2017年3月5日日曜日

帝国憲法制定の精神 三(上)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
17ページからの引用です。

 そこで明治二十三年に国会を開くまではここに十ヶ年の準備期間がある。政府も準備せなければならぬ。国民も準備しなければならぬ。そこで政府は段々廟議を尽くして、元老院から奉呈になっている国憲草案では、まだ足らぬ所があるということになった。蓋し元老院の国憲草案は 明治天皇の御沙汰の如く国体に基づいて海外諸国の成法を斟酌せよというご趣旨には足らないから、誰かをヨーロッパに遣ろうということになった。明治十四年頃のヨーロッパは、ドイツが千八百七十年にフランスに打ち勝ち、新たにドイツ帝国を建設し、また大宰相ビスマルクが皇帝ウィリアム一世を輔翼してヨーロッパを震撼せしめた勢いの盛んな時代であり、このドイツ帝国は世界の憲法国の中でも君権の赫赫(かくかく)たる国であるからそこに伊藤公を派遣して憲法を取り調べさせようということに廟議が極まった。しかして伊藤公の出発に先だって 明治天皇から勅語を賜った。その勅語をここで読み上げます。これは明治十五年三月三日に賜ったのであります。

 朕明治十四年十月十二日の詔旨を履(ふ)み立憲の政体を大成するの規模は固(もと)より一定する所ありと雖もその経営措画に至りては各国の政治を斟酌して以って採択に備わるの要用なるがために今爾(なんじ)をして欧州立憲の各国に至りその政府または碩学の士と相接しその組織及び実際の情形に至るまで観察して餘蘊(ようん)無からしめんとす。ここに爾(なんじ)を以って特派理事の任に当たらしめ爾が万里の行を労とせずしてこの重任を負担し帰朝するを期す

 この御沙汰と共に取り調べ問題数十科目を御下附になりました。今この御沙汰書を拝読して見ますと、立憲政体の基礎は固より 明治天皇は御極めになっているけれども、なお外国に行って立憲政体の組織とその実際の運用の状況を能く見て来るようにとの御沙汰である。それから伊藤公は数多(あまた)の僚属(りょうぞく)を随えドイツに行き一ケ年半ばかりベルリンに滞留し明治十六年の秋帰朝せられて、翌十七年の春、憲法起草の大命を拝せられた。伊藤公はこの大命を拝せられたから、井上毅、伊東巳代治、私の三人を憲法起草委員に命ぜられた。
 前に申す通り、日本の憲法は各国の成典を斟酌して起草するようにとの御沙汰でありますから、我々三人の調べた材料の中にはベルギーの憲法もあれば、イタリア、ザクセン、プロシアのもある。その他色々の国の憲法がありますが、それはここに一々申し上げると長くなりますから、省きまして、ここにはフランスとドイツとイギリスの憲法について調べたことを極めて簡単にその要領だけを陳述することに致します。
 フランスの憲法政治の歴史は、諸君のご承知の通りルイ十六世が帝政の時代に暴虐なる政治を行ったがために、人民が蜂起してとうとうルイ十六世の帝政を倒して共和政府を樹立した。これが千七百九十二年である。しかるにその共和政府もまた永く続かずして、英雄ナポレオン一世が現れ、共和政府を改めて帝政となし、自ら皇帝となった。ナポレオン一世が創立した帝国政府もルイ・フィリップの皇帝の時代に、民心が皇帝に叛き、千八百四十八年の革命の時帝政を廃して共和政府を再興し、ルイ・ナポレオン即ち後のナポレオン三世が選ばれて大統領になった。ナポレオン三世は非常にフランス国のために働いたから、その権威を以って共和政府を改めて帝政に戻って、自ら皇帝の位に就いた。しかしこのナポレオン三世も千八百七十年にプロシアと戦って大敗北し、セダンで捕虜となった。その結果フランスは三度共和政体の国となった。これは千八百七十五年のことである。
 かくの如くフランスは、帝政が倒れては共和政となり、共和政が倒れるとまた帝政になり、その帝政が倒れて三度目の共和政になった。由来フランスという国は、主権民にありという論を学者も唱え、人民もこれを信じ、これが国論となっている。故に気に入らなければ皇帝であろうと何であろうと、忽ちこれを廃して共和政府を建てる。共和政府でやって見ていけなければ、また皇帝になるべき人を選んでその位に即かせる。皇帝はほとんど人民の選ぶがままになっている。それでフランスでは皇帝も大統領も、ただ人民が自由勝手にする機関になっている。したがってこの国の憲法の原則は主権民にありとて皇帝また大統領は機関なりという理論の上に組み立てられたものであって、所詮わが国には適用すべきはずのものではない。よって我々は一応調べることは調べたが、まづこれをテーブルの上に束ねて置くことにした。
 続いて調べたのはドイツの憲法であります。明治十七年頃のドイツは帝威隆々たるものであって、当時ほとんど日本の大学卒業生のごときも、留学といえばドイツを目指して行ったくらいのものであった。泰西の学問は政治学でも経済学でも憲法学でも、何でも彼でもドイツドイツというほど、ドイツ国の旺盛な時であった。それで伊藤公がドイツに行かれたのも、あの帝権の赫赫(かくかく)たるドイツに行ったならば、日本の如き君主親裁の国において参考とすべきことがありてゃしないかと思って行かれた。そうしてグナイストとかスタインとかいうような学者に就いて憲法の講義を聴き、また彼の国の政治家などなども論談して、大いに得るところがあって帰られた。そういう国柄でありますから、我々も大なる期待を以って取り調べに掛かりました。そうしてその取り調べた結果はどうであったか。この事は諸君も学者であるから既にご承知のことであろうと思いますので、極めて簡単に申し述ぶるに止めて起きます。
 ドイツ帝国の興ったのはプロシア王ウィリアム一世がビスマルクという大政治家を股肱として国政を行い、また名将モルトケを参謀総長に任じて軍事を司らしめたのに原因する。ビスマルクはかねてより北ヨーロッパにドイツ帝国を建設する大望を抱き、この大望を成就するにはまづ北ドイツ連盟を作り、プロシア王国をしてその連盟の牛耳を取らしめ、更に進んで連盟を改めてドイツ帝国とし、プロシア国王をしてドイツ皇帝たらしめんことを望んでおった。そこでまづ北ドイツ全般を勢力範囲としておるオーストリアを、その方面から駆逐しなければならぬという計画を立て、盛んに軍備拡張を企てた。ところが、プロシア国の議会はかかる大望のあると知らず、毎年軍備拡張案を否決した。そこで、ビスマルクは四年間にわたって毎年毎年議会の決議を省みず政府の原案を執行して軍備を拡張した。しかるに千八百六十六年にプロシアとオーストリアとの間に戦争が起こって、プロシアは七週間の短時日にオーストリアを叩きつけた。その結果としてマイン河を境に北ドイツからオーストリアの勢力を駆逐して、北ドイツは一切オーストリアの勢力範囲以外ということをオーストリアに誓わせた。このビスマルクのことを鉄血宰相と言い、また鉄と血の力で造ったこの国のことを北ドイツ連盟(ノース・ジャーマン・コンフェデレーション)という。しかして北ドイツ連盟の中には、従来主権を有する数多の王国がいくらもある。しかしてその中で一番強大なる国はプロシアである。またこれらの王国の他になお自由都市のフランクフルト・アム・マインとかブレーメンとかいうような都市があった。日本で言えば大阪のような都市が、王国以外に独立している。その自由都市と、独立王国に分かれた十何ヶ国の王国、あたかも日本の昔の大名のようなものが、北ドイツ連盟を造って、プロシアという大大名がその盟主となったのである。しかして、これらの連盟で協議の結果プロシア王をもって大統領にした。皇帝にはしない。あたかも北米合衆国の各連邦が、各州で選んで大統領にするように、プロシア王を兼ね北ドイツ連盟の大統領とした。これ即ち連盟の機関である。
 しかしビスマルクはそんな事では満足ができなかった。どうしてもドイツ帝国を造らなければならぬというので、北ドイツ連盟を踏み台としてナポレオン三世と戦ってセダンでこれを虜にし、そうしてヴェルサイユ宮殿に於いてドイツ帝国を創立して本来の目的を達した。これより先きマイン河の南にあるドイツ系の諸王国のバヴァリヤ、ヴェルテンブルグ、バーデン、ヘッセン等の如きも今まではオーストリアの勢力範囲に属しておったが、プロシアの勢力が強くなったのと、またその人種はドイツ系であるというので、ドイツ連盟の仲間入りをすることになった。そこでこれらの南方の諸王国をも一括して初めて当初の目的たるドイツ帝国を建設した。ここに於いて連盟の大統領を改めてドイツ帝国の皇帝とせねばならぬ。しかるにプロシア王ウィリアムは容易に承諾しなかったからドイツ帝国を組織する三十ばかりの諸国王の代表者と、人民を代表とする三十人をして、プロシア国王ウィリアムを推薦してドイツ皇帝たらしめた。これによってこれを見れば、大統領たる機関を改名して皇帝と称するのみである。これがドイツ帝国建設の歴史であるから、ドイツの憲法学の論理によれば皇帝を機関ということは当然のことであります。
 さてドイツ帝国の憲法によれば上院と下院の二院がある。上院の議員は、プロシアを初めドイツ国内において従来から独立して君主権を持っている三十ばかりの王国の君主の代表者である。そこでプロシア国王も代表者を出す。また諸王国の君主でも代表者を出す。これが上院の組織である。また下院はどうかというと、元来ドイツという国は民衆主義が多い所である。かのプロシアのフレデリック大王がフランスのボールテーヤを招聘して、ポツダムの宮殿の中に住まわせてボールテーヤの学説を聴いた。以来仏国の文化と共に主権民にありという学説が伝播して、ドイツは実際主権在民という思想が随分盛んであった。よってビスマルクは極力この思想を排斥しようと思ってもいかんともすることができなかったので、新たに創設したるドイツ帝国の下院だけは最初から普通選挙にして、二十歳以上の男子ならば何人といえども下院の議員となることができることのして、人民を懐柔する政策を取った。そこで上院の方は、各連邦の王国の君主を代表する人をもってこれを組織し、しかして下院の方は普通選挙により選出する議員をもって組織する。この組織によれば氷炭相容れざる、二種の階級即ち主権は国王にありとする者と、主権民にありとする者とをもって一議院内において政治を論議せしむるから中々困難である。しかるにさすがはビスマルクのことであるから、いろいろ策略を用いてこれを操っておったが、皇帝ウィリアム二世の時代になって、ビスマルクを追っ払って、自ら政務を専決せられることになった。
 かくのごとくドイツの憲法によれば、上院においては主権は諸王国にあるという代表者があり、また下院においては主権民にありという人民の代表者がいる。そうしてその上にあるドイツ皇帝であるから、諸王国の代表者の如くも見えまた人民の代表者の如くも見えて、その真実の名称から言えば洵(  )に憲法上首尾一貫しておらない。しかしながらドイツ皇帝は帝国建設の歴史から見てもまたその議院の組織から論ずるも国家の機関なりということは適当であろう。よってドイツの憲法は我が日本憲法に採用することはできなかった。これは 明治天皇が我が建国の体に基づいて憲法を起草せよと仰せられた御沙汰に沿わざるがためである。そこで残るところはイギリスの憲法である。


2017年1月9日月曜日

帝国憲法制定の精神 二

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
5ページからの引用です。

 これから憲法制定の由来を申し述べます。話の順序としてはあるいは諸君のご承知のことを申すかもしれませんが、なるべくそういうことは簡単に話すことに致します。世は王政維新となり明治の政府となるや、明治元年の三月に 明治天皇は天神地祇皇祖皇宗に御誓いになって五箇条の御誓文を御示しになった。それが即ち日本の国是でありまたそれが日本の憲法政治の淵源である。この五箇条の御誓文の沿革もまた非常に長い、また非常に必要な事でありますけれども、これは省略致します。
 さてこの五箇条の御誓文の中に「広く会議を興し万機公論に決すべし」という一箇条があり、また他の箇条には「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」ということがある。これは諸君のご承知の通りこの二箇条から憲法政治が出てきている。また議会も生まれてきている。しかして議会を開くについては憲法が必要である。さて憲法が発布せられ議会が開かれた後の政治は如何にするかということは 明治天皇の御思し召しでは「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」とあって、世界中から智識を取り入れて、日本の皇基を振起せよとこういう御思し召しであらせられたと恐察し奉る。それ故に日本の憲法学者が皇基即ち皇室の基礎を知らずして、徒らに欧米の学理をそのまま日本の憲法に応用した時には、恰も基礎工事を施していない地面に鉄筋コンクリートのビルディングを建てるようなものである。蓋し憲法を布き議会を開きて立派な政治を行わんとするならば、先づもってその基礎は泥であるか砂であるか或いは岩であるかを知って、然る後に高層堅牢なる建物を造るべきである。然るに日本人は往々ヨーロッパ、アメリカに行くと、かの国の文明と学問の進歩に目を晦まして、我が日本の歴史及び国体を軽視し、徒らに外国の学術の理論を盾として日本の憲法を論議する者がある。この事が即ち全ての間違いの本である。  明治天皇は「智識を世界に求め」よと仰せられたけれども、それは何の為に求めるのか、「大いに皇基を振起」する為だと御沙汰になっているではないか。然るに欧米に留学する日本人中に唯智識を世界に求める事にのみ熱中して、学問の大目的たる皇基を振起する事を忘るるものがある。蓋し日本国民として、そういう誤りたる考えであったならば、立憲国の国民となる資格はないと思う。
 さて日本で誰が一番早く憲法政治について研究したかというと、それは伊藤公である。伊藤公は明治三年に憲法政治ということを既に念頭に持っておられたのである。それは事実が明らかに示しております。明治三年閏十月三日に伊藤公は政況及び財政調査のためにアメリカに行かれた。その時にアメリカの大統領及び国務長官と話された際には、日本も世界の仲間入りをしたについては、諸官衙(かんが)の構成も欧米各国の通りにしたいが、先づアメリカの組織を調べに来たと言われた。それから段々にアメリカ政府の官制などを調べられた。その時の国務長官はフィッシュという人であった。この人が各省の官制というものはアメリカの憲法を本として制定せられてあるからこの成典(Statute book)から研究なさいと言うてその書冊を贈与された。そうしてアメリカ政府がこの憲法を作るに当たっては、独立戦争の後、政治家も学者も国民も非常に研究した結果、漸く憲法ができたのである。憲法政治を実施するについてはアメリカの政治家ハミルトン、マデソン、ゼイの三人が申し合わせて憲法を起草した。然れども憲法政治を実施するについては国民を教育しなければならぬと思うて、この三人が外国の例を調べてパブリカスという匿名で印刷物を出版し、これを称して「フェダラリスト」(Federalist)というた。「フェダラリスト」は共和という意味であります。その後憲法が実施されてからこの書類を一括して書籍となした。これが今日アメリカ憲法を講究する第一の教科書になっておる。これをお読みになれば如何にして米国民の祖先が憲法を起草したかが分かる、と言って伊藤公にその本を贈与した。故に明治三年に伊藤公がアメリカでこの本を貰われて以来、これについて研究された。しかして枢密院で憲法の会議の終わりになるまで常に座右に置いて、何か問題が起こればその本を繰り返し読まれた。ほとんど二十年間座右を手放さなかった本であります。私は明治九年ハーバード大学に於いて憲法を研究する際、この「フェダラリスト」は憲法の研究には最も必要であるから、これを読めと言って、私の先生から教えてもらいました。故に日本で誰が一番早く憲法政治について研究されたかというと、それは伊藤公である。
 次に明治七年一月前参議後藤象二郎、板垣退助、副島種臣、江藤新平等が民選議員開設の建議をなしたるより、世論は議員政治の事を講究するに至りました。
 次に明治七年の三月七日二、宮内少輔吉井友実が宮内省を罷めて、ヨーロッパに視察に行かれた。それは何のために行かれたのか、私も段々調べましたが分からない。吉井は自費で洋行したことになっているけれども段々調べて見ますと御内帑金を賜っている。そうして帰朝の後拝謁して 明治天皇に捧呈されたのが、イギリス人アルフィヤス・トッドが著述した「英国議院政治」(Parliamentary Goverment in England)と言うこの原書である。しかしなぜにこの「英国議院政治」という洋書を捧呈されたか、その理由はいろいろ調べましたけれども少しも分かりませぬ。しかし諸君のご承知の通り、イギリスの憲法はイギリスの歴史の中に包含せられてある。故にイギリスの歴史を知らなければイギリス憲法は分からないことが、この書物に詳細に記述してある。
 次いで明治八年に元老院が創立され、その翌九年の九月六日に 明治天皇は当時の元老院議長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を御学問所に召されて、勅語を賜った。その勅語は
  朕爰(ここ)に我が建国の体に基づき広く海外各国の成法を斟酌し以って国憲を定めんとす。夫(そ)れ宜しく汝らこれが草案を起創し以って聞かせよ。朕将(まさ)にこれを撰ばんとす。

 日本の憲法は最初は国憲と言っておりました。元老院の憲法取り調べの委員は国憲取り調べ委員と称しておりましたが伊藤公が憲法起草の大命を拝してから憲法ということになりました。この勅語の依れば日本の憲法は 明治天皇の叡慮にある御方針を以って起草せよ、とお沙汰になったものである。即ち憲法は日本の国体に基づいて起草せよ、外国の憲法は斟酌して、悪い点があるなら捨てて、良い所があったらなら取れという仰せである。しかしてここに驚くべきことは、この勅語を有栖川議長宮に下し賜い、これに依ってよく研究せよと仰せになって、御手づからこれを御下賜になったことである。当時憲法に関する書類は数多(あまた)ある中に、独りこのアルフィヤス・トッドの本を御下賜になった御思し召はいかがであるか分からないけれども、或いはイギリスの憲法は歴史の中にあるからこれを研究して憲法を起草せよとの厚き御思し召ではなかったと私は恐察し奉ります。
 さて明治九年に憲法起草のことを元老院に御沙汰になると、日本国中憲法政治憲法政治と言って憲法に関する外国の書冊を研究するようになった。この時最も勢力のあったものは、フランス人モンテスキューの書いた「万法精理」(Spirit of Law)である。これは主権民
にありという原則から書いた書冊で、行政、立法、司法は各々独立して三権鼎立すべきものである、互いに相干犯せざるを以って憲法政治の骨子とするというのである。これは一時ヨーロッパ、アメリカを風靡した学説で大いに人心を指導した。この書は長崎人何禮之が日本語に翻訳したものである。それからまたフランス人ではルーソーが書いた「民約論」(Social Contract)これは中江篤介が翻訳したものである。この二書はなかなか広く読まれたものであります。当時わが国ではモンテスキューの三権分立論とルーソーの「民約論」が最も人心を風靡したものであります。
 この時に当たりドイツ学者と世に評判せられた東京大学総理の加藤弘之がドイツの原書を基としてドイツの学説を日本に紹介した。それは「真政大意」と「国体新論」という書冊でありました。これもまた当時広く読まれました。当時の東京府知事は府会議事堂に加藤弘之を招請して、「国体新論」の講義を公衆に聴かせた。私はその説には感服しなかった。果たせるかなこの「真政大意」と「国体新論」に対して世人の非難の声が囂々(ごうごう)として起こって来た。その言う所に依れば苟(いやしく)も官吏である東京大学の総理(今の総長)の地位にある者が天賦人権論に依り国体に反する議論を唱えることは、怪しからぬと言って非常な攻撃であった。海江田信義の如きは東京大学総理として斯くの如き論を為すことは不都合である、加藤の説は国体に反している、我輩は自ら加藤を処分せんと言って憤慨した。また世古某は三條太政大臣に建白するなど随分やかましいことであった。そこで段々加藤も考えたと見えて自分が「真政大意」と「国体新論」を著したのは全く自分の学問が足らなかったためであった、あのような謬言妄説を世に流布して、後進を誤っては申し訳ない次第であるから、私はあの二つの書物は滅版にしますと内務省に届き出で、また長い文章を以って滅版の理由を書いて、新聞紙に広告した。そこで内務卿の山田顕義は、明治十四年十一月に加藤のこの二つの書物を、発売禁止を命ずることにした。
 これより先、明治十二年の夏、先の北米合衆国の大統領グラントが、家族を連れて世界漫遊をしたその帰途に日本に立ち寄った。日本では前大統領のことであるから、皇室の御待遇、政府の接待は実に非常に慇懃を極めたものである。そうして 明治天皇は浜離宮にグラントを召されて午餐を賜った。その陪席者は三條太政大臣、岩倉右大臣及び諸参議であった。午餐の後、只今も浜離宮にある中の島の御茶屋で珈琲や煙草を召し上がりつつ 明治天皇は色々政治上の事についてグラントに御下問になった。その時グラント将軍は、承る所に依りますれば日本も国会開設の議論がある由、何れ憲法を御制定になることと存じますが、何事も忌憚なく言上せよとの御沙汰であるから申し上げます。日本の憲法は日本の歴史及び習慣を基にして御起草遊ばさるることこそ願わしく存じますと言上した。これは余程 明治天皇の御思し召に適った様に拝します。この事はグラント将軍の秘書役たるヤングが書いた「グラント将軍世界漫遊記」の中にも書いてあります。
 明治十三年十二月かつて勅命を以って起草に従事した国憲の草案が、元老院議長大木喬任から三條太政大臣を経て上奏された。そこで三條太政大臣から各参議に対して意見を徴された。その意見はなかなか参考になることがたくさんあります。けれどもここに一々申し申しませぬ。ただその結論だけを述べますれば、国会開設なお早しという説が多数である。またある人はこの国憲草案にはまだ不備の点があるから、再調すべしという論を述べた者もある。とにかく各参議の意見書は出ましたが、一人大隈参議だけが出さない。再三催促されて初めて出された。それが明治十四年三月です。今の方々はこういうことは御承知ないでしょうが、昔の参議は直接 陛下に書類を奉呈することはできないもので、今の次官が直接奉呈することができないのと同じでありまして、昔の参議は 陛下に奏上したりまた書類を差し上げて御裁可を請う時には太政大臣か左右大臣かを経るのほかは参議は御前に出られないのであります。参議はいわゆる参議であって太政官の議に参画するだけで上奏をしたり勅裁を請うたりする権限はない。依って大隈参議は有栖川左大臣宮に意見を出された。有栖川宮は大いに驚かれ岩倉右大臣と謀り伊藤参議に相談せられたから、伊藤参議は三條太政大臣を経て 陛下のお手許にある大隈参議の意見書の御下渡しを願い出られて、奏議全部を自ら書写されてその末文に「明治十四年六月二十七日三條太政大臣に乞うて 陛下の御手元より内借一読の上自写之博文」と認められた。この書類は伊藤家の秘書の内に保存されてある。これは海軍中将刑部齋という人が本書と少しも違わないように印版せられている。
 さて大隈参議の意見書が 陛下の御手許までいったか否かについて従来不明であったから、先年私は大隈さんに会って、あなたの意見書は有栖川宮の所に留まっておったのかまた、陛下の御手許にいったのかと尋ねました時、大隈さんは僕はその事は知らぬ、僕はただ有栖川宮に差し上げたのみ、それから先はどうなっておったか知らぬと言われたことがありましたが、実は 明治天皇の御手許に達しておった。とにかく伊藤公は大隈参議の意見書を見て大いに驚いた。この大隈参議の奏議は第一より第七までに分かれた長文でありますから、これを述べることは省略します。その中にある第五、明治十五年末に議員を選挙し、十六年を以って議会を開くべき事につき伊藤公は驚いた。斯くの如き重大なる事件を内閣の同僚にも諮らず単独に密奏を企つる者とは席を内閣に列することはできないと言って辞表を出された。これが大騒動になって大隈参議は職を罷め、そうして明治二十三年を期して国会を開くという詔勅が出た。これが明治十四年の十月である。以上が日本の憲法政治の十四年までの沿革であります。

次回に続きます。憲法とは国の最高法規というよりも、「その国の歴史伝統文化を基に最上と思われる国のかたち(統治のかたち)」であるとわかります。


2016年11月14日月曜日

トランプは「神」を信じ、勝った。

パトリック・J・ブキャナン著の「病むアメリカ、滅びゆく西洋」という本を読むと、わかる。トランプの暴言は計算されていたと。

元々世界はどんな地域でもどんな宗教であっても「家族愛」を否定するような思想はなかった。それが、フランス革命以後「暴力による革命を経て家族愛のない苦痛のない世界」(その世界に向けたスローガンが「自由、平等、博愛」である)を目指すために、ルソー、マルクス、レーニンらが思想戦を仕掛けてきた。この思想戦に対抗したのが、エドマンド・バークであり、ハイエクやサッチャー、レーガンである。

それが、「暴力による革命ではその企ては失敗に終わる」と判断した連中がいた。それがアメリカに移住したマルクーゼやアドルノ等の「フランクフルト学派」の人たちである。その人たちは「文化から変えなければ、家族愛のない苦痛のない世界は実現できない」と考えた。そして、その人たちやその人たちに影響された人たちが、アメリカで日本で世界各地でじわじわとその勢力を拡大していった。「苦痛がなく便利で快楽が多い方が良いでしょ」と囁き、そういったメッセージを含む本、雑誌、新聞、音楽、映画、商品をばら撒くようにすれば、人は簡単に楽な方に流れる。苦痛を伴う愛や友情、近所付き合いなどのコミュニケーションは益々表面的なものになっていく。

「家族愛を否定する文化」とは、性における退廃つまりフリーセックス、同性愛を過度に優遇、女性の社会進出の奨励、苦痛のない生活の奨励(夫婦愛、子育てにはある程度の苦痛が必ず伴う)、権威・威厳を貶める(父親を尊敬させない)、犯罪者の優遇(家族を殺された被害者遺族より犯罪者を優遇)、国家の否定(国家権力への敵意を広め、移民の奨励やグローバリズムを通して、家族愛を根本とする国家を否定していく)などを含む。これらを新聞、テレビ、映画、出版物、大学以下の教育などを通して、広めていく。(日本などは憲法を通しても)そして、これらの作戦は大成功を収めていた。暴力による革命において家族愛のない世界を構築する「共産主義国家」はどんどん破綻していったのに比べ、「共産主義国家」の対極にあると思われていたアメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツなどで確実に「フランクフルト学派」の作戦はうまくいき、ウィルスのようにその文化は広がり、成功を収めていった。

彼らには得意技がある。フリーセックスや女性の社会進出をを非難すると「古臭い、女性を家族に押し込めようとしている女性差別だ」と、同性愛への嫌悪を述べると「同性愛者への差別だ」と、苦痛のない生活がちょっとでも邪魔されたり、犯罪者を非難すると「人権侵害だ」と、権威や威厳を大切にすべきだと言うと「ファシスト」だと、移民を制限すると言うと「レイシストだ、排他主義者だ」と、グローバリズム経済を非難すると「保護主義者だ」と相手を非難し、黙らせていく。
アメリカでのその象徴的存在がクリントン夫妻であり、オバマであり、今反トランプのデモを行っている人たちである。
その人たちの思想に名前を与えると、アメリカでは「リベラル思想」、日本では「サヨク思想」である。

EUの出現(国家の否定)、出生率の低下、虐待や離婚の増加(正に家族の否定)、グローバル経済(国家の否定であり、家族よりお金を優先)などが彼らの計画がうまくいっている証拠である。しかし、これは人類の滅亡へのカウントダウンでもある。「家族愛のない苦痛のない世界」とは、喜びも幸せもない世界であり、究極的には「人間に生きている意味を失わせる世界」であり、人類の自殺である。

それを食い止めるために、私は行動している。そして、恐らくトランプもそう考えている。

今まで、「家族愛を大切にする」保守主義者は思想戦でサッチャー・レーガン時代を除き連戦連敗を続けていた。そしてこの思想戦に勝つために、トランプは考えた。大衆の中に紛れている(保守政党と思われている政党にも紛れている)から、それらの思想を持つ人達をあぶり出し、密かにこれらの思想に違和感を感じている潜在的な保守主義者が立ち上がることに賭けた。トランプも論理的に勝てるとは信じてはいなかったに違いない。彼は「神」が人類を見放さないと信じた。51%を目指した。実際にはそれにはわずかに達しなかったが、勝った。
彼の暴言は相手に「女性差別、人権侵害、ファシスト、レイシスト、排他主義者、保護主義者」と言わせることが目的だった。今まで通用していた「相手をレッテル貼りすることで攻撃し、相手を黙らせる」作戦を逆手に取った。過剰に相手にそう言わせることで、今までそう言われてウンザリしていた人たちに、投票を暗に呼びかけた。アメリカ人の過半数がそのリベラル思想に侵されていたら、アウトだった。ギリギリ間に合った。

日本では安倍首相が誕生、イギリスではEU離脱、アメリカではトランプ大統領が誕生し、思想戦でやっと保守主義側がやっとリベラル・サヨク思想側に対抗できる体制ができた。

大衆の中に紛れていたリベラル・サヨク思想の人たちが今勢力を拡大するために結集し始めている。これは見ようによっては、大衆から分離されてきている。紛れいているものと戦うのは難しい。つまり、分離されているものと戦う方が容易である。日本でもアメリカでも人口に占める比率では約三割がその人たちである。この思想自体を根絶することは恐らく人間が苦痛を避けるという本能がある限り不可能と思われる。しかし、この人たちと拮抗し続けることは可能である。潜在的保守主義者(家族を大切にする人たち)が、サヨク・リベラル思想の人たちに、騙されず、黙らさせられなければ良い。インターネットの普及のおかげでサヨク・リベラルメディアは国民を騙すことが大分できなくなった。
日本では沖縄サヨクが分離し始めている。アメリカでは、グローバル経済の中心地(ニューヨーク)、大学の中心地(アメリカ東岸)、映画の中心地(ロサンゼルス)がクリントン支持であるようにリベラルの本拠地となり、地域的な分離が明確になっている。

分離の後の次の戦いは、恐らく教育の場であろう。それには、「哲学」の復活が不可欠である。西洋では「哲学」が全ての学問の基礎である。日本ではその考えは定着しなかった。それは明治維新の時に日本に偉大な哲学者がいなかったために、西洋哲学をきちんと輸入し、咀嚼できる人がいなかった。既に西洋においてサヨク・リベラル・共産主義思想が広がり始めていたため、正統な西洋哲学の代わりに先にそれらの思想が入ってきてしまったのである。これが日本の不運である。
しかし、今からでも遅くない。日本ならではの、学問の基礎となる「哲学」を構築しなければならない。それができる人は限られるが、やらねばならない。私もその一人になれればと考えている。

トランプは大統領になった途端、暴言は言わなくなると予想する。その必要がないから。政治とは常に「中庸」が重要である。極端な政策は大体害がある。そのため極端なことは言わなくなる。潜在的な保守主義者はそれに対しては、恐らく文句は言わない。文句を言うのは、リベラル思想の人たちである。「彼は嘘つきだ」と。トランプは「嘘つきだ」と言われていも気にしなければ、何の問題もない。

彼は「神」を信じ、勝った。人類にはまだ希望がある。


2016年7月10日日曜日

帝国憲法制定の精神 一

今日は参議院選挙が行われます。
改憲勢力が3分の2になるかどうかと新聞紙上には書かれていますが、安倍首相は帝国憲法を作った井上毅、金子堅太郎、伊藤博文、伊東巳代治らと同等の憲法観を持っているのでしょうか。
帝国憲法の精神を知るために、金子堅太郎の講演の内容が書いていあるこの本を連載します。
ぜひ、帝国憲法について、一緒に勉強しましょう。

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行

本書は昭和10年7月中旬本省憲法講習会に於ける金子堅太郎伯爵の「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」と題する講演の速記を伯爵の訂正補筆を経て上梓したる者なり。
昭和10年8月
文部省

一

私は松田文部大臣のご招待に依って、本席で「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」という問題に就き、諸君にお話しする約束を致しました。然るに中途にして
、昨年の大患以来の主治医の人々が、この炎暑の際に講演するということは見合わせてくれいうことで、文部大臣にもお断りを致したけれども、一度諸君にご通知になっているから、1日でもよろしいから来てくれということでありました。依って主治医の承諾を得て一日だけ罷りでることとなりました。然るに最初は二日ということにお約束を致しましたけれども一日になりましたにより、内容を省略しなければならぬことになりました。この事はお断りを申して置きます。なお日取りのことも昨日になってやむを得ざる事故があって、今日にお願い致しました。これも誠に皆さんに対してお気の毒に存じます。それから実は起立して講演すべきでありますけれども、主治医の注意があったに依って、文部大臣のご厚意に依り着席のままで宜しいということでありますから、着席して講演を致します。これもまたご了承を願います。
 さて今回松田文部大臣においては憲法講習会をお催しになりました、諸君をお招きになり、国体を明徴にする御会同であるから私にも罷り出るようにいうご依頼があった。依って国体を明徴にするにはまづ日本憲法の由来をお話することが最も必要と存じます。これ日本の憲法は国体に基づいて起草されているからである。これより私は我が国の憲法と国体の関係についてお話を致したいと思います。
 帝国憲法は叡聖文武にあらせられる 明治天皇の偉大なる叡慮を奉戴して、伊藤公が日本の歴史と国体を調べ、また海外各国の憲法を調査して、起草せられたるものであることは、諸君のご承知の通りである。伊藤公は一度大命を拝するや、その起草の方針を井上毅、伊東巳代治及び私の三人に示され、我々が起草して後四人相集まってこれを精査熟議した結果、伊藤公がその草案を闕下に捧呈せられ、次いで枢密院が創設せられ、その会議を経て発布せられたるものである。故に実は国体と憲法の関係についてこの席に出て講演をせられるべき適当は人は、伊藤公である。然るに伊藤公はハルピンに於いて兇徒の毒弾に倒れ、その次にはこの任を尽くすべき人は井上毅であるが、これを先年亡くなり、伊藤、井上の両氏を除いたならば伊東巳代治でありますが、この人も昨年逝去して、今はこの世にはなく、残る者はただ私一人であります。それで伊藤公を初め同僚の二人が、今もなおこの世にあったならば、今日この席に出て私より以上に明確なる説明をすることであろうと思いますけれでも、それらの人々は最早この世にあらずして私がわずかに生き残っておるのみである。しかもその私も昨年の大患でほとんど医師も絶望しておったくらいでありましたが、幸いにも奇跡にも回復いたしまして、残存しておるから、この席に於いて、憲法と国体の関係についてお話をすることは、残存者の義務と考えまして私が御請を致した訳であります。ご承知の通り憲法制定の由来については長い歴史があって、中々一場の講演では終わらなけれどもその要領のみを極めて簡単にお話し致しましょう。
 そもそも我が日本の憲法は、日本に二千五百年有余年継続している国体というものに基いてできたのであって、欧米諸国の憲法の如く帝王の圧迫に堪えずして貴族と人民が鉾(ほこ)を逆さまにして帝王に迫った結果できた憲法とは違う。また欧米諸国の如く人民が自由民権を主張するために帝王に迫って制定せしめたのでもない。全く 明治天皇の遠大なる思し召しに依って欽定せられたる憲法であるから外国の憲法と日本の憲法とを併せて同一の理論をもって解釈することはそもそも誤っていると私は確信する。しかし私が今日この演壇に登ってこの講演をするのは、徒らに政治の渦中に投じて政治問題につきかれこれ論議する意思を持っているからではない。また日本の憲法学者の誤謬を非難攻撃するような目的でもない。ただ 明治天皇の叡慮を奉戴して、伊藤公が我々に憲法の起草を命じられたのであったから、その憲法制定の精神をお話するのみである。私は何の私心もなく、ただこれから申し述べることは憲法制定の由来であって、全く事実そのままのお話を致すのである。憲法発布以来世には日本の歴史も知らずまた国体も弁えず、徒らに欧米の憲法の理論にのみ依って日本の憲法を解釈しようとするもののあるのは、一人日本憲法の精神を理解し能わざるのみならず、これを誤るものと私は信ずるものである。

次回に続きます。

2016年4月24日日曜日

儒学を理解できるのは選ばれた人のみか?

儒学の根本は「仁」であり、この根本思想は多くの日本人に理解できるが、儒学そのものを理解するには必要なものがある。

一つは「充分に愛された経験」。
次に「高い知能」。
最後が「忍耐力」である。

「充分に愛された経験」がなければ、まず「仁」の心が理解できない。
福沢諭吉は儒学者の子に生まれながら、「学問のすすめ」や「文明論之概略」を読む限り、「仁」の心を理解していたとは考えられない。
福沢諭吉の説く「徳」とは、「相手に苦痛を与えない」というかなり消極的なものである。
諭吉の家族についての記述を読むと、「家庭内では争いはなく、家族内では物が共有されている」旨が記載され、「全く苦痛のない家庭像」が描かれ、全く現実感がない。
諭吉が愛された経験がないかは証明できないが、必ず苦痛を伴う愛は理解できていないと思われる。

ここで、まず「愛(仁)」について整理したい。
「あなたを愛しています」と相手に言うのは大した愛ではないと思っている。
言うだけでなら、思うだけなら、簡単である。
愛とは大切な相手に対して、どれだけ尽くせるかである。
つまり自己犠牲である。
親の愛で喩えると、遠足の日の朝に「今日はコンビニで一番良いお弁当を買って来たわよ」と渡すのと、朝4時起きして作ったお弁当を黙って渡されるのはどっちの方が子どもに愛が伝わるだろうか。
また、愛には相手の気持ちを言葉だけでなく態度や行動から理解することが必要だし、完璧な人間はいないので相手の多少の嫌な部分も我慢しなければならない。
愛には必ず苦痛や面倒臭さを乗り越えることが必要だし、愛の強さは相手の対してどれぐらい苦痛に耐えられるかで決まる。
相手にどれだけ価値を感じられるかによって、その価値に見合った苦痛に耐えられる、それが愛だと私は考える。

この「愛」を知るには、自分が誰かに愛されるのが一番である。
自分のために、この人は自分の気持ちを察し、嫌な部分も受け入れ、苦労を厭わないで尽くしてくれたという経験があることで、「愛」の価値を知ることができる。
「愛」とは「苦痛を避け、快楽を求める」という本能に逆らわなければならない。
その本能に逆らってまで、苦痛を耐える必要は、「愛されてうれしかった」という経験が不可欠である。
だから、儒学の「仁」を学ぶには、「誰かに(多くは親)充分に愛された」という経験がないとどんなに知能が高くても理解できないのである。

儒学は、過去の支那の歴史的事実から哲学的な文脈を理解し、そこから「仁(愛)」の思想が政治的にも重要であることを説いている。
しかし、儒学では短い文章から「解釈する」ことが求められる。
儒学を学ぶには歴史を学ばなければならないし、想像力も必要であるし、漢文も読めなければならない。
儒学には、処世術も書いてあるが、そんな簡単なマニュアルではなく、結論だけ書いてあるが、なぜその結論が正しいのかに付いては、ある程度自分で考えなければならない。
世の中を理解するには、人情の機微がわからなければならず、複雑な思考が必要。
儒学を学ぶには、高い知能を要する。
だから、一般庶民向けの学問ではない。
だから、聖徳太子は一般庶民向けの思想として仏教を取り入れたのであろうか。

儒学の最終目標は、「修身、斉家、治国、平天下」という、政治を良くする、つまり国民皆が幸せに生活することである。
だから、政治を執り行う者には強い「仁(愛)」が必要になる。
国民の心を理解し、国民のために多くの苦痛に耐え、自分に対して嫌な思いをさせる国民のことも犯罪でなければ慈悲の心で受け入れることが必要である。
徳川家康は日本史上最大の政治家だと思う。
家康ほど苦労した政治家がいるだろうか。
早く母と別れ、父が殺され、何時殺されるかわからない人質となり、自分を慕う家臣の多くが飢え死寸前となり、初めの妻を殺さなければならない状況となり、長男を切腹させざるをえない。
それらを乗り越え、そのような悲劇を繰り返さないために天下の安泰を目指し、生き続けた。
家康と同じ境遇を耐え、それを乗り越えて生きられる人間がこの世にどのぐらいいるのだろうか。
家康に比べれば、信長、秀吉の苦労はまだ少ないのではないか。
家康の遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」というのも、真偽の議論があるが、私は家康以外にこれを言える人がいるとは思えない。
儒学を真に理解するには、この多くの苦痛に耐え、それを乗り越える驚異的な「忍耐力」が必要なのだと思う。

だから、儒学を修めることができるのは、充分に愛され、高い知能を持ち、驚異的な忍耐力を持つというその時代にかなり少数の人である。
このような人たちが、「仁」の心を持って政治を執り行えるような仕組みが日本に必要だと思う。
今の日本はそのようになっているだろうか。
今の教育、行政、政治の制度がそのような仕組みになっているだろうか。
選挙制民主主義は、自己顕示力が強い人、権力志向が強い人、仁の心のある人が玉石混合状態で議員が選ばれる。
仁の心のある政治家を選べる仕組みが作れないものだろうか。

今考え中である。



2016年4月23日土曜日

日本になぜ孔子が生まれなかったのか?

日本では災害時に一般人が略奪をすることはない。
海外では驚かれるが、日本では当たり前のこと。
日本人からしたら海外がおかしい。

これは日本人の心の奥底に常に「仁」の心が潜んでいるからだと思う。

江戸時代家康の意向で儒学が広められた。
儒学の根本思想は「仁」であり、今で言うと恋愛を除いた「愛」である。
親子愛を基に、その愛を兄弟、夫婦、職場、友情に広げることとされている。
そして、その「仁」の徳を修め、家庭を「仁」の心で満たして治め、そして、為政者は「仁」の心で国を治める。
これが儒学の理想の世界である。

明治維新以後自由主義思想、サヨク思想に押されて儒学は廃れ、今や学校では論語の一部を教えられるぐらいである。
しかし、「仁」の思想が日本人の中には残っている。
一方の儒学の出身地支那では、「仁」の思想が残っているとは思えない。
弱肉強食、優しい人から食い物にされそう。
「仁」の心では生きていけない。

なぜ、日本では「仁」の心が残り、支那では廃れているのか、それが疑問だった。

それが、実家の厨子の中のご本尊の鏡を見た時にわかった。

三種の神器の一つも鏡である。

天照大神が「この鏡にうつるあなたを私だと思いなさい」と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に渡した鏡である。

人は鏡がなければ自分の顔を知ることができない。
日本人にとって、「仁」の心は儒学が入る前からあり、しかし当たり前のように持っているので、自覚出来ない。
「災害時になぜ略奪しないのか」と訊かれても、わからないのと同じである。
儒学が入ってきて「儒学」という鏡があって初めて、日本人は自分の心の中の「仁」があることを気付けたのである。
だから、私もそうだが論語を読んで全てを受け入れている訳ではない。
「この部分は確かにそうだ。納得できる。」というところだけ、取り入れている。
儒学は所詮鏡なので「仁」の心を学ぶ良い教材ではあるが、鵜呑みにする教典ではないのである。

では、なぜ支那には儒学が生まれたのか。
孔子、孟子の頃は諸子百家の時代であり、支那では様々な思想が存在していたうちの儒学は一つに過ぎない。
孔子や孟子は自分以外の思想が近くに存在していたので、自分の思想を明らかにすることができたのである。
周りの人と自分の思想が同じだと自分の思想が理解しにくいが、周りの人と自分の思想が違えば、自分の思想がどのようなものか気付きやすくなるのである。

だから、孔子や孟子は日本に生まれず、支那に生まれたのである。

しかし、今日本では虐待や家庭内暴力、ストーカー、学級崩壊などが起こり、「仁」の心が少し廃れかかっていることがわかる。
だからこそ、今私は日本人の「仁」の心に気付けたのだと思う。

私の人生のテーマは日本人に「仁」の心を取り戻させ、その心を世界に普及させることである。


2016年3月11日金曜日

思想が違うと世界が全く違って見える。

いつも日本人に知っておいて欲しいけど図書館に置いてない文献を紹介していますが、私の意見も発信していきます。
もし読んで参考になりましたら、ツィッターなどで広めて下さい。

同じ映画、同じ本、同じ歴史を皆が違って感じるのは当たり前です。
人それぞれによって感じ方や考え方が違うので、誰も異論はないと思います。
しかし、善と悪が正反対になってしまったり、大幅に解釈が違うとは皆さん思っていないでしょう。
同じ日本人でも、同じものに対して正反対に感じてしまうのは、単に感じ方、考え方の個人差ではなく、世の中に対する見方つまり思想が違うからなのです。

それがどうしてそうなっているのかについて解説します。
簡単なものから言うと、「永遠のゼロ」という映画を見てどう感じるかということです。
「愛の強さとは大切な人のためにどれだけ苦痛に耐えられるか」という考えの人は、この映画を見ると涙が止まりません。
自分は親や恋人、恩師などの誰かに愛された経験があり、また自分も誰かを愛している人です。
しかし、「苦痛や危険は悪である」「自己犠牲などというのは狂気か、騙されたかのどっちかである」「愛とはセックスという快楽以外に意味はない」という考えの人にとっては、「ああいう物語はありえない、偽善の物語で、吐き気を催す」ような映画だろうと思います。
同じ映画でも正反対の反応になるのです。
この正反対の思想の人たちと議論して話がかみ合うでしょうか。
同じ世界にいながら、白と黒が逆になって見えているのです。

次に儒学についてです。
儒学のことは現代の人はほとんど知りません。
この私も最近、論語、孟子、中庸、大学などの四書や孝経、吉田松陰の講孟箚記(こうもうさっき)を読んで学んだばかりです(現代語訳ですが)。
儒学の本を読んだら、儒学で言う「徳(仁の心)」が身につくわけではないようです。
読む人に元々「仁」の心があるかないかによって、解釈が大きく異なってしまいます。
徳川家康や徳川光圀、幕末の思想家の藤田東湖、吉田松陰、横井小楠などは本気で「仁」の思想を信じていました。
「仁」とは、親や子どもを愛する気持ちを基に、先祖を愛し、配偶者を愛し、上司や部下を愛し、友人を愛し、愛をもって政治を行うという思想です。
それが、福沢諭吉のような自由主義者やサヨク思想の学者によると、「上下関係のある封建社会を正当化するための学問」という扱いになってしまいます。
ちなみに福沢諭吉にいう「徳」とは、「他人に迷惑をかけないこと」に過ぎません。
支那や朝鮮が元々儒教国家と言われながら、全く「仁」の思想が国民性の中にあるように見えないのは、自由主義者やサヨク思想の学者と同じように上下関係の道徳として認識され、悪用されて支配の道具になっていました。
このように、学問でさえ思想が違うと全く意味が変わって来てしまうのです。

最後に歴史についてです。
歴史とは単なる事実の連続ではありません。
歴史とは、過去の出来事を現代人の我々がどのような物語で解釈するかが歴史なのです。
だから、解釈に大きく影響する思想抜きに歴史のことは語れません。。
「苦痛は悪である」という考えに縛られている自由主義者やサヨク思想の人は、社会を「支配する者(苦痛を与える者)と支配されるもの(苦痛を与えられる者)」という構造でしか、世の中が見えていません。
そういう人たちにとって、歴史は全て「支配者―被支配者」として解釈されます。
そのため、天皇や将軍、武士は支配者、農民、被差別部落の人たちが被支配者になります。
殿様と家臣の間の忠義は全てではないにしても、「仁」を基にしたものだったはずです。
そうでなければ、殿様の死に続いて殉死する家臣のことを理解することはできません。
殉死とは愛する殿様への命さえ捧げる極度の愛です。
家康が殉死を禁止しなければならないぐらいでした。
自由主義者やサヨク思想の人からすると、殉死などは全く理解不可能なことです。
頭がおかしくなっているとしか考えられないでしょう。

それから、「仁」の思想の人からすると、天皇のために日本のため忠義を尽くして命を顧みず、志を遂げようとした楠正成は、忠義の士としての英雄ですが、自由主義者からすると「時勢が読めない武将」に過ぎず、逆にサヨク思想の学者からすると「豪族から生まれた革命家」となります。
同じ人なのにその人の生き様が全く違う解釈になってしまうのです。

私は、自由主義思想やサヨク思想より、日本古来の「仁」の思想の方が日本人は幸せに生きられると思っています。
心の中の思想の自由は保障されるべきですが、自分や他の人に迷惑をかける思想を論破していく自由もあります。
私は、このブログの中を通して、極端な(キリスト教が背後にない)自由主義思想、サヨク思想を論破し、日本人が本来の「仁」の心をを取り戻し、日本人が与えられた能力や環境の中で、それぞれが困難を乗り越えながらその役割を担い、それなりの幸せを感じながら、人生を全うできるように、貢献していきたいと考えています。