2015年6月28日日曜日

非常時局読本(第二十二回)「議会制度否認問題」

当時大政翼賛会などのように議会制度を否認するような動きがありました。これに対する批判です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

112ページより

 近時議会制度を否認する考えがあるようであるが、これもまた国体を真に理解せざる結果である。永年にわたって政党が腐敗しておったために、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということになって、感情的に起こってきた議論である。政党の悪いのはそれはそれとして別に考えこれを正すべきである。日本は神代の時から議会はあった、国体の根本精神は議会制度を認めている。ご承知の様に天孫降臨に際して天安河原に於いて、八百萬神が神集いに集い給い、神諮りに諮り給うたということになっている。これは今日でいうと議会を開いてどうしよう、こうしようと会議をされて、その結果天孫が天降りになったのである。即ち我が国は神代の昔から肇国の初めから議会というものが設けられいる。ただ神集いというのは神様が集って、即ち私心のない者が集って 天照皇大神の御心をその儘 天皇の大御心を心とせられている方々ばかりが会議されたのである。今日は私欲を持った代議士が集まるからいかぬのであって、決して議会制度そのものが悪いのではない。つまり人間に私心があって日本精神がないからいかぬ。だから昔の如く神集いに集い、神諮りに諮らんとする精神がないのが悪いので、議会そのものが日本の国体に合わないのではない。それで明治天皇は御自ら欽定憲法を作られ議会が出来上がった訳であるから、何処までも御意に添って皇運を翼賛するための議論ならば、論議は決して相克摩擦ではなくて、切磋琢磨になるのである。それを私心を持ってやったり感情を持ってやったりするから相克摩擦になる。そこをはっきり弁えなければならん。これを混同してはならない。もちろん選挙法等は何とか改正すべき点もあるであろうが、しかし兎にも角にも集まる人間が私心のない人間でなければならぬ。そのことがはっきりせぬから議会が悪いことになるのである。だから選挙する人もやはり私心を去り、感情を去り、本当に日本精神を以て大義名分のはっきり分かった人を選挙してそれを議員に送らなければならぬ。そういう議員を送って議会を天安河原に於ける神々の会議のような議会にすることを理想として行わなければならぬのである。

2015年6月21日日曜日

非常時局読本(第二十一回)「億兆一心と一国一党」

大政翼賛会への批判です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

111ページより

二十一、億兆一心と一国一党

近頃は一国一党ばやりで「億兆心を一にして」ということを解釈してそれは一国一党という事だと詭弁を吐く人がある。これもまた国体を弁えない結果である。
 勅語の中に「国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済ませるはこれ我が国体の精華にして・・・」こう仰せられているのはこれは皇運を扶翼し奉るところに帰着しなければならないのである。それでその皇運を扶翼し奉る為に、世々厥の美を済ます為の億兆一心であるならば、日本国は一国一体一国無党であるべきで党派などはないのである。一国一党ということを殊更にそれは一国一体であるかの様に誤解する所に誤ちがあるのである。皇運を扶翼する為の団体、仮にそれを党と名付けるならば、即ち皇運を扶翼するために切磋琢磨して行く党ならばそれは何党であっても構わない、党の数は問題ではない。その党が日本精神を持っているかいないかということが問題である。殊更ながらに一党は一体なりというようなことにこじつけて行くと、それは非常に危険な結論に陥って行くのである。何事も指導原理が確かでないと直に現実の問題について誤ちが起こって来るのである。



非常時局読本(第二十回)「外国の全体主義と日本の一体主義」

今回は全体主義と日本精神、日本の一体主義との違いについてです。


非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

106ページより

二十、外国の全体主義と日本の一体主義

 それから、日本精神と全体主義、之もよく取り違える事である。全体主義を日本精神のように思っている人がある。全体主義というものは元来は個人主義から発展している。個人主義の反面であって根は同様である。名は全体主義であってもその基礎は個人主義である。だからそれは丁度海岸で砂を水で握り締めた様なもので、ちょっと投げつければ、またちょっと雨に合ってもパッと散ってしまう。それが彼等の全体主義であり、個人主義を軽視しながら個人に立脚する矛盾である。日本の方は君民一体の一体主義である。民は大君を現神と敬い 天皇は民を大御宝として愛撫される。即ち一家族の精神である。親と子と離れる事の出来ない一体主義である、個人が栄えれば総体が栄える一体である。総体が栄えれば個人もよくなる一体である。即ち宇宙の真性、宇宙の生成化育と同じ精神で上下一致して一体となっているのであるから、その発展状況は丁度植物の発育するようなものである。即ち根が水分を吸って幹を養い、幹は枝を養い、枝は葉を養い、葉は空気や光線を吸収して枝を養い、枝は幹を養い、幹は根を養ってお互いに一体となって相寄り相助け、各部栄えて行くと同時に一体として生育して行く、これが日本の国体精神であり、日本精神である。それを無理矢理に全体主義だ、何だと言って盆栽の様に外から無理な力を加えて行くのとは全くその撰を異にするのである。
 全体の為にこの枝は邪魔になるからこれを切れとか曲げてしまえとか、甚だしきに至っては木を逆さまにして植えるようなことまでしてとうとう木を枯らすようになる、これが流行の全体主義で、日本の一体主義即ち大自然のままの主義方針に適わぬのは当然である。日本の一体主義は平等の中に差別あり差別の中に平等ありで、天の摂理そのままをやっているから、これに優るものがある訳がないのである。ただ全体というと、それは日本の国体に合うように思う人があるけれども、その点は今言った様に非常に注意を要する点であって、そこがはっきりしていないと八紘一宇の精神をも取り違えることになると思う。八紘一宇ということは丁度彼の先のドイツの皇帝が武力をもって世界を併呑しようとしたのと同様、その覇道の様に考えている者があるようであるが、八紘一宇ということは即ち太陽の光線が無差別に万物に及んで、その慈愛を垂れこめて万物を生成化育せしめて同化さして、各々その所を得せしめて発展さして行く、これが八紘一宇の精神である。しかして同化されて一体となるものならばちっとも差し支えない、無理がなくついて来るものである。それだから今度の戦にせよ何も領土的野心があるとかないとかいう必要はない。領土的野心なしという議論は領土的野心ありということを前提としての論理と同様になるので、この思想を認めたことになってしまう、そんなことをいう必要はない。所謂皇道翼賛、つまり天業を恢弘して行くことに依って同化されて日本のものになり、陛下の御稜威について来るものならば喜んでそれを頂戴して育み育てて行けば宜しい。即ち無理なくして付いて来る者は取っても宜しい。無理をして取ることは皇道ではない。日本精神は絶対に無理をしない。天の摂理そのまま、恰も宇宙が出来て動植物が生えて育って行くそのままの原理を指導原理としているのが、所謂日本精神である。八紘一宇である。全体主義と日本主義と間違えると、八紘一宇を覇道であるかの如く考えて来るのである。それは恰も小節の信義を重んじて大綱の順逆を誤るのと同様になるのである。

全体主義と一体主義の違いは、無理矢理個人を一体化させる全体主義と、生物の細胞のように有機的に一体になっているのが一体主義のようです。

2015年1月12日月曜日

非常時局読本(第十九回)「戦時に於ける統制」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

105ページより

十九、戦時に於ける統制

 次に戦時に於いて若干はどうしても統制しなければならぬが、それは統制主義がよいからという意味でやるのでなく、戦時の特種の事情下にやむを得ず行う政策である事を理解しなければならぬ。それをよく理解せずして統制が主義上一番よろしい等と考えて行くとその結果は共産主義になってしまうのである。即ち戦時は戦争に勝つ事が唯一の目標であるから直接戦争に必要なことに力を入れ、戦争に直接必要でない方面は節約して行わねばならぬのであって、好んでやるべきものではないのである。もし統制主義という理想的に主義がある等と考えると統制のために統制する事になり、先に言ったようにスターリンのやり方と同様になる訳であるから、主義と実際とはよく区別して考えなければならぬ。また立法をするにも法の運用をするにもその支配を受くるのも日本国体の本義即ち義は君臣、情は父子と言う事を忘れてはならない。世の中は光線が強いと陰は之に比例して暗くなる様に、統制で官権が強くなるとまた民間の暗黒な力も強くなる、また中間には官吏の代わりをする者が出来て却って政府の権力は弱くなり、遂には国を乱す様になるのは歴史の示す所である。斯くの如く統制は毒ガスのようなもので使い方を間違えると全く味方を殺し自殺する事になるのである。大いに注意して実行せねばならぬ、と同時に計画の必要と統制とを履き違えてはならぬ。

2015年1月11日日曜日

非常時局読本(第十八回)「共産主義の基礎をなす平等観」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

101ページより

十八、共産主義の基礎をなす平等観

 次に所謂平等観をもって正義だと思っているのが共産主義になるのである。ところが実際現在の世の中には一つも平等なるものはない、ないから総ての現実を否定して来る。現実を否定して来るから現状を破壊しなければならぬ。そこで革命になるのである。しかして共産主義、社会主義の特徴は自己の反省というものが一つもないのである。自分が貧乏しているのは自分の能力が足らぬということや、或は自分の努力が足らぬことを反省しないで、これは皆社会制度が悪いと言って、何でも罪を人に被せるのが特徴である。同じ戦で負けても、昔の日本武士は自分の修行が足らぬから負けた、こういう風に自己反省をして、そうして努力をする。また敵ながら天晴だと言って敵の良い所を誉めている。そしてその良い所を自分で学んで屈せずにまた起ち上がる。こういうのが所謂日本精神である。真の共産主義というものは、一九二〇年頃ロシア革命の直後これを行った。ところがご承知の通り忽ちにして大飢饉になって数百万の人が死んでしまうようなことで実際には之は立ち行かない。つまり皆が楽にはならず皆が乞食になるのであって、立ち行かないか色々看板をかえて新経済政策と称し、新々経済政策、或は第一次五ヶ年計画、第二次五ヶ年計画といって、鈍重なるロシア人を誤摩化し羊頭を掲げて狗肉を売っているのである。列国に対してもまた国民に対しても今更共産主義は悪いとは言えないから所謂新経済政策、新々経済政策と称して所謂統制経済をやっているのである。(計画の長所は見る必要がある)故に本当の共産主義即ちマルクスやエンゲルス、或はレーニン、トロッキーが言ったような共産主義というものは、私の見る所では実際上は世界に存在しない。観念上或は学術上でそういう共産主義というものはあるけれども、実際に彼等が考えておったように貨幣制度もやめる、銀行も止めるというような共産主義を実行できるものと思っている者は一人もないと思う。之はロシアの実験ではっきり分かった次第である。もっとも西洋では二十歳代に社会主義にならぬ者は心臓がない、熱がない、頭がない、又三十過ぎまで社会主義を称える奴は馬鹿だというような噂もあるけれども、共産主義は今のようにロシアで実験済みである。だから世界中でロシア人が一番共産主義にはもう懲り懲りしている。しかしまた革命になって悲惨な思いをするよりよいと考えているのが真相である。さりながら共産党だけは一国一党主義でやっている。彼等は是をいけないと言う時は自分の首が飛ぶ時であるから、詮方ない訳である。本当に之が良いと思っている者は一人も居らぬと思う。今日の実情は所謂一国一党で国家管理、極端なる統制でもってやっている有様である。之がスターリンの共産主義である。これ以上のことをやろうとすると直に飢饉に襲われて人民が死んでしまうから出来ない相談である。私は共産主義の基礎を成す平等観というものは、むしろ日本人が今日一番強いのではないかということを憂えている次第である。また日本人には社会政策と社会主義の区別のつかぬ者が多いのである。

非常時局読本(第十七回)「統帥権と各思想との関係」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

96ページより

十七、統帥権と各思想との関係

 皆さんも未だによく記憶して居らるる事と思うが、最もやかましかった第一次ロンドン会議の如き、その時に標語は世界平和のための軍縮会議、また国民の負担を軽減するために軍縮をやるんだというのであったが、その結果は先に詳しく言ったように全く正反対に国内に於ける各種不祥事の原因となり、また今次事変の間接の大原因となっている次第である。金もまた昨年は八十億、本年も百億に近い膨大な予算を要する事になったのである。何事もご都合主義に目前の難を避け、易につき、その日その日の事なかれ主義をやっておると、最後には大事になることは之によって明らかである。それだから常に確固たる指導原理を持ち、これを規尺として物の善悪を、事の是非を判別して大義名分の下に解決して行くようにする事が必要である。次に統帥権と各思想との関係を述べると一番はっきり分かるからお話するが、自由主義は統帥権の独立ということを認めない。これは日本独特の国体を真に認めぬから左様になる訳である。しかして統帥権の独立は国体を直接擁護して行く力である。だから前にも言った通りに勅諭の中にも
 「その兵馬の大権は朕が統(す)ぶるるところなればその司司をこそ臣下には任すなれ、その大綱は朕親(みずから)之を撹(と)り肯(あ)て臣下に委ぬべきものにあらず、子々孫々に至るまで篤く斯く旨を伝え天子は文武の大権を掌握するの義を存して再び中世(なかつよ)以降の如き失体なからんことを望むなり」
と仰せになっているのである。この軍隊に賜った勅諭がもう少し一般に普及しておると、そういう点がはっきりと一般にも分かって来ると思うのであるが、一般の方はご承知がないから困る。そういう風な大事な統帥権に関して、自由主義はこれを政府のものなり、即ち議会の監督を受くべきものなり、という風に解釈している。それだからそれに対抗して統帥権の独立が叫ばれたのであるが、本当に皇道精神をもってこの独立を主張したのと、それからファッシズム精神をもってこの独立を叫んだのと二つあった訳である。言語から見ると二つとも独立であるから、差別はないように思われたが、それが誤りの初めであって、一面今日ファッショを日本精神の如く考えたのもこの所に起因する点もあるのである。そこで、独立は独立だけれどもファッシズムの思想から言えば、その統帥権は自分のものだと考える、自分の独占と考える。そう考えるからいわゆる日本にあるまじき各種の事件が起こって来る訳である。一体皇軍は国体擁護のためになるのであるから、これを破壊する者は内敵たると外敵たるを問わず、討伐すべきであるけれども、之は自分勝手に討伐すべきではない。一に絶対に大命に依って発動すべきである。ところが権力至上主義に捉われると権力の権化となり何事も独占の感にとらわれ、遂に自分が権力者になり切って、自分の判断で勝手に討伐するような間違いが起こりやすいのである。
 日本精神からいうと統帥権の独立を叫ぶのは本当に 陛下のものにせんが為である。凡て軍隊の発動は大命に依るべきものであると思っているからそこに過ちが起こらない。威厳あって過ちなく一つも無理がないのである。そういう風に大事な統帥権、国体擁護の根本とも言って宜しいような統帥権に付いても、思想的には斯様な差別があるのである。またこれを人格、道徳的に区別して見ると、例えば会社の社長なら社長が、自分が金があるから大きな顔をして威張っておっても宜しい、そういう風な考えを出して来るならば、それは自由主義の思想から出て来る考えである。また俺は会社の社長であってお前達の首を切る権利があるから偉いのだぞ、こういう風に思うならば、それは即ちファッショの思想から出て来る考え方である。自分等がお互いに安楽にこうして暮らしていられるのは御陵威の御力であると感謝の念に満ちて考えるならば、それは日本精神から出る考えである。しかして之は何も上の者ばかりの事ではない、下に使われている者も同様である。今のように商店法が施されて夜十時過ぎると、それから先は俺の権利だという風に考えるのは、それは自由主義の思想から来る考え方である。そこを日本精神で見ると我々がこうして安楽に起居が出来るのは主人のお陰である、主人の為に今よりもっと充分に働かねばならぬという考えが起こって来る。此の何れが良いかということは、之は最早論ずるまでもない。本当に心の安定は日本の精神で初めて得られることは、それ等の事実からしてもはっきりして居ると思うのである。

2014年12月26日金曜日

非常時局読本(第十六回)「日本に於ける自由主義の罪悪」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

92ページより

十六、日本に於ける自由主義の罪悪

 自由主義より生じた害悪で、我が国で一番大きいのは 天皇機関説である。之が国家非常時の根本である事は先に言った通りであるから贅言(ぜいげん)せぬが、次は普通選挙である。之も今までの話で大体明らかであると思うが、本当に日本の国体の分かった者には考え得られないことである。つまり親と子が政見が違えば喧嘩しても宜しいという法律を作ることは国体の根本を無視している。之は政党華やかなりし時代に、自分達の政権争奪の為に鹿を追う猟師は山を見ずで、斯くまで脱線したのであるが、其の罪は非常に大であると思う。
 また次には世界の自由主義国の現状維持派が巧みに日本を籠絡するために造り上げた国際連盟の翻弄である。之も自由主義に基づく過誤にして、日本人が自由主義乃ち方便主義、ご都合主義に堕して長い者にまかれた訳である。この国際連盟というものは、世界の現状を維持するために造ったのである。世界大戦後に一番都合の良い事情にあったのは日本であった。財力も大いに出来、武力も大いに余裕があり、一方ヨーロッパ諸国は大戦後でへとへとになっている。此の機会に乗じて日本が支那に今日の様に進出されてはアジアは日本の思うままになる。だから此の時に一つ日本の頭を抑えて置かなければ、将来白人は支那から追い出されると驚いて日本を抑えつけ様と苦心したのである。ところが大戦後で抑えるには彼等に武力が足らないから、思想で巧みに撹乱して制御して行こうと云うので現状維持の口実を巧みに作って日本の自由主義者を籠絡しにやって来た、其の罠に日本が掛かった訳である。其の当時ならばアジアは日本のアジアであった訳である。それで日本の特長を抑圧せんがために、色々な標語を作り、やれ軍国主義はいかん、或は帝国主義はいかん、侵略主義はいかん、という風に宣伝してそれが世界平和の根本原理だ、或は国際正義だ、社会正義だと云って瞞着(まんちゃく)して自由主義にかぶれておった当時の日本の有力者をすっかり籠絡してしまったのである。
 それから次には軍縮会議であるが之も本当に皇軍の本質を知っておれば、軍備を外国の何割で宜しいというような気分になれるものではないはずである。皇軍は読んで字の如く 天皇の軍隊であり、国体擁護のため、天業恢弘(かいこう)、皇道翼賛のために存するのである。外国の様に政府の軍隊であり、政策のため侵略主義のための軍隊ではないのである。外国の軍備と相対関係に考うべきでなく、絶対自主の立場に立って考うべきである。我が国独特の皇道翼賛を基礎にして考うべきものである。其の本質も破邪顕正(はじゃけんしょう)、人類平和に貢献しこそすれ、是に害毒を流す性質の軍隊ではない筈である。それを自由主義のご都合主義になれば、直に外国の宣伝に乗って、其の本質をも忘れ日本の軍備の特質おも忘れる様になり、長い者に捲かれる気になり、遂に外国の侮をも買う様になるのである。