2015年6月21日日曜日

非常時局読本(第二十回)「外国の全体主義と日本の一体主義」

今回は全体主義と日本精神、日本の一体主義との違いについてです。


非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

106ページより

二十、外国の全体主義と日本の一体主義

 それから、日本精神と全体主義、之もよく取り違える事である。全体主義を日本精神のように思っている人がある。全体主義というものは元来は個人主義から発展している。個人主義の反面であって根は同様である。名は全体主義であってもその基礎は個人主義である。だからそれは丁度海岸で砂を水で握り締めた様なもので、ちょっと投げつければ、またちょっと雨に合ってもパッと散ってしまう。それが彼等の全体主義であり、個人主義を軽視しながら個人に立脚する矛盾である。日本の方は君民一体の一体主義である。民は大君を現神と敬い 天皇は民を大御宝として愛撫される。即ち一家族の精神である。親と子と離れる事の出来ない一体主義である、個人が栄えれば総体が栄える一体である。総体が栄えれば個人もよくなる一体である。即ち宇宙の真性、宇宙の生成化育と同じ精神で上下一致して一体となっているのであるから、その発展状況は丁度植物の発育するようなものである。即ち根が水分を吸って幹を養い、幹は枝を養い、枝は葉を養い、葉は空気や光線を吸収して枝を養い、枝は幹を養い、幹は根を養ってお互いに一体となって相寄り相助け、各部栄えて行くと同時に一体として生育して行く、これが日本の国体精神であり、日本精神である。それを無理矢理に全体主義だ、何だと言って盆栽の様に外から無理な力を加えて行くのとは全くその撰を異にするのである。
 全体の為にこの枝は邪魔になるからこれを切れとか曲げてしまえとか、甚だしきに至っては木を逆さまにして植えるようなことまでしてとうとう木を枯らすようになる、これが流行の全体主義で、日本の一体主義即ち大自然のままの主義方針に適わぬのは当然である。日本の一体主義は平等の中に差別あり差別の中に平等ありで、天の摂理そのままをやっているから、これに優るものがある訳がないのである。ただ全体というと、それは日本の国体に合うように思う人があるけれども、その点は今言った様に非常に注意を要する点であって、そこがはっきりしていないと八紘一宇の精神をも取り違えることになると思う。八紘一宇ということは丁度彼の先のドイツの皇帝が武力をもって世界を併呑しようとしたのと同様、その覇道の様に考えている者があるようであるが、八紘一宇ということは即ち太陽の光線が無差別に万物に及んで、その慈愛を垂れこめて万物を生成化育せしめて同化さして、各々その所を得せしめて発展さして行く、これが八紘一宇の精神である。しかして同化されて一体となるものならばちっとも差し支えない、無理がなくついて来るものである。それだから今度の戦にせよ何も領土的野心があるとかないとかいう必要はない。領土的野心なしという議論は領土的野心ありということを前提としての論理と同様になるので、この思想を認めたことになってしまう、そんなことをいう必要はない。所謂皇道翼賛、つまり天業を恢弘して行くことに依って同化されて日本のものになり、陛下の御稜威について来るものならば喜んでそれを頂戴して育み育てて行けば宜しい。即ち無理なくして付いて来る者は取っても宜しい。無理をして取ることは皇道ではない。日本精神は絶対に無理をしない。天の摂理そのまま、恰も宇宙が出来て動植物が生えて育って行くそのままの原理を指導原理としているのが、所謂日本精神である。八紘一宇である。全体主義と日本主義と間違えると、八紘一宇を覇道であるかの如く考えて来るのである。それは恰も小節の信義を重んじて大綱の順逆を誤るのと同様になるのである。

全体主義と一体主義の違いは、無理矢理個人を一体化させる全体主義と、生物の細胞のように有機的に一体になっているのが一体主義のようです。

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