前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 48ページ
我々同志の最大の問題は、陸軍を政治から追っ払うこと、それには陸軍大臣にその人を得て陸軍を粛正する外は無い。その陸軍大臣に誰を充てるか。私共は真崎甚三郎大将を考えた。ところが、真崎さんに対しては当時非常な誤解がある。統制派が非常な努力をして真崎さんに対する誤伝を世上に流布したものだが、この真崎さんを囲む一団の人々がある、その最も有力であったのが小畑敏四郎、あるいは松浦、山岡、また柳川などもそうであった。その中で真崎、小畑が最も信用の出来る人だ。陸軍の実情を認識して、陸軍の粛正を実行し得る人は、この二人殊に真崎さんを措いて他に人は無い。真崎が大臣ならば小畑は次官になるであろう。ところが二人とも予備だ、予備のしかも非常に誤解されておる真崎さんを陸軍大臣に起用する政府を作らなければならない。それを身に以て実行する決心をした人を総理大臣に択ばねばならぬ。これが我々の建前であった。
真崎、小畑の二人と我々との結び付きに就いて言えば、我々の盟友の一人である岩淵辰雄君がこの二人と非常に親しかった。私もこの二人とは親しかった。そうして私も岩淵君も吉田さんとは頗る親しい、こういう関係で結合するに至ったが、後に近衛さんが第三次近衛内閣を投げ出して陸軍に振り捨てられてから、その全部と親しい我々と一緒になるようになったのである。しかしそれは近衛さんだけでこれがために従前近衛さんを取り巻いておった人々と密接な関係を生ずることは無かった。もちろん至って少数の例外はある。
そうやって我々が非常に憂えているうちに、遂に三国同盟が出来、翼賛会が出来、日米交渉という場面になった。日米交渉というものは非常に矛盾したものである。けれども近衛さんは真面目に考えた、ああいう矛盾したコースが近衛さんのとってはナチュラルであったのだろう。近衛さんはあの交渉の成功せんことを切に祈った。私は駄目だと思った、吉田さんもやはり駄目だと思いながらも、非常に親しかったグルー氏やクレーギー氏あたりに向かって熱心に努力されたものである。既にその頃は憲兵が我々を追っかけていた。吉田さんの平河町の邸は憲兵に取り囲まれていた、私共はそれを承知していたけれども、そんな事は構わない、平気で出入りしておった。
そこへ松岡がソヴェットから帰って来て、真っ先に日米交渉をぶち壊しに懸かった。南仏印進駐をやった。これは日米和平の退路を絶ったようなものだ、それでもアメリカも非常な努力をした。もし日本が誠意を以て平和的妥結に持って行こうとするならば、それは立派にできていたと思う、それを軍が壊そうという建前だから出来っこない、遂に不成功に終わった。
そこで我々は、この日本の政治の真相を、先ず重臣に認識してもらわなければならないと考えたので、吉田さんと私が、手を替え品を替えて重臣の間を説いて歩いた。若槻を説き、牧野さんを説き、岡田にも、平沼にも、幣原にも、池田成彬にも説き、私は町田忠治にも話した。
宇垣さんにも話した。そうしておるうちに、遂に太平洋戦争に突入してしまって、それから近衛さんの反省と煩悶が始まったわけだ。
ある冬の寒い日、私は小畑敏四郎君と一緒に湯河原の近衛さんの別邸に往って、私の見解を数時間に亘って述べた、それを近衛さんは熱心に聴いてくれた。近衛という人は聴き上手だそうだから騙されてはいけないと思ったけれども、そうではなかった。
「殖田さん、私は三遍組閣して、その間相当長い年月も経っているし、あらゆる人と密接な交渉もあった。いろんな場面にも会っている、その体験からいうと、あなたのお話は思い当たる事ばかりです。何故私にもっと早く話しをしてくれなかったか」、これに対して私は、「敵の重囲の中におられるあなたに話をすることは出来ませんでした。話をして、私も重囲の中に陥って殺されることは厭わないが、私が殺されたら、志を継ぐ人が無い、自惚れとは思ったけれども、そう考えたから危うきに近寄らなかったのだ」という話をした。
続く
次回から第二部です。
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