非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行
96ページより
十七、統帥権と各思想との関係
皆さんも未だによく記憶して居らるる事と思うが、最もやかましかった第一次ロンドン会議の如き、その時に標語は世界平和のための軍縮会議、また国民の負担を軽減するために軍縮をやるんだというのであったが、その結果は先に詳しく言ったように全く正反対に国内に於ける各種不祥事の原因となり、また今次事変の間接の大原因となっている次第である。金もまた昨年は八十億、本年も百億に近い膨大な予算を要する事になったのである。何事もご都合主義に目前の難を避け、易につき、その日その日の事なかれ主義をやっておると、最後には大事になることは之によって明らかである。それだから常に確固たる指導原理を持ち、これを規尺として物の善悪を、事の是非を判別して大義名分の下に解決して行くようにする事が必要である。次に統帥権と各思想との関係を述べると一番はっきり分かるからお話するが、自由主義は統帥権の独立ということを認めない。これは日本独特の国体を真に認めぬから左様になる訳である。しかして統帥権の独立は国体を直接擁護して行く力である。だから前にも言った通りに勅諭の中にも
「その兵馬の大権は朕が統(す)ぶるるところなればその司司をこそ臣下には任すなれ、その大綱は朕親(みずから)之を撹(と)り肯(あ)て臣下に委ぬべきものにあらず、子々孫々に至るまで篤く斯く旨を伝え天子は文武の大権を掌握するの義を存して再び中世(なかつよ)以降の如き失体なからんことを望むなり」
と仰せになっているのである。この軍隊に賜った勅諭がもう少し一般に普及しておると、そういう点がはっきりと一般にも分かって来ると思うのであるが、一般の方はご承知がないから困る。そういう風な大事な統帥権に関して、自由主義はこれを政府のものなり、即ち議会の監督を受くべきものなり、という風に解釈している。それだからそれに対抗して統帥権の独立が叫ばれたのであるが、本当に皇道精神をもってこの独立を主張したのと、それからファッシズム精神をもってこの独立を叫んだのと二つあった訳である。言語から見ると二つとも独立であるから、差別はないように思われたが、それが誤りの初めであって、一面今日ファッショを日本精神の如く考えたのもこの所に起因する点もあるのである。そこで、独立は独立だけれどもファッシズムの思想から言えば、その統帥権は自分のものだと考える、自分の独占と考える。そう考えるからいわゆる日本にあるまじき各種の事件が起こって来る訳である。一体皇軍は国体擁護のためになるのであるから、これを破壊する者は内敵たると外敵たるを問わず、討伐すべきであるけれども、之は自分勝手に討伐すべきではない。一に絶対に大命に依って発動すべきである。ところが権力至上主義に捉われると権力の権化となり何事も独占の感にとらわれ、遂に自分が権力者になり切って、自分の判断で勝手に討伐するような間違いが起こりやすいのである。
日本精神からいうと統帥権の独立を叫ぶのは本当に 陛下のものにせんが為である。凡て軍隊の発動は大命に依るべきものであると思っているからそこに過ちが起こらない。威厳あって過ちなく一つも無理がないのである。そういう風に大事な統帥権、国体擁護の根本とも言って宜しいような統帥権に付いても、思想的には斯様な差別があるのである。またこれを人格、道徳的に区別して見ると、例えば会社の社長なら社長が、自分が金があるから大きな顔をして威張っておっても宜しい、そういう風な考えを出して来るならば、それは自由主義の思想から出て来る考えである。また俺は会社の社長であってお前達の首を切る権利があるから偉いのだぞ、こういう風に思うならば、それは即ちファッショの思想から出て来る考え方である。自分等がお互いに安楽にこうして暮らしていられるのは御陵威の御力であると感謝の念に満ちて考えるならば、それは日本精神から出る考えである。しかして之は何も上の者ばかりの事ではない、下に使われている者も同様である。今のように商店法が施されて夜十時過ぎると、それから先は俺の権利だという風に考えるのは、それは自由主義の思想から来る考え方である。そこを日本精神で見ると我々がこうして安楽に起居が出来るのは主人のお陰である、主人の為に今よりもっと充分に働かねばならぬという考えが起こって来る。此の何れが良いかということは、之は最早論ずるまでもない。本当に心の安定は日本の精神で初めて得られることは、それ等の事実からしてもはっきりして居ると思うのである。
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