前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 46ページ
それではなぜ対英米戦争をやる気になったか。あの頃しきりに反英の空気を煽って、反英理論を宣伝したものだが、これはソヴェットにおいて、カール・ラデックが世界に向かってしきりに論陣を張っていた反英理論とそっくりなものである。ラデックはドイツ系の ユダヤ人で、後に粛正されて、あとで寛大な処置を与えられた男であるが、その当時はソヴェットの有力なるスピーカーであった。そのスピーカーの主張通りの主張が日本においてしきりに行われたのである。反英的空気はあってもソヴェットと争う考えは微塵もなかった。陸軍の中には対ソ論者がたくさんいたけれども、その人達はリーダーの位置から皆追われてしまった。皇道派は二二六を契機としてみんな退けられてしまった。石原莞爾なども初めは対ソ論者だったが、後には考えが変わって「東亜連盟論」を書いたりした。これは東洋においてソヴェットを作るということなのだ。ある人は彼はコミュニストであるとはっきり言っておる。なるほど今の左翼の人々は、陸軍とは仲良くなかったであろう。しかしまた陸軍と仲良かった左翼もたくさんおったのである。三月事件前後から陸軍は左翼と非常に密接な関係をもっておった。いかなる人々がそうであったかこのところでは差し控えるが石原はあの当時の統制派の代表者だったから、この連中と特に親しくしていたようだ。しかしその他の連中にしても左翼の人達に対してすこぶる敬意を払っておったようだ。
そこで陸軍はソヴェットと争うことは絶対に避けた。張鼓峰、ノモンハン、あれは日本の陸軍がハッキリ負けた。それでも黙って引き下がった。ノモンハンでは一箇師団の兵隊を失っている。それでも黙った引き下がった。あの戦争に参加した関東軍の幹部は全部罰を食らっている。北京郊外盧溝橋の銃声一発が日本の軍隊を侮辱したといって、あれほど戦を始めたくらいなら、一箇師団の兵隊を失って何で黙って引き下がる理由があるか。当時は日華事変をやっておったから、両方に的を迎えることはできなかった、ことに新鋭の武器を持ったソヴェットの軍隊を向こうに回すことは到底できないことだった、と言う説がある。しからば日華事変のあの大泥沼に足を突っ込んでヘトヘトになっている日本の軍隊が、なぜ英米と戦ったのか。日本の陸軍は何十年来伝統的に大陸政策即ち北進政策を主張して来た。支那本部に事を構え、更に南方に向かって日本の権益を拡張するなんぞということは、日本の陸軍の夢にも考えざるところである。海軍は平和的南進論を夢見ておったが、陸軍はこれを軽蔑していた。それが突如として南に向かって、大東亜共栄圏ということになった。ドイツのナチみたいな汎独主義のような最初から強調され、その実現に向かって進んでいったというならば南進論もわかるけれども、日本の陸軍はそんなものは持ってはいない。日華事変の後で南進を実行するにおよんででっち上げたものが大東亜共栄圏だ。そこに日本の陸軍が昔の陸軍と大変な相違のあることが看取できるのである。
彼等はそれからブロック経済論を唱えた。ブロック経済というのは大陸政策であって、南洋のような海上に散在する島々は、ブロックにできるものではない。大英帝国の崩壊を笑ったのは誰だ。大英帝国は本当のブロックではない、海の上の島々を単に頭の上で連結したに過ぎないから弱いのだ、世界の政治の上から消えるのだ、こう言って批評していた日本が、何を好んで海の上にブロックを考えるのか、論理上の矛盾撞着も甚だしいではないか。
かの日本の陸軍は世界中に優秀なる情報網を持って、ふだんから戦略を研究しているし、戦力の基礎をなす経済力とか政治の状況を知悉(ちしつ)してるはずだ。そのデータを精細に集めて研究しているならば、英米と戦争して勝てるなどと考えるわけはない。そんな馬鹿な参謀達ではあるまい。あるいはナチの赫々(かくかく)たる戦果に眩惑されて、自分自身には大した用意もなし自信もないけれども、ドイツの戦勝に便乗しようと安価なことを考えたのではないか、と論ずる人もある。しかし私はそれも採るに足らぬ説だと思う。ダンケルクでイギリスを追い落とした当時のことならいざ知らず、日本が世界戦争に入ったのは、あれから二年も後のことだ。しかもドイツがソヴェットに対して戦争を開始していた時のことだ。戦史を知っている者ならば誰でもわかる。ドイツという国は、二正面作戦、しかも長期戦争で勝ったためしがない国だ。
それがわからぬ陸軍ではない。
彼等は今まで詳述したように、戦さをするための戦さをする。国家の利益とか、国民の福祉とかは、真剣に考えたことはない。彼等は負け戦さを承知の上で、戦争の相手を次々と変え、拡大していく。これほど危険なことがあろうか— これが私の一貫した持論であった。
続く
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