しまた国務長官として新設州の憲法を許否したる実験によって、こう言う方針を以って憲法は起草すべきものと信ずる。
第一、憲法は一国政治の基本なるが故に、政治に必要なる大体の原則を掲載し、その細目の如きは悉くこれを省略して普通の法律又はその他の規則に譲るべきものとす。しかるにこの点については英国を初め欧州各国皆誤りてり。何となれば彼の諸国の憲法を制定したるは、全く国家革命の機運に際会し、あるいは人民の強迫によりたればなり。故に原則と細目とを識別せず悉くこれを憲法に掲載したり。
第二、君主の大権については英国の先例に依らざることに努むべし。英国は大権君主に存せず、彼の国に於いてはこれを最も良法なりと思考するが如し。然れども他国に於いてはその歴史も英国と同一ならざる以上は、これに依るべきものに非ざるなり。
第三、大臣の責任は英国の慣例に依り発達し来たり、各国皆その流儀に随えり。然れども大臣にして一度君主より任命せられたる以上はその責任は全く君主に対する責任にして、議会に於いて敢えて進退すべきものに非ざるなり。殊に日本の如きは三千年来の君主国なれば大臣の責任は 天皇に対してのみあるものにして、議会の対して有せざることを制定したきものなり。現にアメリカの大統領及び大臣は、国民一般に対して責任を有するも議会に対しては直接に責任を有せざるなり。」
こう言う方針で私は憲法を書きたいと思うが、貴下は憲法を起草したというが、どういう風に起草せられたかと尋ねられました。依って私は丁度貴官の御意見の通りに伊藤公は起草せられた、我々はそれを手伝った、と申しますと、彼は膝を叩いて、それだけが日本憲法にあれば実はあとはどうでも良い位のものだと言って非常に喜んだ。これがアメリカ第一流の政治家の意見でありました。
それからフランスに渡って、ルボンという人に会いました。この人はパリの大学で憲法の講座を受け持ち、また上院議長の秘書官でありました。後に農商務大臣になった人であります。この人とは度々会って懇談も致しました。また長文の意見を書いて私に送ってくれました。しかしその意見を述べますれば長くなりますからここでは本人の批評の結論だけ申すことに致します。
「帝国憲法第十二条に 天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む、第五十五条に国務各大臣は 天皇を輔弼しその責に任ずとある点その他予算についても多少の意見もないことはないが、憲法全般を通じて評論すれば前記の二ケ条を初めとし何も精巧なる編成である。」
と言ったのが、この人の結論でありました。
42ページからの引用です。
明治二十二年二月十一日の紀元節に憲法発布がありました。さて憲法できたが議会は如何にして開くかにつき政府はいろいろの準備をしなければならぬ。よって私は欧米各国
の議会の内部の組織及び憲法運用の模様を視察するの必要を建議し、政府はこれを認め
、六月十一日私に欧米派遣の命がありました。よって中橋徳五郎、太田峰三郎、水上浩躬、木内重四郎の四人を随行とし欧米諸国を巡回した。私が出発する以前に伊藤公の言悪るには憲法は我輩が 明治天皇の叡旨を奉じ、君ら三人の他には誰にも相談しないで起草したために、世人は、伊藤がビスマルクの政策に倣い、ドイツの憲法を真似て書いたと言って攻撃したが、決してそうではない、それで君が欧米諸国に行ったならば、彼の国の政治家、憲法学者より忌憚なき批評を聴いて来て貰いたいと言われた。よって私は枢密院において英文に反訳した憲法を携えて渡航しました。
まず第一にアメリカに渡りまして彼の国の国務長官ゼイムス・ブレーンに面会しました。この人は学者でまた政治家である。アメリカの国務長官の職務として合衆国憲法の解釈及び各州創立の際に於ける州の憲法許可権を有する重要な地位にある人であります。この人に面会致しました時ブレーン曰く、
「私は日本政府から憲法の英訳したものを受け取ったが、実は多忙にしてまだ読んでいない、聞くところよれば貴下は起草者の一人であるからまず愚見を述べて後にお尋ねしたいことがある。もし今日私が憲法を起草するならばこう言う方針で書きたいと思う。それは自分が四十年間合衆国憲法を研究しまた国務長官として新設州の憲法を許否したる実験によって、こう言う方針を以って憲法は起草すべきものと信ずる。
第一、憲法は一国政治の基本なるが故に、政治に必要なる大体の原則を掲載し、その細目の如きは悉くこれを省略して普通の法律又はその他の規則に譲るべきものとす。しかるにこの点については英国を初め欧州各国皆誤りてり。何となれば彼の諸国の憲法を制定したるは、全く国家革命の機運に際会し、あるいは人民の強迫によりたればなり。故に原則と細目とを識別せず悉くこれを憲法に掲載したり。
第二、君主の大権については英国の先例に依らざることに努むべし。英国は大権君主に存せず、彼の国に於いてはこれを最も良法なりと思考するが如し。然れども他国に於いてはその歴史も英国と同一ならざる以上は、これに依るべきものに非ざるなり。
第三、大臣の責任は英国の慣例に依り発達し来たり、各国皆その流儀に随えり。然れども大臣にして一度君主より任命せられたる以上はその責任は全く君主に対する責任にして、議会に於いて敢えて進退すべきものに非ざるなり。殊に日本の如きは三千年来の君主国なれば大臣の責任は 天皇に対してのみあるものにして、議会の対して有せざることを制定したきものなり。現にアメリカの大統領及び大臣は、国民一般に対して責任を有するも議会に対しては直接に責任を有せざるなり。」
こう言う方針で私は憲法を書きたいと思うが、貴下は憲法を起草したというが、どういう風に起草せられたかと尋ねられました。依って私は丁度貴官の御意見の通りに伊藤公は起草せられた、我々はそれを手伝った、と申しますと、彼は膝を叩いて、それだけが日本憲法にあれば実はあとはどうでも良い位のものだと言って非常に喜んだ。これがアメリカ第一流の政治家の意見でありました。
それからフランスに渡って、ルボンという人に会いました。この人はパリの大学で憲法の講座を受け持ち、また上院議長の秘書官でありました。後に農商務大臣になった人であります。この人とは度々会って懇談も致しました。また長文の意見を書いて私に送ってくれました。しかしその意見を述べますれば長くなりますからここでは本人の批評の結論だけ申すことに致します。
「帝国憲法第十二条に 天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む、第五十五条に国務各大臣は 天皇を輔弼しその責に任ずとある点その他予算についても多少の意見もないことはないが、憲法全般を通じて評論すれば前記の二ケ条を初めとし何も精巧なる編成である。」
と言ったのが、この人の結論でありました。
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