前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 52ページ
近衛さんはこれより二ヶ月ほど前の昭和二十年の二月十四日拝謁されたのだが、その前から何時拝謁されるということは、われわれ同志の間では知っておった。いよいよ拝謁をして、お話を申し上げて、こういうことを申し上げたんだ、ということを知っておった。近衛さんにお目に掛からなくても、チャンと知って居った。それをわれわれの目的への一歩前進ぐらいに思って喜んでおった。それを陸軍が嗅ぎつけてわれわれを捕まえたのだ。ということが判った。問題の焦点は明らかになったから、私は非常に安心した。その晩は留置場の自分の室に帰ってから、グッスリ睡ることが出来た。
その近衛さん上奏というのは、岩淵君が“世界文化”に「近衛上奏文」と題して出している。あれは私の書いたものではない。私の書いたものはもっと長いもので、もっと詳細に深刻な言辞を連ねてあるものだ。しかし、近衛上奏文も近衛さんが私達からいろいろな話を聴いていて、われわれの主張の線に沿って、自分で書かれたもので、非常によく出来ているものだ。
近衛さんは上奏される前の晩、平河町の吉田さんの邸へ来て泊られた。翌日吉田さんの自動車に乗って宮中に行き、拝謁して帰って来た。非常に久し振りに拝謁して、その結果は近衛さんとして意外だったらしい。
近衛さんは陛下の御信任が全くなくなっていると思っておった。私共がどうしても近衛さんが出なければ駄目だと言っても、出ようという意思表示はされなかった。「私は駄目ですよ、駄目ですよ」と言っていた。それ故に私たちのプランの中に小林さんが登場したり、宇垣さんが登場したりしたものだ。なぜ近衛さんがウンといわないかといえば、陛下の御信任が自分を去っている。だから、到底大命が降下するこはない、と考えておったのではないかと思う。しかし、それは近衛さんの錯覚であって、陸軍の近衛さんに対する信望が全くなくなっておったことを、陛下の信任がなくなったと混同して考えておったと私は思う。しかし、そういうふうに見えるくらいまでに、陸軍は陛下の聖明を覆うておったのである。
その上奏文は近衛さんが湯河原で自分で書かれたものだそうだ。罫紙に約十枚ばかりのもので、それには、ロシアは信頼ができません、ロシアはこういうふうな不都合なことをやっております。日本の陸軍というものは陰謀の府であります。これでは正しい政治は絶対に行われません、戦も出来ません、というような趣旨が書いてある。終戦後に考えても、実に立派な上奏文である。
その拝謁になるまでの道筋が面白い。私たちは政変があったら、小林さんを登場させて、小林さんによって上奏させようと思っていたが駄目になった。それからは政変の時に限らず、誰か拝謁して上奏できればいい。その任に当たる者は近衛さん以外にない。そこで近衛さんに、拝謁して陛下にいろいろ申し上げてもらいたい。と言っておったわけで、それから近衛さんは拝謁したいということをお願いしておったのだろうが、宮中は用心堅固でなかなか拝謁が出来ない。恐らく木戸君が侍従長の所で押さえている。公の職務のある人以外は拝謁が出来ない。何事でも政府及び軍部以外の声をお耳に入れない、という事にしてしまった。近衛さんは第三次近衛内閣を退陣した時以来殆ど拝謁しておられない。御会合の時に、大勢と一緒に集まるようなことはあったかも知れんが・・・
ところが、たしか十九年の終わりだと思うが、牧野伸顕伯が、夫人が亡くなられて、その喪が過ぎてから、忌明けの御礼というものに参内された。そして東御車寄へいって忌明け御礼の記帳をされた。そこへ木戸君が出て来た。多分、牧野さんが見えたと連絡があって、すぐ内大臣府から出て来たものと見える。そこで、「今日は非常によい時においでになりました。いま陛下は御暇ですから、拝謁なすってはどうですか」こう言ったそうだ。それから牧野さんが「いや、私は忌明けの御礼に伺ったので、畏れ多いから拝謁なぞ出来ません。またの機会に・・・」と言って帰られた。そしてその話が吉田さんの方に伝わって来た。そこで、拝謁が必ずしも出来ない訳では無いではないか、それでは一つ拝謁をお許し願おうということで、それを鈴木貫太郎さんに話して、鈴木さんから侍従長の藤田尚徳という海軍大将に話をして、何とか近衛さんが拝謁出来るようにしてもらいたいということを頼んだ。
その二人の骨折りで拝謁のことを取り計らうということになったが、今のような大きな原則が出来ているから拝謁ということでは許されない。ただ重臣が天機奉伺に御車寄へ記帳に見えたら、その時にさっきの牧野さんの場合と同じくお暇だからというので拝謁を賜るということになった。それがすぐわれわれの方へ伝わって来た。重臣というと東條も一緒だ、それと一緒に拝謁を賜ったのでは何の事かわからない。と言ってまた運動したわけだが、それでは一人一人日を決めて、誰は何日、誰は何日ということでやろうということになった。一番初め広田弘毅氏が出た。何でも、ソ連を頼りにして、ソ連に縋らなければならぬ、というようなことを申し上げたそうだ。その次に平沼さんは伊勢の外宮が空襲に遇われて甚だ遺憾だ、といった話をされた。みんな時間は五分間位であったそうだ。そして二月十四日に、近衛さんがゆくことに決まったのである。この日、近衛さんは意外と長い間拝謁を賜って、椅子に掛けろと仰って椅子を賜った。そこで近衛さんはかねて用意している原稿によって申し上げた。その時、近衛さんがソ連頼るべからずという話を申し上げると、「参謀総長の梅津は数日前に拝謁して、ソ連のみが頼るに足るというておったが、それはどういうわけだ」という御質問があったそうだ。それから、それでは陸軍大臣を誰にする、陸軍を粛正する人を誰にするという話になった時に、われわれ同志の間では真崎大将に決まってるのに、近衛さんはハッキリそう申し上げず、三人候補者を挙げたのだ。宇垣と石原と真崎と申し上げた。そこで近衛式である。ただ、その中でも真崎が一番適任でありますと申し上げたそうである。次に杉山元はどうだというようなことも話題に上ったらしい。それで、元帥でないと陸軍が治まり悪くはないか、というようなお話が出て、しかし今頃元帥であろうとなかろうと、そんなことはこの大切な時には問題ではないでしょう。要は本人の実力でございますと申し上げて、それをきっかけとして陛下もお笑いになるし、近衛さんも笑って非常に和気靄然たる雰囲気を醸し出されたわけである。唯、その笑った時に陛下と近衛さん以外に笑った者がある。木戸君であった。そこで私共が疑うのは、木戸君がその上奏の内容を洩らしたのではないか。それから、これは近衛さんに訊いて見なかったが、近衛さんと木戸君のことだから、上奏をして退出する時に木戸君の所へ寄って、近衛さんの意見をもう一つ詳細に述べただろうと思う。木戸君からそれが陸軍の誰に洩れたか判らないが、木戸君は梅津美治郎と非常に親しくって、信頼していてたようだから、梅津にその話をしたのではなかろうか、それは悪意ではなかったろう。こういうことを近衛君が言った、君はどう思うというようなことを話したのではなかろうか。
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