2014年3月14日金曜日

日本バドリオ事件顛末(第五回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 47ページ

 私は日華事変の始まった当時から、陸軍にこの国家が任して置かれるか、何としてでも政権を早く陸軍から奪い返すことが最大の時務であることを痛感していた。そこで国を憂える人々に対して、まず日華事変を早く止めなければならないと説いていた。
 そこで当面する問題は、陸軍を政治から追っ払うこと、これが解決されれば、あとは自然に解決される、困難は他にも色々あるけれども、それは大した問題でない、というのが我々の考え方であった。だから三国同盟については、戦争に巻き込まれる危険を怖れて、私は常に反対しておった。
 陸軍が日華事変を止めたくなかったことは、ドイツ大使トラウトマンの仲裁に応じなかったのを見ても判るし、「蒋介石を相手とせず」もそうだ。もっとも平和交渉に応ずるというゼスチュアだけはする。これを見て陸軍が良くなった、平和論になったと思って、一生懸命努力してみると、最後の土壇場へ行けば必ずひっくり返る、何時でもそうだ、これは近衛さんが切実に経験されたところである。
 その三国同盟の頃、吉田茂さんがイギリスから帰って来られたから、私は吉田さんと旧交を温めた。だんだんと提携を密にして行くようになって、吉田さんを中心に、我々後輩が集まって運動を続けたわけである。
 ここで吉田さんと私の関係を簡単に述べると、無論吉田さんは私よりずっと先輩で、昭和二年田中内閣の時、田中外務大臣の下で外務次官になられた。田中さんはほとんど毎日のように外務省に来て事務をとっておった。私は総理大臣秘書官で、外務大臣秘書官を兼ねてはいなかったけれども、事実上は外務大臣秘書官の仕事もしていたわけで、次官、局長あたりとは密接な関係があった。吉田さんの前の次官は出淵勝次で、これは私の親戚であった。吉田さんはその頃から、極くいい意味の政治家の風を備えておられた。事務官というよりも政治家であった。吉田さんは一つの政治的識見を持っておられて、外交を政治の一環として、進めて行こうという、ハッキリそれを意識して、外交事務ではなしに政治をやる意味で外交をやっておられたのだと思う。それで私は親類である出淵より吉田さんの方が親しみをもって接することが出来た。というのは、吉田さんは最も忠実に田中首相を助けて、田中と一心同体に働いておられた。出淵次官はいつまでも次官で残ってはいない、遠からず米国大使になって出て行くと言うことが決まっておったから、腰掛けの次官と言うところがあったが、吉田さんになって本腰を据えた次官という感じであった。—

0 件のコメント:

コメントを投稿