2014年12月26日金曜日

非常時局読本(第十六回)「日本に於ける自由主義の罪悪」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

92ページより

十六、日本に於ける自由主義の罪悪

 自由主義より生じた害悪で、我が国で一番大きいのは 天皇機関説である。之が国家非常時の根本である事は先に言った通りであるから贅言(ぜいげん)せぬが、次は普通選挙である。之も今までの話で大体明らかであると思うが、本当に日本の国体の分かった者には考え得られないことである。つまり親と子が政見が違えば喧嘩しても宜しいという法律を作ることは国体の根本を無視している。之は政党華やかなりし時代に、自分達の政権争奪の為に鹿を追う猟師は山を見ずで、斯くまで脱線したのであるが、其の罪は非常に大であると思う。
 また次には世界の自由主義国の現状維持派が巧みに日本を籠絡するために造り上げた国際連盟の翻弄である。之も自由主義に基づく過誤にして、日本人が自由主義乃ち方便主義、ご都合主義に堕して長い者にまかれた訳である。この国際連盟というものは、世界の現状を維持するために造ったのである。世界大戦後に一番都合の良い事情にあったのは日本であった。財力も大いに出来、武力も大いに余裕があり、一方ヨーロッパ諸国は大戦後でへとへとになっている。此の機会に乗じて日本が支那に今日の様に進出されてはアジアは日本の思うままになる。だから此の時に一つ日本の頭を抑えて置かなければ、将来白人は支那から追い出されると驚いて日本を抑えつけ様と苦心したのである。ところが大戦後で抑えるには彼等に武力が足らないから、思想で巧みに撹乱して制御して行こうと云うので現状維持の口実を巧みに作って日本の自由主義者を籠絡しにやって来た、其の罠に日本が掛かった訳である。其の当時ならばアジアは日本のアジアであった訳である。それで日本の特長を抑圧せんがために、色々な標語を作り、やれ軍国主義はいかん、或は帝国主義はいかん、侵略主義はいかん、という風に宣伝してそれが世界平和の根本原理だ、或は国際正義だ、社会正義だと云って瞞着(まんちゃく)して自由主義にかぶれておった当時の日本の有力者をすっかり籠絡してしまったのである。
 それから次には軍縮会議であるが之も本当に皇軍の本質を知っておれば、軍備を外国の何割で宜しいというような気分になれるものではないはずである。皇軍は読んで字の如く 天皇の軍隊であり、国体擁護のため、天業恢弘(かいこう)、皇道翼賛のために存するのである。外国の様に政府の軍隊であり、政策のため侵略主義のための軍隊ではないのである。外国の軍備と相対関係に考うべきでなく、絶対自主の立場に立って考うべきである。我が国独特の皇道翼賛を基礎にして考うべきものである。其の本質も破邪顕正(はじゃけんしょう)、人類平和に貢献しこそすれ、是に害毒を流す性質の軍隊ではない筈である。それを自由主義のご都合主義になれば、直に外国の宣伝に乗って、其の本質をも忘れ日本の軍備の特質おも忘れる様になり、長い者に捲かれる気になり、遂に外国の侮をも買う様になるのである。

2014年10月23日木曜日

非常時局読本(第十五回)「自由主義の発達と日本精神」

 今回は自由主義と日本精神の違いについての話です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

83ページより

十五、自由主義の発達と日本精神

 次に個人の完成、個人の利益を至上と考える者がある。それをもって正義なり人道にかなっていると考える者がある。そうなると所謂個人主義が起こり、利己主義ともなる。それが所謂今日の自由主義の元である。これは所謂個人の完成、個人の利害を基調とし立った思想であるから、唯物至上主義であり「花より団子」主義である。また自分の利益のためには「長いものには巻かれる」主義である。また臭いものには蓋をして都合よく世の中を渡って行こう、また物を独占したいというのが自由主義の持ち前である。自由主義が日本に来たのは主として明治維新後である。明治維新に於いて志士達が尊王攘夷王政復古でもって幕府を倒したけれども、真の王政復古にはならなかった。そこで何のために御一新かと言うので奮起したのが、神風連の乱であり、佐賀の乱であり、鹿児島の乱であるのである。そうして十年の役に於いて日本精神の権化である大西郷が倒れて以後というものは所謂自由主義が日本に於いて跳梁をし始めた。流石に偉い岩倉公あたりでも外国の文化に迷わされて、そうして外国の自由主義の文化を基調とする総ての機構を日本に取り入れて所謂議会中心主義になる因を作った。ただし明治時代には機構は外国の自由主義文化を基調とするものを輸入せられたけれども、それを運用するものはまだ日本精神を持った者が多かったために、その弊害が比較的少なかったのである。しかしながら欧州大戦というものは段々進展して来て、デモクラシイとなり、また真っ赤なマルキシズムとなって、非常に盛んに社会主義を輸入した。そうして当時は軍人中にも自由主義でなければ戦は勝たぬように思った者が出て来た程である。つまり世界大戦に於いては自由主義たる連合国側が勝った、それでドイツは自由主義国でなかったから負けたように考えたのである。(今日はドイツが威張って来たからその真因は極めずしてファッショに心酔する様になって来た)かくの如く軍人の中にさえ赤くなった者があって、国体明徴どころではなく、また真面目な軍人中にも何故に忠義を尽くさなければならぬか等という疑問を発して現に私に聞いて来た人さえあったのである。最も真面目であった軍人までがそういう風な思想に迷うような状態になって来たのである。迷う人は未だよろしいが、中には迷わずにこれが本当に正しいと信じきっておった者さえある。そういう随分危険な時代があったのである。
 またカントの新学説というものが日本に輸入された。その時代には文化というものと、武というものとは両立しないかのように考えた軍人も沢山おったのである。そうして国体を忘れて所謂国体なき国に発達したところの思想に基づいて唱えられた、彼のウイルソンの正義人道主義にかぶれて、前述の如く日本の 陛下に忠義を尽くすことが正義人道に適っているかどうか、というような議論をする者さえ出て来た程である。国体を考えずによくこれを理解せずに人道観に捉われ正義感に堕するとかく脱線する。実に危険な時代があったのである。さような場合には力の限り一生懸命になって、建国の理想信念から説き起こし、この理想信念は前述のように宇宙の固成生成化育そのままの真理であるから、これを外にしては正義もなく人道もない事を良く述べたが、なかなか一度や二度では完全には分からない。今頃でもこれに似通った質問をする人がある。マルキシズムが何故いけないか、それははっきり一遍説明して下さいと言う者があるが、しかし近頃は私は直接問題を説明せずして血の中にある日本精神即ち人間の赤心を喚起せしむる様にしている。いやしくも人間が自分の親に孝行を何故せねばならぬかという疑問を持つ様になったり、また日本に生まれた者がなぜに君に忠義を尽くさなければならぬかという様な疑問を持ったりする様になった時は、その人のその時の心理は獣以下になっているのである。人間は修養の積んだ者は神様に近き心理状態になっているが、修養を全くしていない者は忠犬ハチ公以下の心理状態になっている。犬にも劣る心理状態であるのである。その獣より劣っている心理状態の時に、何を言っても聞かした所で、とても分かる道理がない。所謂猫に小判である、馬に念仏である。しかしながらまた時が経って人間の心に帰る時が来るのである。その人間の心に帰った時に話せば分かるのである。それが獣と人間との異なるところ、また外国人と日本人との異なるところである。外国人には真の忠義は解しかねるが、日本人は時が経てば自然に分かって来て本心に帰るのである。以上の様な思想状態に反発的に起こって来たのが今日の右翼である。大体日本の自由主義はこの様にして発達して来たのである。
 さりながら自由主義の自由と人間の高級の自由というものとは区別して考えなければならぬ。高級の自由は人間には絶対に必要である。自由主義の自由というものは社会の束縛から逃れたい、自由放縦なる自由というものが多い。すべての権力の束縛から脱せんとする、故に無政府主義もそれから出て来るのである。自分さえ良ければ人の邪魔にいくらなっても構わない様になる。極端に自由なる社会の様式は猛獣の社会となる訳である。自由主義の中で一番害を流しているのは資本主義である。即ち金を儲ける事の自由、どんな事をしても金を儲ける、またこれを貯える事の自由、しかして最後には金を利用する事の自由である。どんな事でも金で解決しようとする、この点で政治を腐敗せしめ、世道人心を害した点は実に大なるものであります。しかして前に申した様に人間には高級の自由即ち真の自由、孔子の所謂「意の通りに行って規を喩(こ)えず」(註 心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず)という自由ならばなくてはならないのである。もしこの高級の自由もいけないと言う事になると人間は機械となり羊の群れとなる訳である。だから実際の問題になると自由は統制との限界を何処に求めるかという事が問題であって、これを適切に実行して行くのが政治の要諦であると考える。軍隊の名指揮官といわるる者は、各級指揮官は素より一兵卒に至るまで、その者の全能力を発揮せしむる様に、自由に手腕を発揮しうる様に、各自の思う存分に天賦の能力を発揮する様にしてやって、しかしてそれが指揮官の意図に合する様に指揮統率をする、これがため、平素よりこの目的に合致する様に教育して置いて、いざと言う時には一令をもって全部が共同の目的に合する様に動かすのである。これが一番名指揮官である。軍司令官が一々一兵卒に至るまで、地物の利用までも教えておっては戦は負け戦であり、そんな指揮官は軍人として三文の価値もない事になる訳である。
 これと同様に政治家というものは、やはり人民をして天賦の能力を思う存分に発揮させて、その働きが国家発展の目的に合する如く、日本に於いては皇運扶翼の目的にそうように指導して行くのが名政治家である。各自の天賦の能力を殺しては決して総体としてその能率は上がらぬ、個性を余計に束縛するほど下手な政治家である。そのためには一国の政府も軍部と同様に常に平素より緩急ある事を予想して常住座臥公に奉じ得る様に計画し指導して置くべきである。もちろん国家全体は軍部と同様に全部を考える訳には行かないけれども、平素よりその考えをもって計画し指導をしていれば、計画と統制を間違えてはならぬ。愈々戦時になったからと言って、急に慌てて統制統制といわなくてもよい訳である。それにはまず平素より思想の統制が何よりも必要で、これができておれば前にも述べた様に余りの事はこれが派生事実に過ぎぬから、自然にその思想の目指すところに結果は統一されて来る訳で、法で統制せず精神的に統制せらるる訳である。軍事はご承知の通り平素からこれを考えてあるから戦時になってやたらに統制統制といわなければならぬ事はないのである。しかして実際問題としては極端なる統制も国を亡ぼし、また極端な自由も滅ぼすのである。そして程のよい指導精神が日本精神である。立法をするにもまた法を運用して行くにも、日本精神をもって立案運用して行くのと、権力至上主義や法律中心主義の精神をもって実施して行くのとは、その結果に於いては大変な差である。最後に注意すべきは自由主義も権力至上主義も共に物の独占に陥る点である。


 今現在も自由放任主義に近い自由主義、強欲資本主義とそのアンチテーゼの「サヨク」思想が日本人の精神を荒廃させています。これらの思想は人を幸せにしません。何とかこの思想の乱れを正して、日本人が「幸せ」を実感出来る社会にしたいです。

2014年9月18日木曜日

非常時局読本(第十四回)「大義名分と正義人道」

「力を持つ者が正義」とは限らないのが日本の場合です。権力を握った者も大義名分があったかは死後もずっと判断され続けるのが日本だそうです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

79ページより

十四、大義名分と正義人道
 
 大義名分に規尺に適わぬものは如何に理屈をつけても日本に於いては通用せぬ。それで外国に於いてはこれがないから種々の勝手な思想が出るが、日本に於いては日本精神だけが許されるのであって、実は外国のように思想に穏健も中正もなく、ただ正と悪との結論あるのみである。外国では単に正義人道を規尺として物を判別する。ところがこれも詮じ詰めれば何が絶対に正義か、人道に叶っているかわからない。ただ時の勢力家の思想によって定まるのである。それだから外国に於いては雨後の筍の如くに各種の思想が現れ、うまく考えた奴は天下を取る。また力の強い奴は天下を取る。そういう格好になって行くからしてそこに何時でも易姓革命が起こって来るということになるのである。ドイツのベルンハルデイ氏のような人は、大戦前に「力即ち正義なり」と言っている。力を好む武人から見るとこれも道理かと思うのである。少なくとも力の伴わざる正義は正義にあらず位に考えるのである。私どももやはりその当時はそうな風に思った時代があったが、その後種々と思想で辛苦して、考えている間に気が付いたのである。そういう風に「力は正義なり」となって来ると、力の次に来るものは権力である。だから権力を一番重んずるようになる。そこで権力至上主義というものが生まれる。これが今日のファッシズムの根源である。即ち権力至上主義になればそこに武断政治も起こって来る。武は力である。権力である。そこに官僚独裁も起こって来る。権力を持っておるものは一番偉いと思う。所謂英雄豪傑主義が起こって来る、英雄豪傑を崇拝する観念が非常に強くなって来る。従ってまたいわゆる天上天下唯我独尊の思想が起こり、遂には「勝てば官軍主義」にもなる。何でも構わぬ勝ってしまえば良いのだという事になって来て、世の中は混沌たるものになってしまうのである。しかして権力その物が唯心でなく唯物であって結局は経済至上になり物を独占したくなる。外国のような国家では勝ちさえすればよいのであるから、何とか理屈をこねて色々の思想を編み出したり、或は色々の結盟をやって力を作って天下を転覆してしまって、英雄豪傑になる事が許されるのであるが、日本ではそれは大義が許さぬ、国体が許さぬ、一時勝っても後世は足利尊氏になって子々孫々まで排斥される。日本と外国とはこれだけ違うのである。さような主義思想というものは決して長くは続かないのである。覇道で取ったものは覇道で奪われ、暴で取ったものは暴で取られる。それは日本のように永久に天地と共に栄える国とはまるっきり違うのである。まだ詳しくいいたい事はたくさんあるのであるが、あまり具体的に言うと親善国を悪口するような結果になって、事志と違い君国のためにならないから、これ以上は差し控えるけれども、日本の国体と相容れぬ思想である事はよく承知せねばならない。

 この大義名分の考えで言うと、足利尊氏だけでなく、平清盛、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のような武家政治の権力者でさえ、大義名分を疑われてしまいます。
 「日本精神」「大義名分」については、もっと研究していかなければなりません。
 皆さんはどう考えますか。

非常時局読本(第十三回)「大義名分を正せる水戸義公」

今回は水戸黄門で有名な水戸光圀公についての話です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

77ページより

一三、大義名分を正せる水戸義公

 次に水戸義公に付いてもそう思うのである。彼の「大日本史」を書かれて大義名分をはっきりさせたということは、これは歴史を通じて実に偉大なる功績であると思う。即ち南朝を正統とし、北朝を閏位として、足利は逆賊であり、楠公は大忠臣であるということを明らかにされた。しかも自分は徳川の御三家の一でありながら、徳川は宗家であるけれども君臣の関係ではない。皇室は天子であって、皇室と我々とは君臣の関係だということをはっきりと言っておられる。これは今からいうと何でもないようであるが、当時は非常な困難な事情にあったろうと思うのである。幕府の親戚でありながらそういうことを言われたのであるから大いに困った。幕府よりの迫害を相当受けられたであろうと思うのである。ただし普通の人なればもちろん死刑になったことと思う。だから日本臣民として水戸義公の功績は大義名分上非常に偉大なるものと思うのである。その点を大いに伝えなければならぬのに、近頃活動写真でも、浪花節でも、芝居でも、方々で水戸黄門記をやっておるところを見るが大抵は義公が下情に通ぜられることに努力せられ、また智者であったこと、政治に力を入れられた点等は良く滑稽化して礼賛してあるが、この重要な点はあまり説いていない。これによって見てもいかに人を指導する地位にある人が、或は一般の知識階級の者も、大義名分ということに重きを置いていないか、興味がないか、関心がないかという事をはっきり現しているように思われるのである。これもやはり非常時の大原因である。何時でも大義を忘れるとそうなって来るのは当たり前であるから、どこまでも日本人というものは大義名分を根本にして考えなければならない。日本ではどんな理屈もこの前には服従する。それだから天地と共に悠久に栄えるのである。

 子どもの頃から水戸黄門は良く見ていましたが、水戸光圀公の本当の偉大さを全く知りませんでした。水戸光圀公は日本の「大義名分」というものを日本の歴史から、特に楠木正成の生き方から発見し、後の水戸学を通じて幕末の全国の志士達に多大な影響を与えました。遅まきながら私も「大義名分」を大切にした生き方をしていきたいと思います。
 いつか水戸光圀公が編纂を命じた、漢文で物凄い分量の「大日本史」を読んでみたいです。

2014年9月4日木曜日

非常時局読本(第十二回)「大義に殉ぜる大楠公」

今回は楠木正成についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

70ページより

一二、大義に殉ぜる大楠公

 日本人は大義名分を本として思想をよく理解し、ものを判断し、説明してやらぬと飛んでもない間違った所に行くのである。もしあの場合に南洲翁が勝っておられたならば今日で言えば所謂西郷内閣が出来たであろうけれども、やはり後には足利尊氏同様に乱臣賊子の中に数えられ日本人全部から爪弾きをされて、誰でも尊敬等はせぬどころか悪罵の的になっておったろうと考えられる。そこまで、はっきりと南洲翁を見てくれる人は少ないようである。それが日本人の生命であるところの所謂大義を現代人が軽く見ている証拠である。また大楠公の場合もそうである。大義を抜いて大楠公を考えるならば、大楠公の死も、権助が首をくくって死んだ死も、死としては差別はない。大義名分から見てこそ楠公の死は万世に尊いのである。また今日支那事変に於いてたくさんの尊い戦死者があるが、これも大義名分のためであるから尊いのであって、これを抜きにして考えるならば何の意味もないことになる、大義のために戦う聖戦のための戦死であるからこそ万世の尊い戦死であるのである。結局日本に於いては大義名分に総てのものの判断の基調があるのである。
 またこれは自分が外国に勤務しておった時の話であるが、外国にいると日本精神を忘れやすいから、外国文字ばかり読まずに日本の本を読もうと思って折々に日本書を愛読していた。取り分け詩の本を愛読しておったのであるが、その中に頼山陽の「下(二)筑後河(一)過(二)菊池正観公戦處(一)感而有(レ)作」と題する詩の中に「丈夫要貴(レ)知(二)順逆(一)小貮大友何狗鼠」という文句がある。私はこれを中学時代から非常に喜んで読んでいたが、特に海外に於いて各種の困難な事に遭遇し辛苦をしておった折り読むとその感が大変な違いである。たまたま一夜遅く風呂に入ってこの詩を歌っておったが、突然「楠公の偉いところはここだな」ということに気付いたのである。それはどういう訳かというと、つまり歴史の上では順逆の道というものははっきりする。歴史がこれをはっきり教えてくれるからである。けれどもこれが今日の出来事となると、どれが順であるか、どれが逆であるか、誰が大義に適っているか、適っていないかということを一々判別するには余程大義に徹底し、国体に徹底した人でないと分からない、これが非常に大切なことである。楠公といえども当時はあの空気では大逆賊と言われておられたに相違ないと考えた。事実は足利二百五十何年の間は「楠家は非常に人を殺す系統であって吸血兒の血統を引いた家だ、こういう血統は絶やさなければいかぬ」というので非常に残酷に取り扱われていたのである。
 当時大楠公に従った者は三千騎くらいであった。今日で言えば大楠公は連隊長位の地位しかない。これに反して足利尊氏はご承知の通り貴族の出で、今日の大臣級の地位である。そして当時の日本の空気所謂与論思想というものは六十余州挙って(こぞって)尊氏に就く程唯物的になっておったから左様に考えたのであったが、後日日本に帰ってから建武中興の歴史に詳しい平泉博士にこのことを聞いてみると、あなたの説の通りである、足利時代二百何十年間は大楠公は大逆賊になっておられたと言われた。天下晴れて楠公が大忠臣と謳われる様になったのは実に水戸義公が「嗚呼忠臣楠子」ということを称えられて大義名分をはっきり天下に示されて初めて楠公は大忠臣であるということになったが、それまで実に三百年という長い間大楠公は大逆賊として扱われておったような次第である。だから大義に余程徹底していないと、今日自分のやっていることが順であるか、逆であるか、これを知ることは非常に難しいのである。「丈夫要貴(レ)知(二)順逆(一)」なるほどあの暗澹たる世の中に、日本六十余州挙って尊氏を助ける時代に、楠公だけが大義名分を弁えられて「一族郎党末代までも大義のために殉ぜよ、七度生まれ代わって大義の賊を討伐しよう」というような所に大楠公の正しい、絶対無限に尊い所がある。楠公の死はそのためのの死であるから絶対に尊いのである。ただ戦死者というばかりなら今日までたくさんの戦死者があるのである。しかして翻って今日はどうかと考えて見ると、今日は足利時代以上にこの大義名分というものが暗黒になっているのではなかろうかと思う。というのは、皆さんもこの数年来の日本の種々の出来事を御覧になると、新聞記事等で見ても大義名分はどこにあるかと思う様な事が沢山あるのである。ところが知識階級もそんな事があっても、その事に一向に気がつかぬほどに大義心が麻痺している。また気が付いてもそれを大事件と考えないのである。これは先より申した様に大義を軽く考えこれが乱れているからである。
 御一新後明治十五年に 明治天皇が軍隊に賜りたる御勅諭の中に「朕、幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ(御一新が出来た事)是文武の忠臣良弼ありて朕を補翼せる功績(いさを)なり歴世祖宗の専蒼生を憐れみ給いし御遺沢(ごゆいたく)なりといえとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁え大義の重きを知れるか故にこそあれ」・・・「兵馬の大権は朕か統ふる(すふる)所なれは其司司をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攪り(とり)肯て(あえて)臣下に委ねへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯(この)旨を伝え天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体(武家政治即ち中間権力政治)なからんことを望むなり」・・・と仰せられておられる。即ち明治維新が出来たのは大義名分を国民が知っておったからだと仰せられている。これを詳しく言えば 陛下の官吏 陛下の臣民ということを知っておったからであると仰せられておられるのである。
 もし人臣が「自分等は徳川幕府の臣民だ、徳川幕府の役人だ」こう考えておったならば、この御一新は出来ても大変な混乱に陥ったのである。特にこの点を軍人が誤るといけないから軍人に賜ったものである。次にまた再び中世以後七百年の間武家政治の様に幕府を作るようなことにならぬようにせねばいかぬぞ。そのために統帥権は独立して朕親から之を握るぞ、そうして司司を臣下に委す、こう仰せられて軍人の注意と人民の心掛けを教えられたのである。また斯くの如く陛下御自身が兵馬の権を御握りになるから皇軍というのであって、この点に関しては軍人の最も注意しなければならぬ点である。既に皇軍たる以上は皇道翼賛のための外には動くことはない筈である。故に皇軍の戦は常に聖戦であるべきであって、何も今度の事変に限ったことではないのである。

 楠木正成、水戸光圀、維新の志士と受け継がれて来た「大義名分」。それを天皇陛下の下で臣民が「大義名分」に沿って行動する。
 残念ながら、戦前も今もこれを理解出来る人と出来ない人がいる。親の愛情をたっぷり受けながら育った人はわかるけど、残念ながら親の愛情をあまり受けずに育った人は理解出来ない。

2014年8月22日金曜日

非常時局読本(第十一回)「大義名分に終始せる大西郷」

今回は西郷隆盛の大義名分についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

56ページより

十一、大義名分に終始せる大西郷

 誤れる英雄豪傑主義

 世間では南洲翁に関してもいろいろ解する者があるようであるから、これを正しく是正して置かぬと後日大なる影響があると考えるので、この点を明らかにして置く。それは南洲翁に関することで、ある人は「我が国に於いて五一五事件や或は二二六事件をやるようなことを教えたのは大西郷だとこういうようなことを言った人があると聞いている。しかしながらそういう見方をする人は自分自身が所謂ファッシズム、英雄豪傑主義に堕し、唯我独尊主義、勝てば官軍主義に陥って自分自ら日本精神を失っていることに気が付かないからである。そう言う思想を持った人から見ると南洲翁がああいうことをやって、英雄豪傑になられたから日本人が尊敬する位に思っている。思想の持ち方が違うと同じものを見てもかくの如く大なる間違いをしてしまうのである。
 ドイツやイタリアに於いてヒットラーやムッソリーニ等を指して英雄豪傑だと尊敬するのは、、それは結構なことであるが、日本に於いては無条件に全面的にヒットラーやムッソリーニを礼賛してその通りの行動を日本人として賞揚すると言う事になれば、それは「足利尊氏出ろ出ろ」と言って奨励するのと同じことになるのである。かくの如く大義名分が分からぬと目前の事実に全く眩惑せらるるのである。日本人は歴史の事実となると大義が教えてくれるから物の善悪順逆が分かるけれども、現在今日のことになるとはっきりと大義名分が分かっておらぬと、そういう滑稽じみた区別さえ付かなくなるのである。だからヒットラーやムッソリーニを、それは外国人として区別して尊敬しかつ惚れて、その人格、識見、力量等の長所を日本精神と通して国体に悖らぬようにして、これを取り入れて行くことにしなくてはならぬ。人格と混同して国体も弁えず、思想にまで惚れ込んでしまうようになるとつまり「日本に五一五事件や二二六事件を起こしたのは大西郷が教えたのだ」というような判断をすることになって来るのである。それならば何故に大西郷という人は日本人からあんなに大楠公と共に尊敬されているかというと、これは日本精神から見るとはっきりしているのである。しかし先に言ったように日本人は口には言わぬけれども、日本人の血の中には日本精神が通っているから、無言の中に大部はやはり正しい解釈を致している者もあるのである。ただ外国の思想に非常に囚われて血走っている者が間違った判断をして、西郷は英雄豪傑だから偉いと思い込んでしまうのである。能く能く考えて見るとすぐ分かる様に、日本人として一番大切なことは大義名分を知るということであり、次には男子としては情誼に厚いということである。

 日本人と外国人との情誼の差違

 この情誼について、少し横道に入るがお話をすると外国人と日本人とはこの点に於いて大変に違っているのである。外国人には恩義という言葉もない。義理という言葉も持たない。故に外国人は日本ほど恩義も知らなければ、義理も知らない。その一例を言うと、私はロシアの革命中にロシアにおって、その時分あるロシア人からロシアの復活祭によばれたことがあった。そうしてよばれて行ったところが大佐の未亡人が女中に雇われて来ている。その時に、その未亡人が六つくらいの男の子を連れて来ていたが、その子が丁度当時じょ私の長男と同じくらいであって余計に可哀想になって、恰も熊谷蓮生坊のような考えを起こした。大佐の未亡人と言えば革命さえなければ立派に暮らせる人であるが、革命のためにこういうところに子どもを連れてまで女中奉公をして過ごしているか、可哀想な者だと思い、非常に同情して当夜持っておったところの金を全部くれてしまった。そうするとその母親は子どもを連れて来て「おじさんにありがとうとお言い」というような訳で、その晩は普通にお礼を言ったのである。ところが翌日市中を歩いていると図らずもその夫人が買い物の籠を持って帰って来るのに会った。私は日本人だから日本精神的に考えて「昨晩はありがとうございました」とまた言うだろうと思って、そう言うことを内心予期しながら挨拶しようと思って近づいて行った、すると向こうは黙ってすっと歩いて行ってしまう。こっちは恰も恥をかかされたような格好になってしまった。可笑しい事だなと思って見ていたが、その後ずっと長い間研究をしてみると、彼等ほ心理状態は昨晩はなるほどお世話になったが、それはありがとうと言ったからそれで総決算は済んだというのが彼等の考え様である。これは一つも間違いのない彼等の心理状態である。
 これが日本人ならば、自分がお世話になれば自分の子どもにまで良く言い聞かせて「自分はあの家にはこれこれこういう御恩になったからお前達もその恩を忘れてはならぬ」いわゆる主従は三世までというくらいに教えて恩義というものは尊重して暮らしている。日本人はそういう情誼の厚い国民である。また外国人には人情の発露たる心中というものは一つもない。もとより心中のいうことは良い事ではないけれども、向こうにはそういうものは一つもない。なぜかと言うと、つまり実利主義にものを考える。唯物的に考えるから「生きておってこそ愛があるのではないか、死んでから愛などあるものか」というような考え方が彼等の心理であるから心中等というものは一つもないのである。純情の極、誤りとは言いながら心中まで行くというようなことではない。ましていわんや殉死等ということは彼等は気違いだ狂気だと思っている。そういう風に精神状態が違う、人情が違う、それだから日本の国体というものは彼等には分からないはずである。また清々しいところの潔癖性等について見ても同様である。例えていうと日本人は晒し木綿で褌を一つ拵えても、一旦褌と名がつけば既に言葉に魂がある。日本人はこの言霊を重んずる。故に褌と言う名がつけばもう既にこれは普通の木綿ではない。それを頭に載っけたり、あるいは食物の上に載せたりすれば汚いじゃないかという気がするのである。そういう風に実に日本人は潔白の心がある。ところが西洋人になると「古褌でも洗濯すればばい菌はいらぬじゃないか、褌でも普通の布と違わないじゃないか」という、これが彼等の考え様であって、実利を取ろうとする、そういうようにして理屈ででっち上げた憲法で作ったのが向こうの国家である。これに対して日本の国家の建設は天の摂理に基づいているのである。そうして生成化育して君民一体「国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚」に重なり重なって出来て来たのが我が国である。大義の線に沿って情誼が重なり重なって出来て来たのが我が日本の国体である。しかるに外国流に法律と憲法で日本の国体を解釈しようとするから分かる訳がないのである。

 憲法問題の論争

 彼の憲法問題で天皇機関説が議会で喧しい時でも私どもはそう思っておった。日本はもちろん言挙げせぬ国であるから話は非常に下手で言い現すことはうまくない。しかるに反対に何事でも揚げ足を取る事が西洋の科学の特徴である。そこで日本人は言い現したり、文句に書き連ねたりすると多少の欠点がある、だから西洋の特徴を発揮してその言葉尻を掴まえて揚げ足を取ろうとすると取り様はいくらでもあろうが、そういうような気分になることはそもそも根本が間違っているのである。もし書き方を誤ったり、言い現し方が拙かったりしても、日本精神を基調として国体として国体の根源から解釈しようとするならば、ああいう天皇機関説のようなものは起こる訳がない。文句の末節を議論して何故に揚げ足を取るような精神になるのか、そういう思想になるという事が根本の誤りだと考えるのである。その点が充分議会に於いて論議が尽くされなかったことは当時私は残念に思っていた。外国の憲法政治とは斯くの如きものであると簡単に考えてしまって、日本の憲法の解釈は間違っているというような言い方をするのが天皇機関説の 天皇に対する考え方である。そういう考え方をしようとするのは、既に精神が日本精神と違っているからである。これを日本精神即ち神代からの伝統的な建国の理想を以て憲法を解釈するならば、理由が拙くても言い様が拙くても、決して脱線することはない。ことさらに脱線させようとしてもこれを外国流に解釈しようとするからそういう錯覚に陥る。ただ揚げ足を取るような議論をするよりも、何故に日本精神を以てこれを解釈しようとしないのか、そういう所に真の禍根があるのである。

 大義と情誼に殉したる大西郷

 そこで南洲翁の場合を再び申し上げると、南洲翁は当時維新後の状況を深く観察せられて、これでは折角御一新をやったけれども、将来本当に皇謨(こうぼ)の翼賛になって行くかどうかということについて非常に憂を持たれた、これでは真の王政復古もできないと思われた。即ち天皇機関説、議会中心主義になると思われて、そこで自分が論功行賞で貰った金で私学校を作られた、そうして文武各方面に人材を養って、その維新の皇謨を翼賛して行くために努力しようというので学校をお造りになったのである。あれは決して騒動を起こさせるために造られたのではない。しかしながら私学校の生徒にしてみると、あの偉い人を—偉い人とは正しい人ということである。その正しい人を時の政府が葬るものだから弟子達としては鬱憤遣る瀬ない点があった、それで度々翁に対して蹶起を促しているけれども、翁は「そんな大それた事はするものではない」と言って、これを抑圧しておられた。それで南洲翁が狩りに行っておられた留守に火薬庫より弾薬を盗んで蹶起してしまった。その時の南洲翁の言葉も「ああしまった」こういうように嘆いておられる。その一言を以てしても、これが南洲翁の意志でなかったことは明白である。しかしながら自分が育てた子どもがやったのに自分だけ逃げるというのは日本人の情誼に悖るから情に絆されて立つは立ったものの、大義は紊(みだ)せないから初めから負ける積りであるが、やらすだけはやらして負けさして、そうして最後の解決をすればよいという気でいられたらしいのである。勝つべき戦を勝つ方法を採らないで戦は桐野一味に委(まか)せて、最後に城山で弾丸を喰って、自分は別府晋作に首を落とさして最後を遂げられた。こういう戦をしておられる。これを以てしても分かるのであるが、ああいう際に情誼を完全に履行して行くことはなかなか困難である。また更に大抵の者は戦を始めた以上は勝ちたくなるのが人情である、勝ってしまへという気持ちになる、それを大義の前にはそういう順逆を誤ることをしてはならないと、言い換えれば「こういうことは日本の臣民として決してやってはいけない。やれば俺のように負けてかような最後を遂げるぞ」という事をお示しになっている。これが日本人として最も重要な事である。南洲翁はこの最も困難な場合にこの最も重要な点を実行されたというところに南洲翁の偉い所がある。また維新の元勲だから偉いというけれども、これも元勲とは何ぞやと申すと、御一新は要するに王政復古で元勲が大義名分のために戦っているから偉いのである。そういう訳で大義をはっきり認識されて、そしてこれを実行されまた日本人独自の美点たる情誼を完全に尽くされたという点を当時の日本人は知っておったに違いない。今日の日本人は多少ぼんやりしているかもしれないが、当時の人達はその点を見て大西郷大西郷と言って尊敬しているのである。それを英雄至上主義の思想に囚われると「南洲翁はああいうことをやって、英雄、豪傑になられたから偉いのだ」こういう訳で尊敬されていると思うようになるのである。かくの如く思想が違うと物の見方が凡て違ってしまうので危険である。


 大義と情誼を共に大切にするのが日本精神です。この思想は親や誰かに十分に愛されて育った人にしか理解できない思想です。だから、西洋思想にかぶれた人、つまりサヨク思想の人やヒトラーに憧れる右よりの人には何度説明しても理解できないと思います。
 皆さんはどう思いますか?

2014年8月21日木曜日

非常時局読本(第十回)「大義名分の絶対性」

引き続き「大義名分」についての話です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

54ページより

10、大義名分の絶対性

 しかして大義名分は国体の本源から発足した最も尊き、最も大事なものであって、日本のみに存するもので、それは決して良い加減なものに理屈をつけて日本人だけが良い子になろうとするものではないのである。その尊厳性絶対性を良く理解しまた理解せしむる事が混乱せる思想を統一する基であり、時局解決の鍵であるということを悟らなければならぬ。しかるにある人の話に相当の地位にある人が「君は日本精神だ、大義名分だと言うけれども、共産主義には共産主義の大義名分があり、自由主義には自由主義の大義名分があり、ファッショにはファッショの大義名分がある、それだから君は一人よがりを言っても駄目だ」と言われたそうであるが、これらは全く言語道断で何とも挨拶の致し方がないくらいで、実は先にも申したようにその点が日本に非常時が来た根本である。言うまでもなく大義名分は建国以来の日本の君臣の分を基調として、天地開闢(てんちかいびゃく)宇宙の生成化育の原理を理想とし、信念としたるところに発し、古今に通じて 謬(あやま)らず、中外に施して悖らぬものである。しかるに共産主義にその君臣の関係等あり様がないのに、共産主義には共産主義の大義名分がある等と言うのは驚き入った次第である。もちろん共産主義にもその主義主張はありましょう、假令誤っていても理想もありましょうが、大義名分は絶対にない。自由主義も同様である、大義名分は日本だけにあるのである。我が国に於いてはこれは善悪の絶対基準であるから、余計な理屈に囚われず万古に栄え行くのである。単に理屈のみで言うならば所謂泥棒にも五分の理屈と言うこともあって訳は分からなくなってしまう。

私の解釈ではこの「大義名分」の意味は、親子の愛情を基礎に(天皇と臣民の関係も親子の関係に近い)国の中で人がそれぞれの役割を行い(人間の体の中で細胞それぞれが自分の役割を果たしているように)、国民皆が安全かつそれなりの幸せな人生が送り(緊急事態は除き)、良い国を次の世代に引き継ぐという「目的意識」です。
皆さんはどう考えますか?

2014年6月29日日曜日

非常時局読本(第九回)「大義名分は日本人の生命である」

 今回は「大義名分」についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

47ページより

九、大義名分は日本人の生命である。

 日本国はその大義が通ってこそ日本国である。即ち大義名分ということが日本人の生命であり、日本国の生命である。これが乱れた時は必ず日本国は動揺する。これは恰も物理学に於ける振り子の運動のようなものである、振り子が垂直に垂れていれば左右の動揺は起こらないが、これがはずれれば直に左右に振れる。即ち大義名分が日本を貫いていれば日本に非常時は来ないのであるが、大義名分が暗くなれば即ち振り子が中心の垂直線から脱すれば直に左右に振れるように国家に必ず動揺が起こるのである。しかして、振り子が中心線で遂には留まるように、大義名分の力に依って最後には動揺が日本では止むのである、それで天地と共に悠久に続くのである。外国には国体がない、それで大義名分というものもないから、一度起こった動揺は何時迄も続き、右に振れ左に振れつつ歩くのである。即ち易姓革命という国家の大混乱は免れないのである。しかして中心線に動揺を制止する力がないのが外国である。歴史を見ると、日本にも多少世に汚隆があったけれども、やがてはその中心線たる大義名分に抑制せられて、即ち正気時に光を放って、真の日本の正体に復するに至るのである。
 それで往年正気が光を放って、国体明徴等が叫ばれたけれども、世を被って間違った思想に左右せられておった時代であるから、その方が却って悪いように解する者もあり、またその悪思想に感染していた者には何よりも恐ろしき消毒剤であるから、却って余計な事をいう者があるから世が騒がしくなる等と考えて、真剣な者を危険視するような暗黒時代となった。しかしさすがは日本人であるから血の中には日本国体を理解しているから、表面ではやむを得ずこれは大変だとは称えたが、さりながら内面的にはそんな事を言う人を悪人にしてしまったのである。その後歴代の内閣は政綱の第一に国体明徴を掲げるようにはなったが、今日に至るまでなお日本精神を説く者が注意人物であるような気分が漂っているところに思想混乱の根本があり思想不統制の原因があるのである。大抵の者が国体は明徴だ、そんな事は言わなくて分かっている等というが、灰色にしか分かっていないのだる。先般神兵隊の宇野裁判長がこんなに裁判が長引いては、上御一人に対し奉り申し訳ないと言ったと新聞に出たが、その時にある裁判官が私にそれを喜んで褒めて言ったから、私はそれを聞いて、そんなことは当たり前ではないかとこう思ったが、その人の言うのには中々さようでない。近頃は天皇の御名に於いて行う裁判を理解せず、また御名代の意味で裁判をやっているのに真にそんな気持ちで任に当たっている者はなかなか少ない、大抵はいわゆる権力至上主義、法律中心主義、つまり法律の番人の気持ちであり、いわゆる外国の国家の役人と同様の考えになって権力の行使者になっているとかように語った。本当に日本の国体が分かり、忠良なる陛下の官吏でありまた假令罪のある人でも 陛下の赤子たる事を考うる日本精神の所有者であるならば、親が子を裁判するような御上の気持ちが理解されて、その気になって裁判するようになるはずである。ただ法律の末節に引っ掛けて人民を敵視するような冷酷なる気にはなれないはずである。被告もまた親に接する気で裁判に応ずるのである、そこまで行って初めて義は君臣情は父子の国体が明徴になったと言えるのである。
 またある子どもはその父親が、ある事件に関係したからと言って、学校の校長さんがその子どもの入校を渋って許さなかったと言うことであるが、これらも本当に校長さんがいわゆる日本精神に目覚めていない証拠である。申すも畏れ多きことながら、日本の御皇室は斯くの如き浅薄なる御徳ではない。万物皆その御仁徳に浴する広大無辺の御聖徳にあらせられ、これまで天変地異に際してさえも、それは 朕が不徳の致すところであると仰せになっているのは真に感涙すべき事である。また昔、仁徳天皇様は民家の炊煙が立ち上るのを見られて「朕は富めり、民が富むのは朕の富だ」と仰せられた。また 明治天皇様は「天下一人でもそのところを得ざる者があるのはそれは朕の罪だ」と仰せられたように、真に親が子を見るように御覧になっているのが我が御皇室である。不具の子ほど親は可愛いと言う、ちょうどそれが我が大君の思し召しである。しかるに中間の者がその御徳を忖度し得ず、いわゆる外国の国家の権力の下にある役人の如くに思ってしまって、ただ自分の都合あるいは自分の権勢に捉われ、あるいは自分の出世のために具合が悪いと言ってそういう子どもを入れることを拒むということになるので、これはいうまでもなく親の心子知らずで、外国思想に捉われている結果の致すところである。日本の御皇室は 天照皇大神宮様そのままの御現れであり全然神の心を心とせられている御方である。それだから、天皇を現神と申し上ぐるのである。そこを分からないで灰色であるから、国体明徴だとい言いながら最も大事な大義を誤った足利尊氏を礼賛するような事になるのである。彼は政治的手腕があった、また人格もあったと言ってそれに惚れ込んで、取り返しのつかぬ脱線をする事になるのである。これは大義名分そのものが日本人の生命であり、日本国の生命であるという事を忘れている証拠である。
 私は日本人であるかないかと言う事は、その人が大義名分がよく分かっているか分かっていないかによってはっきり分かるものだと思うのである。
 頼山陽は「丈夫の要は順逆を知るを尊ぶ」とこういう風に詩に作っているが、私は日本人であるか、日本人でないかは、その人が大義名分を知るか否かによってはっきり分けられると思う。この大義名分と言う点がはっきりしていないために外国の思想にかぶれてしまうことになるのである。

つづく

私自身は「大義名分」をきちんと理解しているだろうか?

2014年6月15日日曜日

非常時局読本(第八回)「日本国体の本質と天皇機関説の誤謬」

今回は国体と天皇機関説についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

39ページより

八、日本国体の本質と天皇機関説の誤謬

 我が国に於ける各種不祥事の原因をなした彼の天皇機関説の起こりも、その元を正せばいわゆる国体と国家とを分けて考えるところから起こって来る。我が国は君民一体でなければならない、これは三大神勅にもはっきりしておって、第一 天皇陛下のご先祖は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)であってそれからイザナギ、イザナミの尊(みこと)が天沼矛(あめのぬぼこ)をもって修理固成して宇宙や地球をお造りになった。そしてその宇宙が生成化育して行く所の原理そのものをもって発展して行くのが日本の指導原理であり、理想であり信念である。だから第一神勅に於いては「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂の国は我が子孫の君たるべき地なり爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(し)らせよ、行け、宝祚(あまつひつぎ)の隆んなること天壌(あめつち)と窮りなかるべし」こういう風に仰せられている。それから第二神勅でいわゆる宝鏡(みかがみ)をお授けになって「この宝鏡を視ること当に我を視るが如くせよ」と仰せになって始終神の心を以て心とせよと仰せられた。それから尚「この稲穂を以て我が国民を育み育てて行け」こういう風に仰せられた。第三神勅で更に神籬(ひもろぎ)磐境(いわさか)君民一体の理を御示しなさっている。ところが第一神勅の方は小学校の教科書にもあるので大体日本人は皆承知しているが、この第二、第三の神勅の意義は明を知っている者が少ない、つまり第一神勅の元をなしているところの、本当の日本精神の基調に触れているところの第二、第三神勅がどういうものかそれを説明していない。だから国体は知っていると言いながら、神代の神話等を本当に理解しようとしない、またよく理解させようとしないために漸次に外国と同様の物の見方で我が国の歴史をも国体をも解決しようとする、そして君と民と国家を分けて考えるような不逞な思想に陥るのである。大体 神武天皇以前を神代とする事自体が国体の本義を明にする事こそ、日本精神を理解する基礎である。
 神代を明瞭にしないから日本建国の理想をこれは日本人のみに都合良く説明するのだくらいに考えて、天地の発育成長の自然の原理そのものを、即ち生成化育の原理をそのまま指導原理とし、信念として実行して来たのが日本の国体であるから、それ以上の正しい指導真理は何処から考えてもあり得ないという事を考えず、また従って信じもしないから君民分離して考える思想に堕するのである。
 即ち 陛下の御先祖がこの土地を固めて国をお造りになり、そうして山川草木に至るまでをお造りになり、そこで日本の君と国と臣民は離れられないので一体である、これが即ち日本の国体の本質であるのに、それを西洋の思想にやたらに囚われてしまって、国家と君とを分けて考えて、国家の上に帽子を被せたようなものが、 天皇陛下であるというような事で天皇機関説が起こって来るのである、分けられないものを分けるという観念になることが天皇機関説のそもそもの元である。これは更に後段で述べるが、今次の戦争の一番の大きな間接の原因にもなっているのであって、これはいわゆる自由主義がもたらした弊害の一番大きなものである。天皇と国民と国家とを分けて考えるのは丁度家庭というものを親を引き離して子どものみの家庭と考えるような観念を持つと同じであって、そこに根本の錯誤がある、家庭は親があって初めて出来る、親があって子どもが出来、その子どもがまた親になる、親が現在亡くなって親のない家庭はあっても、親がなくて出来た家庭というものはない、それが日本の家族精神である、日本の国体の本である、それを別々に離して考えるということが国体破壊の根元である。外国殊にロシアの例をいうと一番良く分かるが、ロシアは始め国土がある、そうしてロシア民族があってそれを治める者がないのでノルマン民族のルーリックという者を連れて来てロシアを治めて貰いたいと頼んだ、それだから統治者が会社の社長のような機関というようになる訳である。しかるに日本は御皇室の御先祖が国土を固め、臣民を造り、樹木が繁茂して宇宙の発展と一体となって栄えて来るのだから、日本は君臣と国土とが分けられないものになっている。それを分けて考えようとするところに誤りがある、だから皆さんには釈迦に説法のような点もあるが、機関説はそこのところを巧みに誤摩化しているからその点を充分注意する必要がある。外国流の国民あっての主権者なり、国家あっての統治者なりと別々に考えようとしている。そうして、この解釈の型に嵌めて日本の国体までも外国流に漸次になし崩して行こうとするところに根本の罪悪があるのである。しかしていわゆる天皇機関説というものは私どもの中尉位の時分に、確か明治四十三年頃と記憶するが、ぼつぼつ台頭して来た、当時私どもは憲法や法律の頭もなかったのであるが、天皇は我々の親であり現神であると思い、何時でも大君のためには一身を投げうとうという覚悟を持っているのに、天皇を機関だの会社の社長などというならば、また取り替えてもよい事になるのではないか、というように考えて、実にけしからぬと青年の純情から当時の帝大の学生などと議論を戦わしてそんな馬鹿なことがあってたまるかと大いにやったものであったが、しかし純真なる胸奥からほとばしり出る信念というものは中間の論議を抜きにして、これを今日考えてみてもやはりそれは正しいのである。その時分にこの説の間違っている事を明瞭にして、二葉の中に刈り取っていたならば、日本のために如何に幸福なしめか、おそらく今次の戦争もまた数次の不祥事も起こらなかったであろうと思考する。
 元来憲法は国家の大典であって、陛下の御地位にまで言及し 天皇の大権を執行なさる形式を定めているのだから、その解釈を忽せ(ゆるがせ)にするということは非常に重大な問題である。それを疎かにするような気分になったことはいわゆるご都合主義の自由主義に日本人が囚われておったからである。直接自分の利害にさえ関係なければ時勢に従うのが利巧だとする、花より団子主義の実利主義に捉われて大義の重きを忘れた結果である。かかる大事な事をその後三十年以上も放擲(ほうてき)して置いたところに大いなる誤りがある、それだから彼等も段々増長し国民も段々と騙されて、遂には天皇と議会とを対立さして来たり、また統帥権もいわゆる統治権の一部であり特別に考える必要なきが如くに説き、 天皇の御勅語をも批判してよいというような論議まで出て来るようになったのである。それが国民の思想を撹乱し、またそれを本当だと思う者が大分増えて来たために、軍隊の中にもこの思想が入って来て、それをいけないと思う者と、それを本当だと思う者と現れて来て、一層世の中が混んがらかって来たのである。それが遂に彼のワシントン会議ともなったのである。そして第一次ロンドン会議においてはいわゆる統帥権干犯等の大問題を惹起して、軍隊の中がいよいよごたつき出して各種の国内における不祥事の原因をなして、層一層世の中を混乱に陥れいわゆる超非常時の原因を造り、今度のような大戦争となり 神武天皇創業以来の大事となった次第である。かくの如く考えれば考えるほどこの天皇機関説というものが日本の不祥事の総ての原因となり、また今次大事変の根本の原因を成しているのである。しかるに斯くの如き重大事を歴代の政府もやはりご都合主義でこれを放擲して置いて、臭いものに蓋をしつつ便宜主義に堕し、事なかれ主義で世を渡り「そんな学説等は学者に委せて置け」とこういうような出鱈目を言っていたのであるから、大義は段々と乱れて来て遂に未曾有の非常時となった訳である。

続く

国体問題が大東亜戦争の根本の問題の始まりとは驚きですね。

2014年6月7日土曜日

非常時局読本(第七回)「日本国体と欧米国家との相違」

では、「日本国体」とは何でしょうか。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

28ページより

七、日本国体と欧米国家との相違

 日本人にして国体は分かっていると言いながら本当に分かっていない者がたくさんあるのである。その錯誤の根本は我が皇国ということと外国の国家との区別がはっきり頭に入っていないためである。日本人にして全く国体を忘れ国体を軽蔑している者は私は一人もいないと思う、けれども御皇室を考え、国体を考えるときの頭と、国家を考える時の頭とは、観念上別々のものになってこれを一体として不可分的に考えていないのである。即ち観念上国体を考える時と国家を考える時と、二つ頭を持っている、二頭の人間である。ここに各種の錯覚が起こるのであって自分は国体を知っているつもりであるけれども、本当の国体精神を、官吏としても軍人としても、臣民としても現していない者がある。つまり我が国においていう国家即ち皇国という言葉の意義と外国の国家という言葉の意義とを混同しているのである。そこに現在の日本のこんがらがっている根本の原因があるのである。またファッショに惚れ込んだ理由もここにある訳である。実は私どもも大正九年頃にはいわゆるファッショというものは愛国主義であって非常に良いものだ、そして国家社会主義というものは、日本を救う指導原理であるかの如く考えた時代もあった。それはなぜかというといわゆる国体そのものが日本国家である。君民一体で君と民と国とが離れ得ざる所のものが日本の皇国の真の姿であるということに関する適確なる認識がないために、単に愛国主義と言われる国体なき国に対する権力至上主義、政権至上主義の愛国主義と、我が国の忠君愛国主義即ち義は君臣、情は父子、君民一体不可分の日本精神とを一緒にしてしまっている、そのために愛国主義ならよいではないかと思ってしまっている点があるのである。元々ファッショは国家主義、愛国主義で来たものでいわゆるインターナショナル、即ち最も危険なる国際共産主義に対抗して起こって来たものだからそれは良いものだと考えた。そこにファッショに惚れ込んだ一つの原因があるのである。
 更にこれを歴史的にくわしく言って見ると、ロシアの革命の時分にはロシアはいわゆるインターナショナル、国際共産主義というものを指導原理として、そうして世界革命を企て、まずロシアを転覆したのである。初めは西ヨーロッパを一挙に転覆して共産革命をやってしまおうというので、武力と併行していわゆるインターナショナリズムを大いに宣伝したのである。しかるにそれが失敗した。そこでその次に狙いをつけたのが支那である。支那においては列国の利害関係が一番輻湊している、ここに火を付けて混んがらかせるとその飛び火が列国に行く、そうしてしかも仕事がやりやすく成功しやすいと考えた。つまり共産主義の宣伝等は無智蒙昧の人ほどかかりやすい、教育を受けた者はある程度までは騙されるけれども、ある程度以上は騙されない。それで支那を騙した方が一番騙しやすい、しかも列国の利害が輻輳しているからそこに火を付けると列国に飛び火して世界を混乱に陥れやすいというのでそこに狙いをつけて、レーニンの晩年から始めて、スターリンになって余計に支那に重きを置いて共産主義宣伝をやるようになった。しかもこれを手っ取り早く成功しない、そうする中にまず時分の足元を固めないと自分が危うくなった。そこでスターリンとトロッキーの争いが起こった。即ちスターリンが一国社会主義の建設は出来るというのに対して、いや世界を全部共産主義にしなければ社会主義国の建設というものは出来ないと言っているのがトロッキーの説で、これがいわゆるスターリンとトロッキーの争いである。その結果とロッキーはロシアを追っぱわれて、まず一国社会主義に立脚したスターリンがロシアの政権を握ってしまった。スターリンはあえて世界革命を止めた訳ではないが、まず自分の足下の一国を固めようというので一国社会主義というものを建設していわゆる国家管理極端な統制主義でやっているのが今日のスターリンの現状である。
 ところが千九百二十年頃は国際共産主義というものは欧州を風靡したのであって、なかんづくイタリアは大戦後共産インターナショナルに非常に虐められた。そして各工場はほとんど共産インターナショナルの占有するところとなった、そこでこれではいかぬというので起ち上がったのが今のムッソリーニである。ムッソリーニはご承知の通りこの国際共産主義を撲滅するには国家主義即ち愛国主義で戦わなければならぬと言って起ち上がった。それが我々日本人の目には今までロシアをあれだけ荒らしてしまい、世界を聞きに導いたようなそのロシアの共産インターナショナルをイタリアの国内においてはムッソリーニが見事に手際よく撃滅した、それがファッショである、愛国主義である、国家主義である、日本もああいう風にして共産主義を撲滅しなければならぬこういう風にファッショを心から良いものだと考えて、それが国体と矛盾するという点には気が付かないでただこの特徴が著しかったためにそれに引き摺られてしまった。つまり日本の国体というものはイタリアとは違っている点に気が付かない、向こうには政体はあるけれども国体はない。向こうには愛国はあるけれども忠君愛国ではない。そこに気が付かないで単に愛国ということならそれでよろしい、こういうような考えになってしまった。殊に愛国心に富む軍人がそれに引き付けられた。ムッソリーニが余り手際良くやるものだから、彼の人格識見と思想の区別はつけないで、国体のある国と、国体のない国の差も分からないで、無条件に唯それに惚れ込んでしまった、即ちファッショというものを恰も日本精神であるかの如く誤認してしまった、そもそもの原因はそこにあるのである。
 私共も前述の如く初めはそう思った。向こうの愛国ということが忠君愛国と違うという点に気付かなかった、しかして日本はどこまでも忠君愛国、君民一体の国柄である。しかるに向こうの方は君の方は第二でよい、いわゆる政府至上主義であり、権力至上主義である、そう言う愛国である。そこに我が国とは大なる差がある。建国の歴史に非常な差があることに気が付かない、ただ当面の一時的争闘を鎮めるために起ち上がった愛国心と、日本の如くこれを古今に通じて誤らず、これを中外に施して悖らぬ、そういう深淵なる建国の原理とを混同してしまった。その根本ははっきりと国体を認識しないからである。向こうは国体なき国柄である、ただ政体だけあって国体のない国である。だから強い者が出ればまた前のを転覆して取ってしまう、理屈をうまくつけたものが新しき思想をつくる。しかるに我が国は千古を貫いてしっかりした大義名分を持って、それに依って物の善悪を区別し万古を貫いて興隆するくにである、ということに気付かない。ムッソリーニが余り手際良く恐ろしき国際共産主義をやっつけたものだからそれに眩惑された点もある。もう一つは日本人の国体に関する認識が確固としていなかった、そこでファッショを見誤ってそれを日本精神だと誤信するようになった。一体人間はよほど注意をせぬと多少の悪口はいわれても、尊氏となって天下を取るのが隙で、大楠公となって湊川で散るのは嫌いである。よほど国体の認識が確かでないと我が国の歴史を見る如く間違いやすいのである。そこで明治天皇が軍隊に賜りたる御勅語に特に「再び中世以降の如き失体なきを望む」と仰せられて武家の勢力政治今日のファッショ政治を戒めていらるるのである。
 そうしていよいよイタリアやドイツがそういう風にして国際主義を討伐した結果を見ると、前述の如くスターリンの一国社会主義と内容においては大差がない、これもまた一国社会主義である。その実行には多少差はある、権力、思想、産業共に政府者の統制に帰するいわゆる国家管理の根本の思想独占の思想においては差違を認めないのである。この点をよく認識して親善関係は親善関係として相互に援助して行くべきであるのに、よいと見ればまた仲良くしようとすれば魂までも投げ出して奪われてしまうところに日本人の間違いがあるのである。
 しかして外部に対する働きには相違がある。ロシアのスターリンのやり方はまだまだ世界革命を捨ててはいない。つまり思想的に共産インターナショナルを一線に立てて、武力の背景の下にいわゆる世界革命をやって行こう、侵略をやって行こうというのである。ところがファッショ国のやり方は武力を一線に立てて、そして国家の発展を企画して行こうというのであって世界革命など考えていない、それで前者は外国から見て思想的に警戒され、、後者は怖がられないのである。そこに防共協定ということも意義があるのである。片方は思想戦をもっていわゆる世界革命をやって行こう、片方は武力でもって建て直しをやって行こう、そう言う所に差があるのである。しかしそれを自由主義国から見ると既に思想的には練れているから、思想的侵略の方法よりも武力で来る侵略の方が彼等には怖い、そこで今度は自由主義国はロシアと一緒になったのがヨーロッパの現状であるが、しかし血は水よりも濃しということわざもあるから我が国は特に注意を要する点もある。彼等は思想においては日本より練れているからいわゆる共産主義の手練手管には罹らない、その点は割に怖くない。ところが力で来られるやつ、腕っ節で来られる奴は怖い、それだからいやでもロシアと一緒になって、その腕っ節を食い止めようというのが人民戦線である。

つづく。

国際共産主義と国家愛国主義の違いはわかりましたか?
 

2014年6月3日火曜日

非常時局読本(第六回)「思想と人格との混同」

思想病の問題は現在も「保守主義者」と「サヨク」の間でも厳然として残っています。
それぞれの主張を見ると本当に善と悪が逆さまになっています。
同じ世界に住みながら、全く違う世界に生きています。
本当に恐ろしいのが「思想病」です。
続きを御読み下さい。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

25ページより

六、思想と人格との混同

 日本人はとかく思想と人格とを混同して考えている。政治家やあるいは外交官等までがイタリアやドイツに行って、日本人たることを忘れて無条件にヒットラーやムッソリーニの人格、識見、技倆に惚れ込んでしまって、その識見や技倆の生みの親たる思想にまで惚れ込んでしまって来る者がある。単に人格のみを言えば私はロシアにいる時分に特に関心を持って調べたのであるが、彼の共産主義の元祖であるレーニンの如きは、今日の日本の何れの政治家よりも人格としては綺麗な人だと信じている。しかしながら彼は共産主義を以てロシア人を救い人類を救い得るという思想を持っていた所に、日本の国体、つまり日本精神とは根本的に相容れざるところがあるから排撃するのである。しかも日本精神というものは何も日本人だけに都合の良い事を言っているものではない、つまり宇宙の創造、造化の真理、生成化育の原理をそのままに原理とし理想とした所の我が国体そのものから発足した精神であって、共産主義以下非道理な思想とは徹底的に相容れないのである。かるが故にレーニンを排斥するのであって彼が人格劣等なるが故に排斥する訳ではない。彼はあれだけの仕事をやり遂げただけに、人格に於いてもいわゆる識見技倆に於いても恐らくヒットラー、ムッソリーニを抜くくらいの人物であったのである。またヒットラーやムッソリーニにしても非常な人格を持ちまた識見、力量がなければあれだけの大成功は出来ないことはいうまでもない、ぼんくらではとてもあれだけのことは出来ない。それは分かり切った話であるが、外国の国柄の異なる即ち国体なき国の思想をそのまま鵜呑みにする訳にはいかない。レーニンの場合には共産主義は真似てはいけないということは日本人は全部知っているから誰も彼に傾倒はしないが、しかしいろいろの都合でヒットラーやムッソリーニの場合には人格に惚れてこの思想までも鵜呑みにしてこれに全部真似ようとする傾きがある。その点が思想の本質は別として実際上では今日の日本人には共産主義以上にファシズムの方が危険性があるのである。人格が立派で識見、力量が大で思想のない者はこれが一番危険である、つまり自動車の機械が立派で舵がない訳であるから何時危険に瀕するか分からない。かくの如く思想で分からないと自分では一生懸命国家のためと思ってやっていることが結局は国を混乱に導く事になるのである、即ち誠心誠意国を危うくするのである。

続く

皆さんいかがですか。
思想が如何に大切かわかって頂けたでしょうか。

2014年6月1日日曜日

非常時局読本(第五回)「色盲と同じ思想病患者」

おそるべき思想病。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

20ページより

五、色盲と同じ思想病患者

 思想の病に侵されるとちょうど色盲になったのと同様で、自分では一向病気である事を認識せず、紫を見て赤と信じ、黒い物を紫と信じ切るように、それと同様に誤った考えを持ち、しかも自分が正しいと信ずるところに思想病の非常な危険性があるのである。一堂に集まって同じ話を聴いていても、その理解と解釈は異なるのである。思想の違う者は実は観念上全く別々の世界に住んでいるのである。ある者は月の世界に住んでいるような観念を持ち、またある者は地球に住んでいるという観念を持っている、そしてその自分の観念を土台として全てを考え、全てを判断し、また物の正邪曲直をも判断して行くのであるから、つまり観念上全然別々の世界に住んでいる訳である。故にどうしても事物に対する考えの合い様がない。そこで意見が衝突するのが当然である。しかも自分の考えばかりが正しくて他人のが間違いに見える。つまり自分が色盲であることに気が付かないで、赤だ紫だと喧嘩をしているのと全く同様であって、しかも正しい眼の人が少なくて色盲の方が多いと正しい者の方が悪人だとしてしまわれるのである。今日の日本は思想的に色盲の者が非常に多いのであるから、自然善悪が反対に見られている事が頗る多い。先ずこれらの者を思想病院に入院せしめて自分が色盲である事を自覚させる事が絶対に必要である。
 現在日本人の中にはいわゆる黒い眼鏡を掛けてファッシズムを正しい思想と信じ切って、不知不識の中にドイツ人やイタリア人になり切って精神的の戸籍はかの国に転籍している者がある。また赤い眼鏡を掛けてこれが正しい人の道だと信じ切って、あたかもロシア人の気持ちで日本に住んでいる者もある。あるいは緑の眼鏡を掛けて、これが一番正義だと考えて、イギリスやアメリカやフランスに住んでいるのと同様の気持ちを持って、日本に住んでいる者をある。また一方には正しい白い眼鏡を掛けて日本精神の下に正しい観念と信念とを持っている者もある。そうしてこの人々が卍巴になって思想的に戦っているのである。しかも各々は自分が色眼鏡を掛けて世の中を見ていることに気が付かないから喧嘩になり、非常時になるのである。各々が自分は色眼鏡を掛けている、自分は色盲であるということに気が付いて、即ち日本国体の本質の閃きを感ずると反省というものがそこに生じて来て、それで互いに一致点を持ち得るようになるのである。先ず思想の正しい方に引き戻さなければ即ち統制しなければ色々のことを話して見た所で二つの平行線と同じことで何時まで話をしたって意見の合うことはない。平行線が何処まで行っても合致点がないと同じように、思想の違った人間は何処まで話して見た所で、考えの根本が違っているのであるから合致するということはないのである。
 大震災の時分に大杉栄の妻君だったか、あれが憲兵隊に喚ばれて調べられた時に「あなた方と私共は思想が違うから考え様が百八十度違っております。あなた方が正しいとお思いになることは私共から見れば正しくない。あなた方が悪いと思っておられることは私共から見れば正しいのです。そういう訳でありますから、何ぼ話してもお分かりになりますまい」ということを言ったそうであるが、そういう風に思想の根底が違っていると、考えというものは一つも合わない。人の考えの根底を支配しているものが思想であるから、その思想に、即ち根底に間違いがあると何を言っても間違って来るのである。それであるから日本精神がなければ今日の全ての出来事に就いて日本人としての正しき判断、正しき認識理解をなし得ないので、あるいはロシア人式にあるいはイタリア人式にあるいはイギリス人式に物を判断し理解し、それを正なりと信ずる様になり、国内の出来事に対して正邪曲直の違った判断をするので世の中は混乱に陥いるのである。それで一番最初にまた絶対に統制しなければならぬものは産業より何より先ず思想なのである。さすれば他の事は全部派生の事項であって、漸次に統一されて来るのである。全く思想病者は自分で思想病に罹っている事に気がつかずして、無病の者を悪思想と思っているのであるから一番危険で困るのである。

続く

恐るべき思想病は現在も罹患している人が大勢いる。

2014年5月18日日曜日

非常時局読本(第四回)「思想病を認識せざる日本人」

日本精神とは何でしょう。今の日本人にあるのでしょうか。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

17ページより

四、思想病を認識せざる日本人

 斯くの如くに思想というものが政治的にも軍事的にも、また日常生活の上にも重大なる意義を持っておるに拘らず、なぜこの研究を疎かにして置いたかというと、その原因は二つある。一つは今まで思想の研究をした人は殆ど左傾者が多かった、殊に世界大戦後は自由主義は更に激化してデモクラシーが盛んになり、更に学生達の大部分は赤化思想にまで捉われるというような時代になり、思想を研究する者は大抵左の者であったのである。そこでこの自由主義者、現状維持派は思想を研究する者を目して十把一束に危険人物のように解釈した傾向もあったのであるが、これもまた一面無理からぬ道理もある。しかしてこれでは日本は到底駄目だと、それに対して反動的に出て来て愛国的に働いた者、いわゆる右翼として進出した者も、やはり十把一足に取り扱われている。もっともその中にも過った者もあったけれども、真の愛国者までもその悪者の中に数えられる様に混乱状態に陥ったのである。そういう訳で思想研究者というものは寧ろ悪いことでもする様に思われる傾向が大であったのである。これが一面日本人が思想的に非常に遅れている理由であるけれども、根本はあまりに我が国の国体が有難すぎて、思想についてはこれまでも一つも悩んでいない、鍛えられていない所にあるのである。
 我が国はいわゆる万世一系の御皇室を戴き、その国体の本義を基調とする大義名分というものを建国以来突き通しているので真の国難に遭遇していない。歴史を見ればいわゆる世に汚隆なからんやで、時に多少の動揺はあったが、それは橙に例えればその面の皺のようなものであって、橙は依然として円形を保っている如くに、多少の曲折はあったが、大動脈というものは一貫して来ているのである。本当に国礎を危うくするようなことは起こっていないのである。そのために外国人ほど思想的に鍛えられていない、あたかも富豪の坊ちゃんが浮き世の辛酸を知らず、浮き世の荒浪を知らないで育ったのと同じように、本当に物の有難さも知らなければ金の有難さも分からない、そうして遊女の手練手管に掛かって翻弄されて遂には身を滅ぼし、家産を蕩尽するというような状態に思想的にはあるのである。余りに国体が有難すぎて、それで思想的に辛苦していないで油断をしている、全く隙だらけである。そこに外国の思想的あばずれ者が巧みに侵入して来て、思想的に富豪貴族の坊ちゃんたる日本人を手玉に取って弄び物にしてしまったのである。それでもなおそれに気が付かなかったために遂に思想的に破産状態に陥ったのである。

これからどんどんおもしろくなります。
つづく。

非常時局読本(第三回)「欧米模倣と日本精神の喪失」

 第三回です。人の思考の根底に「思想」がありますが、普段私たちはそれを全く意識せずに生きています。「皇道派」(二二六青年将校を除く)の人達はこの「思想」が大切であり、西洋の国家社会主義、ルソーやマルクスの思想、過度な自由主義思想に対しても、危機感を持っていました。これらは現代にも繋がる問題です。一緒に考えてみましょう。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

11ページより

三、欧米模倣と日本精神の喪失

 誰も自分は日本精神を失っていると自分で考えている者は一人もないであろうと思うが、しかしながら良く詮索してみると、本当に日本精神に目覚めている人は実は甚だ少ないのである。それは従来の教育の仕方も大いに悪い、国体の本義を明らかにする事に力が足らず、また交通の発達や通信の便宜のために外国の影響を受けた所も大いにあって、建国の本義に即する即ち宇宙の生成化育の原理に則る日本精神を真に理解し体得しているものは少ないのである。
 かくの如く日本人は日本精神を忘れて外国かぶれしているのに、実に面白い皮肉な事には、日本人の大部が御師匠さんの様に尊敬するドイツのヒットラーはあのように自分が成功してみると、いつまでも今日の隆盛を続けて行きたいというのが人情であるから、どうすれば今の隆盛を続けて行かれるか、これがためにその根本の指導原理を知りたくなって、彼の股肱の臣を日本に派遣して日本精神を研究さしたという事である。これは誰が考えても世界を見渡したところ日本以上に永遠に栄えて行く歴史を持つ国、即ち指導原理を持っている国はないのであるから、先ず日本を手本にしようと考えて日本に使者を派遣したのは当然である。ところがその報告の中に「現代の日本人には日本精神無し、ただ歴史の中には日本精神がある。即ち日本人の血の中にはまだ日本精神がある」ということを言っているそうである。かくの如くドイツのヒットラーは日本精神を研究して、日本の指導原理を真似したいと思っているのに、日本人の方はドイツの指導原理を学ぶとい今日の非常時が解決されて行くかのように考えている人がたくさんあるようである。日本人には何でも外国のものはよく見える癖がある。明治維新後外国模倣を主としたために外国のものとさえ言えば何でもよい様に考え、上等は舶来だと合点しておったからであろうが、実はその点が日本に非常時を招来し世の中を混乱に陥れている所の有力なる一つの原因だと確信する。もっともヒットラーの使者は本当は日本精神というものが、どういうものであるかということは、真には到底認識は出来なかったであろうと私は思う。ただ日本に来て調べてみたが、何処を見渡して見ても特別なものはない、皆外国同様のものばかりである。何等今日の日本には特長はないから、これによって、今の日本人には日本精神はないということを報告したものだと考える。本当の国体の尊厳建国の理想から発達し宇宙の生成化育の真理そのものを理想とし信念とし、義においては君臣の差別あり、情においては父子の関係にて無差別の心境にある日本精神を解する者は、前に述べたように日本人中にも少ないのであるから、外国人には本当に理解する事は中々難しい事と考える。とにかく日本が全く外国化したという報告は、それは偶然にも日本の現状につき穿ったことをいっていると考える。これは我々に取って何処までも頂門一針であって、大いに鑑みなければならぬ点であると信ずるのである。
 またかつてフランスの新聞記者が数年前に日本の国情を調査して、日本の現在の指導原理は何処にあるのか一向に判らぬ。この分で日本が進んでいると日本は共産主義の国になるのじゃないか、あるいはファッショ国になるのじゃないかと、非常に疑問を持って首を捻って研究をしたそうであるが、この人は日本の当時の指導原理は一つも分からぬけれども、明治天皇が軍隊に賜ったところの御勅諭が日本の指導原理となっているようだと、こうく報告をしているそうである。かくの如く外国人の方が日本の特異性について非常に注意しているのである。一体思想というといかにも抽象的のものであって、それが火花を散らしたり戦争の原因になったりするかと考えるけれども、思想の衝突即ちそれは文化の衝突融合であって恰も陰陽の電気が合して火花を散らすのと全く同じような現象が起こるのである。一体思想というものが人間の基であって万事の基礎をなし考え方を指導し或は行いの基調を支配しているのである。故に思想のない者には指導原理はない、また批判力もない、理想も信念もない。今日新聞を読んでも、或は各種の出来事を見ても、思想のない者は正しい判断がつかない、正しい理解が出来ない。そこが非常に危険な所である。これを艦船の運航に例えて言うと、いわゆる思想というものは恰も艦の操艦術や舵のようなものである。そこでもし艦に舵がなくまた艦長や船長が操艦の術、あるいは如何なる進路を進むべきかということを知らないで、漫然と船に全馬力をかけさせて、全速力を出して走って行ったならば、船は直に 擱岸、座礁、大衝突の運命になることは、すぐ想像のつくことである。しかも機関の馬力が大なれば大なるほど、速力が早ければ早いほど、その損害は大きいのである。自動車について考えてもその通りであって、運転手が操縦術を知らないと、その自動車の機械の馬力が大きければ大きい程、速力が速ければ速い程、その事故の大きいことは見やすい道理である。それと同様に一国の舵を取る所の首脳部、政治家が思想について正しい認識がないということになると、その結果は国が直ちに非常時になるという訳である。国内数次の不祥事の原因も、また今次の戦争の原因も、帰する所は首脳部を始めとして有識者に思想の分からないというところに非常時の真の原因があるのである。言い換えると真の日本精神を理解せざる者あるいはこれを失ったという所に、今日の非常時の原因があるのである。

次回に続きます。

2014年5月17日土曜日

非常時局読本(第二回)「露支侮日の遠因」

 大東亜戦争とは、欧米の自由主義、共産主義と日本精神との思想戦だった?!共産主義者が暗躍し、国家社会主義者が踊らされ、自由主義者は抵抗出来ず、日本精神の一般人は戦場で散った?今も思想戦は続いています。
 歴史とは過去と現在の対話です。
 ぜひ、お読み下さい。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

6ページより

二、露支侮日の遠因

 今次の戦争の原因について考えてみても、決してこれは盧溝橋やあるいは柳條橋の鉄道爆破あるいは支那人の暴戻なる不法射撃というようなもののみに因って始まっている訳ではないのである。単にそれのみに依って戦争が始まるものであったならば、先般の張皷峰事件などは疾くに日ソ戦争になっているべきはずである。これは一口に言うと時の空気即ち勢いが支配するのである。しからばその時の空気あるいは勢いは何に依って出来るかというと、その時の人の思想、主として国の首脳部たる者の思想に支配されて出来るのである。そこまでよく認識しなければ真の戦の原因を知る事は出来ない。真の原因を知らなければ、適切なる対策も考えられないのである。適切な対策がなければ、聖戦のの結末を正しく解決する事も出来ない相談であって、それでは東洋永遠の平和どころか国内の安泰さえ保持し得なくなる次第である。
 この度の事変の如きは私共は実は大正十年頃から、どうしてもこの一戦は避け難いものだと言う事を予想して心配しておったのである。それで度々当事者に報告もし、注意を促したけれども、万事が欧米万能時代にしてロシアや支那の事は一切馬耳東風に附せられて顧みられなかった訳である。しからば大正十年頃になぜこういう戦が起こる必然性があると考えたかというと、それは例のワシントン軍縮会議時分であったが、あの自分から俄にロシア人や支那人が日本を軽蔑し出したのである。私が使っていた極詰まらぬ支那人さえ、ワシントン会議で主力艦が五・五・三の比率に決定せられた時に私に対して「日本は大きな顔をして支那やロシアに向かって威張っているけれども、アメリカやイギリスの前には五・五・三じゃないか、頭が上がらないじゃないか、弱い者だけには大きな顔をしているじゃないか、もう日本は駄目だ」という事を朝飯を食っておる時に言ったものである。また当時ロシアの「ゴーロスロヂヌイ」(祖国の声)という新聞には日本の外交は東京でなくて、ワシントンで行われている。即ち政治の中心がワシントンにあるというようなことまで書き立てたこともあったのである。そういう風に日本ももう駄目だという考えをつまらぬ支那人やロシア人にまで持たした以上は、日本は駄目じゃないかということを彼等に新たに示さぬ限り将来ロシア、支那において日本人は何も仕事は出来ぬことになる。即ち日清、日露両戦もシベリア出兵も何のためにやったか分からぬことになる。これでは大変だと私は非常に強く心肝に銘じたのである。日本人の中にも一人一人では支那人やロシア人に負ける者がたくさんあるから、駄目でないことを示すには我が国体を基調とする全国民のその団結力に成る大なる力を以て彼等に一撃を食わして反省を促さなければ、このままの和平交渉では徒に彼等を増長せしむるのみであると考えたのである。また彼等はその時分から日本人の思想も大分赤化してほとんど胸の辺りまで真っ赤となって来たから、日本を崩壊に導く事は唯時機の問題だ等と言っておった者もあり、昭和の初め頃には日本の軍隊の赤化工作も略略目的を達した等と、彼等の密偵達の報告にも
あり、また新聞の記事にもあったのである。
 次に愈々第一次ロンドン会議が行われるに及んで、益々彼等は増長して軽蔑し始めたのである。斯くの如く彼等は日本人よりも却って著しく日本人の思想の動向や内部の情勢について注意し常に一喜一憂を感じておったのである。今回の事変の数年前支那人中には日本人の特徴である国体観念につき既に昔日ほどでなく、従って国民の団結力もさほどでなく、恐るるに足らずとして軽蔑的の言葉を弄していた者もあったのである。以上に依って明らかなるが如く今次事変の原因は、一口にいうと欧米の自由主義ないし共産主義と日本精神との衝突であり、特に日本人が日本精神を失ったという所に帰着するのである。それであるからこの事件を解決するためにも先ず日本人が日本精神に還るということが何よりも先決問題であり、何よりも重大要件であるのである。

次回に続きます。二十六回の連載の予定です。お楽しみに。

2014年5月15日木曜日

非常時局読本(第一回)「近代戦と思想戦」

 私が好きな真崎甚三郎大将の弟の真崎勝次海軍少将による著書である。真崎勝次少将は海軍の中で思想問題を研究されていたほとんと唯一の人である。ロシア革命当時はロシアに駐在武官として滞在し、共産主義の何たるかを熟知されていた。大湊要港部司令官だった昭和11年に二二六事件が起こり、兄甚三郎大将が冤罪で捕縛されたのと同時にやはり青年将校に激励の電報を送ったという嘘によって、予備役にさせられた。
 この「非常時読本」は昭和14年に発行されている。内容が今でも通用する内容だったので、ここに連載し、多くの人の目に触れたいと思う。この本は終戦前はおそらく陸軍によって広がるのを止められ、戦後はGHQによって図書館からも回収されている発禁本である。この本を読んだ事がある人は日本でも本当に少ないのではないかと思う。
 私は古本屋から購入したのだが、表紙はかなり劣化し、開くたびに破けているので、裏は絆創膏だらけである。この連載が終わる頃には本当にぼろぼろになってしまうのではと心配している。
 皆さん、ぜひお読み下さい。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

一、近代戦と思想戦

 近代戦の特徴が武力戦の外に思想戦であり、外交戦でありまた経済戦であるということは、今日では皆異口同音に唱えておるところであって、今更どうどうを要せない所である。しかしながらよく詮索してみるとこれは何も今日に始まったことではないのであって、昔から名将といわるる人は必ず武力戦を有利に進展せしむるためには、いわゆる思想戦も外交戦も経済戦もこれと併行して実行しておるのである。例えば徳川家康公の大阪城攻略にしても、直に武力をもって落としてはいない。また敵方に回りそうな者に対しては人質を取ってその死命を制するような手段も採っている。支那においては合従連衡の謀略が盛んに行われ、またヨーロッパにおいてもパルチザン戦その他後方撹乱の手段が行われて有利に兵戦を指導して行くというようなことは古来盛んに行われているのである。ただ昔は武士という特別な人のみが戦争に従事しておったので、真に国民の総力戦でなかったために、思想戦も外交戦もあるいは経済戦も今日程戦争に対し重要なる役割を演じていなかったに過ぎないのである。しかして更に突っ込んで考えると、思想戦が近代戦の特徴であるいうよりも寧ろ近代戦は思想戦そのものだと解してよいくらいである。即ち兵術そのものを左右し、外交を支配し、経済を指導し、また戦争そのものの原因をも作っているのであるが、この点については未だ研究の足らない所が多々あるのである。しからば思想がどういう風に兵術そのものを変化せしめ指導しているかというと、一例を挙げれば、孫子も戦争をするには五つのことが一番大事であると申している。即ち第一に道ということを挙げている。その道とは今日でいういわゆる大義名分、戦の旗幟であってこれが一番大事であると言っている。次に時、いかなる時機に戦うかということ、それから地の利、つまりどういう所で戦うかということ、その次には将を選ぶ事の大事である事を説き、最後に法という事を挙げている、法とは今日でいう戦術である。しかしてこの五つの中何の点に重きを置くかということは、その時の政府首脳者や軍の統率者の思想によって変わって来るのである。一番大事な大義名分を忘れて、無闇に地の利や開戦の時機ばかりを焦って戦を始める者もあり、大義名分が立派でなければ戦争をせぬ者もあり、また戦争の時機も土地柄も構わず戦術さへ巧みにやれば勝つと思って無理に戦を指導する者もある。それらは全てその時の当事者や首脳部やないしは一般の思想によって決定されるのである。
 更に詳しくいうと、いわゆる、正攻法を重んじこれを主として戦をするか、または奇襲を主体として戦うかというような事もその時代の思想に支配せられているのであって、これを相撲に例えていうと四つに組むことを建前として取り組み、敵に揚げ足を取る時機があったら気を逸せず揚げ足を取るという風に奇襲を副手段として戦うか、或は奇襲を主として、即ち揚げ足取りを専門にして戦うかというような根本の考えの持ち方も、全てその人の思想によって支配せらるるのである。かくの如く思想そのものが時代の兵術の様式も、または国防そのものの観念様式も、あるいは建艦の様式も、即ち主力艦を主とするか、潜水艦や飛行機に重きを置くかと言う事も、また軍隊の教育も編制も訓練の仕方も全てこれが支配を受けるのである。
 外交にしても同様であって、現に防共協定などといって、(実は絶対的見地に立ち滅共協定でなくてはならぬ)これを現代に日本の外交の枢軸であるかのように言っているごとく、明らかに思想が中心になって外交が行われていることは既に周知の事実である。またその樽俎(そんそ)折衝の方法にしても、やはり思想によって変化する。即ち誠実にやるか、自主的にやるか、或はペテン外交をやるかと言う事も皆思想の支配を受けるのである。
 次に経済の如きももちろんである。即ち自由主義の下における資本主義経済、あるいは共産主義の下における極端な国家管理、統制経済、あるいはファシズムの下における全体主義というような訳で、思想そのものが完全に経済の形態原則を支配しているのである。斯くの如くに思想そのものが戦争を支配し、兵術を支配し、外交を支配し、経済を指導しているのであるから、近代戦の特徴は武力戦の外に思想戦、外交戦或は経済戦であるというよりも、寧ろ近代戦は思想戦だという言ってもよいくらいであるのである。


2014年5月14日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第十一回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 54ページ

 その話が梅津から陸軍に洩れたために、これは大変な陰謀だと陸軍は感じたらしい。そこで直ちに陰謀団を捕まえよということになった。この陰謀団については、かねて彼等は内定済みであるから、近衛とか、吉田とか、岩淵とか、私なんかを一網打尽にしようと思ったのであろうが、いろいろな事情で全部は捕まえなかったわけだ。これは小磯内閣の時で、これを知った陸軍の兵務局と軍務局との両方で、直ちに捕えようという案を出した。その時は杉山元が陸軍大臣で、杉山は若い連中の言いなり次第になる人であったが、これには署名しなかったそうだ。あまりに重大なので、自分が責任を取るのが嫌だったのであろう。それで一ヶ月以上もたつうちに小磯内閣が退陣して鈴木内閣になった。その機会に陸軍大臣が阿南ということになった。阿南という男は正直な人だから、陸軍の強要に遭って、真っ正直に受け取ってサインしたのだろうと思う。

 この間も、吉田さんと会った時、この時の話が出て、吉田さんも「どうして、奴等は我々を殺さなかったんだろう。闇から闇へ葬ることだって、あの時ならできたのに・・・」と言ったものだ。それをしなかったのは、やっぱり戦局が非常に悪く、それをする程の意志力がもう、軍になくなっていたのだろう。もっとも証拠は何もない。私達は別段、紙に何にも書いてない。電話なんかは聞かれているかもしれないと、これも用心している。内容のある話を電話でしたことはない。ただ、いつ何日に誰と会う、こういう位のことは話した。それは全部彼等に取られていたけれども、その外具体的なことはなかった。東條内閣の倒閣運動をどうしてやったか、などと訊ねる位で、あんまり大きな収穫は彼等にはなかった。
 拷問はもとよりしなかった。非常に丁重ということもないけれども、手荒なことはしなかった。もっとも岩淵君なんか、三晩位寝かされなかったことがあるそうだ。つまり彼等はわれわれを目して、吉田茂陰謀団という見方をしていたらしい。また事実、大陰謀団であったのだ。われわれは実はいろいろのプランを持っていた。近衛さんに大命が降下する。その晩のうちに、真崎陸軍大臣と近衛総理大臣と二人だけの親任式をやり、宮中を退出せずにそのままかねてのプラン通り、用意しているリストに依って、陸軍省、参謀本部の首脳部を一遍に首切って、予備役に編入してしまう。参謀総長も次長も、陸軍省の軍務局長も兵務局長はもちろんもっと下の奴から、憲兵司令官まで全部予備役にしてしまう。そして、「近衛はどうしたんだろう、大命が降下して宮中に入ったはずだけれども出てこない、どうしたんだろう」と人々が言っている頃には、スッカリ首切りが終わって宮中を出て来る。翌朝になれば近衛一連隊を指揮して、予備役にした主な将校の家を包囲して逮捕もし、家宅捜索をしよう。そして国民になぜかかる断乎たる処分をしたかをハッキリと声明して、出先の各派遣軍に向かっても事情を明らかにしよう。陸軍の粛正が終わったらば、更に次の工作に移ろう。こういう構想を持っておった。いわば夢物語みたいなものであったからかも知れぬが奴等は一向に気がつかなかったらしい。もっとも我々の側でもこんな細かい具体的な問題は小畑君や岩淵君や私の如き参謀連のテクニカルな問題として考えられておったに過ぎないものも多かった。
 いずれにせよ、憲兵が毎日毎日愚にもつかんことを訊くのだ。それで「どうせ、あなた方はわれわれが嫌いなんだろう。いっそ死刑にしたらどうですか」と言った。そうしたら「死刑にしたいんだ。しかし法治国の悲しさ、それが出来ない」と言っていた。
 憲兵隊では別々の留置場に入れられて、しかも他の人と混みだから、混雑しておったし、食い物も悪かったし、シラミがいっぱいいるし、着て寝る毛布も枕もない。ずいぶん惨憺たるものであった。十八日ばかりそこにおってから、手錠をはめられて代々木の陸軍刑務所へやられた。そこへ行ったら、吉田さんと私は隣り合った独房へ一人ずつ入れられ岩淵君は独房がなかったので混みであったけれども、人数の少ない、割り合いに善良な奴と一緒におかれた。優遇されたわけだろう。ところが五月二十五日の空襲で刑務所が焼けたので、その夕方逃げていた代々木の練兵場から、東横沿線の都立高校という駅のそばにある八雲小学校、そこが仮の陸軍刑務所になって、そこに五日ばかりおって、仮釈放ということでトラックに乗せられて帰されたのである。
 吉田さんの家は二十四日の晩、岩淵君と私の家は二十五日に焼かれた。帰って見たら、家には誰もいなかった。それまで何にも連絡がなかったので、これは家族はやられたかなと思っておった。万一やられていなければと思いつつ、帰って見ると予期の如く、全部やられていた。その時長男は兵隊に行ってるから家にはいないと思っていた。ところがそれがその日に帰って来て、家族と一緒に逃げたが彼だけ助かって、ほかの者はみんな全滅したのである。悉く私の責任であって死んで行った者に対して何とも申し訳が無い。(了)

 
 以上が近衛上奏文に関わった人達の動向です。皆さん、少しは参考になったでしょうか?
 次回からは真崎甚三郎大将の弟勝次少将の「非常時局読本」の連載を始めます。戦前は陸軍、戦後はGHQがこの本を隠蔽しようとした「幻の本」です。お楽しみに。

2014年5月11日日曜日

日本バドリオ事件顛末(第十回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 52ページ

 近衛さんはこれより二ヶ月ほど前の昭和二十年の二月十四日拝謁されたのだが、その前から何時拝謁されるということは、われわれ同志の間では知っておった。いよいよ拝謁をして、お話を申し上げて、こういうことを申し上げたんだ、ということを知っておった。近衛さんにお目に掛からなくても、チャンと知って居った。それをわれわれの目的への一歩前進ぐらいに思って喜んでおった。それを陸軍が嗅ぎつけてわれわれを捕まえたのだ。ということが判った。問題の焦点は明らかになったから、私は非常に安心した。その晩は留置場の自分の室に帰ってから、グッスリ睡ることが出来た。
 その近衛さん上奏というのは、岩淵君が“世界文化”に「近衛上奏文」と題して出している。あれは私の書いたものではない。私の書いたものはもっと長いもので、もっと詳細に深刻な言辞を連ねてあるものだ。しかし、近衛上奏文も近衛さんが私達からいろいろな話を聴いていて、われわれの主張の線に沿って、自分で書かれたもので、非常によく出来ているものだ。
 近衛さんは上奏される前の晩、平河町の吉田さんの邸へ来て泊られた。翌日吉田さんの自動車に乗って宮中に行き、拝謁して帰って来た。非常に久し振りに拝謁して、その結果は近衛さんとして意外だったらしい。
 近衛さんは陛下の御信任が全くなくなっていると思っておった。私共がどうしても近衛さんが出なければ駄目だと言っても、出ようという意思表示はされなかった。「私は駄目ですよ、駄目ですよ」と言っていた。それ故に私たちのプランの中に小林さんが登場したり、宇垣さんが登場したりしたものだ。なぜ近衛さんがウンといわないかといえば、陛下の御信任が自分を去っている。だから、到底大命が降下するこはない、と考えておったのではないかと思う。しかし、それは近衛さんの錯覚であって、陸軍の近衛さんに対する信望が全くなくなっておったことを、陛下の信任がなくなったと混同して考えておったと私は思う。しかし、そういうふうに見えるくらいまでに、陸軍は陛下の聖明を覆うておったのである。
 その上奏文は近衛さんが湯河原で自分で書かれたものだそうだ。罫紙に約十枚ばかりのもので、それには、ロシアは信頼ができません、ロシアはこういうふうな不都合なことをやっております。日本の陸軍というものは陰謀の府であります。これでは正しい政治は絶対に行われません、戦も出来ません、というような趣旨が書いてある。終戦後に考えても、実に立派な上奏文である。
 その拝謁になるまでの道筋が面白い。私たちは政変があったら、小林さんを登場させて、小林さんによって上奏させようと思っていたが駄目になった。それからは政変の時に限らず、誰か拝謁して上奏できればいい。その任に当たる者は近衛さん以外にない。そこで近衛さんに、拝謁して陛下にいろいろ申し上げてもらいたい。と言っておったわけで、それから近衛さんは拝謁したいということをお願いしておったのだろうが、宮中は用心堅固でなかなか拝謁が出来ない。恐らく木戸君が侍従長の所で押さえている。公の職務のある人以外は拝謁が出来ない。何事でも政府及び軍部以外の声をお耳に入れない、という事にしてしまった。近衛さんは第三次近衛内閣を退陣した時以来殆ど拝謁しておられない。御会合の時に、大勢と一緒に集まるようなことはあったかも知れんが・・・
 ところが、たしか十九年の終わりだと思うが、牧野伸顕伯が、夫人が亡くなられて、その喪が過ぎてから、忌明けの御礼というものに参内された。そして東御車寄へいって忌明け御礼の記帳をされた。そこへ木戸君が出て来た。多分、牧野さんが見えたと連絡があって、すぐ内大臣府から出て来たものと見える。そこで、「今日は非常によい時においでになりました。いま陛下は御暇ですから、拝謁なすってはどうですか」こう言ったそうだ。それから牧野さんが「いや、私は忌明けの御礼に伺ったので、畏れ多いから拝謁なぞ出来ません。またの機会に・・・」と言って帰られた。そしてその話が吉田さんの方に伝わって来た。そこで、拝謁が必ずしも出来ない訳では無いではないか、それでは一つ拝謁をお許し願おうということで、それを鈴木貫太郎さんに話して、鈴木さんから侍従長の藤田尚徳という海軍大将に話をして、何とか近衛さんが拝謁出来るようにしてもらいたいということを頼んだ。
 その二人の骨折りで拝謁のことを取り計らうということになったが、今のような大きな原則が出来ているから拝謁ということでは許されない。ただ重臣が天機奉伺に御車寄へ記帳に見えたら、その時にさっきの牧野さんの場合と同じくお暇だからというので拝謁を賜るということになった。それがすぐわれわれの方へ伝わって来た。重臣というと東條も一緒だ、それと一緒に拝謁を賜ったのでは何の事かわからない。と言ってまた運動したわけだが、それでは一人一人日を決めて、誰は何日、誰は何日ということでやろうということになった。一番初め広田弘毅氏が出た。何でも、ソ連を頼りにして、ソ連に縋らなければならぬ、というようなことを申し上げたそうだ。その次に平沼さんは伊勢の外宮が空襲に遇われて甚だ遺憾だ、といった話をされた。みんな時間は五分間位であったそうだ。そして二月十四日に、近衛さんがゆくことに決まったのである。この日、近衛さんは意外と長い間拝謁を賜って、椅子に掛けろと仰って椅子を賜った。そこで近衛さんはかねて用意している原稿によって申し上げた。その時、近衛さんがソ連頼るべからずという話を申し上げると、「参謀総長の梅津は数日前に拝謁して、ソ連のみが頼るに足るというておったが、それはどういうわけだ」という御質問があったそうだ。それから、それでは陸軍大臣を誰にする、陸軍を粛正する人を誰にするという話になった時に、われわれ同志の間では真崎大将に決まってるのに、近衛さんはハッキリそう申し上げず、三人候補者を挙げたのだ。宇垣と石原と真崎と申し上げた。そこで近衛式である。ただ、その中でも真崎が一番適任でありますと申し上げたそうである。次に杉山元はどうだというようなことも話題に上ったらしい。それで、元帥でないと陸軍が治まり悪くはないか、というようなお話が出て、しかし今頃元帥であろうとなかろうと、そんなことはこの大切な時には問題ではないでしょう。要は本人の実力でございますと申し上げて、それをきっかけとして陛下もお笑いになるし、近衛さんも笑って非常に和気靄然たる雰囲気を醸し出されたわけである。唯、その笑った時に陛下と近衛さん以外に笑った者がある。木戸君であった。そこで私共が疑うのは、木戸君がその上奏の内容を洩らしたのではないか。それから、これは近衛さんに訊いて見なかったが、近衛さんと木戸君のことだから、上奏をして退出する時に木戸君の所へ寄って、近衛さんの意見をもう一つ詳細に述べただろうと思う。木戸君からそれが陸軍の誰に洩れたか判らないが、木戸君は梅津美治郎と非常に親しくって、信頼していてたようだから、梅津にその話をしたのではなかろうか、それは悪意ではなかったろう。こういうことを近衛君が言った、君はどう思うというようなことを話したのではなかろうか。

2014年5月3日土曜日

日本バドリオ事件顛末(第九回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 51ページ

 一方引っぱって行かれた私にすれば、この一文が取られたのか取られていないのか、判らない。憲兵に「君、あれを取って来ましたか」と訊くわけにもゆかんし、「何か僕を調べる材料があるのか」と訊くわけにもゆかぬ。憲兵がそれを持っていると否とでは、私に対する考え方がまるで違うであろうし、こっちの答弁も違うわけだ。けれども中途半端に妥協的なことを考えて答弁してはいかぬ。つまり隠せるだけは隠していた。そして、事実、これは取られてないのであったから、肝腎なところが憲兵にもおせなかったのである。
 私が家内にモンペの中へ入れるように頼んでいると、「急いで下さい。早くして下さい。」と言う。それから私は和服に着替えて、応接間へみんなを呼び入れた。ドヤドヤッと大勢が入って来て、机の上に紙を出した。それが軍法会議の拘引状である。「あなたを拘引してゆきます。そして家宅捜索をいたします。」と言うから「承知しました。それでは洋服に着替えますから」と言って私は背広に着替えた。家内に「ちょいと言って来るよ」と言って玄関に出た。門前に自動車が待っていて、私を真ん中に挟んで憲兵が二人付き添って自動車に乗せられ九段の憲兵隊に連れて行かれすぐ調室へ引き出された。先刻の法務官がまた出て来て、私の被疑事実を述べるのだ。「あなたは隣組の常会へ出て、戦は負けるという話をしたそうですね」「したことはありません。第一、隣組常会など一遍も出たことはありません」問答はそれで終わりだ。向こうは私が常会に出たこともないし、そんな話をしたこともないのを承知の上で、ただ被疑事実として拵えて引っ張っただけなのだ。そして私は憲兵に引き渡された。
 私はこれはきっと一味みんなやられたんだろうと考え、それでは誰と誰であろうと、注意していると一日二日経つうちに、ハッキリは判らないが大体のことは判った。吉田さんと岩淵君が捕まったことは、ほぼ確実に判った。近衛さんもてっきりやられただろうと思ったが捕えられていない事が判った。真崎大将も引っ張ってなかった。小畑君も引っ張られてなかった。しかし、これは引っ張ったと同じに、憲兵が家へ行って調書を取っている。二週間位軟禁されている。前述の小林さんはこの頃は既に翼政会総裁で我々とは離れた立場に居られた。
 私はその日一日、ズッと真夜中まで、何ということなしに、雑談風な話をしながら憲兵に調べられた。戦争の見透しはどうだとか、そういうことばかり言ってその日は暮らした。
 そうしているうち翌晩になって、調室へ大きな椅子を持ち込んで来た。誰が来るのかと思っていると、司令官がお見えになる、と言っている。私は憲兵司令官が来るのかと思った。ところが、司令官というのは東京憲兵隊長のことで、それを当時は機構が変わって、そういう厳しい名前に代わっていたのである。やがてデップリ太った大佐が、大勢のお供を連れてやって来た。その大佐が戦犯に指定されながら逃げ回ってこの間捕まった大谷大佐だ。初めはいと丁重な言葉で「近衛さんが拝謁したことは知ってるでしょう」と言った。私はハッ思ったけれども、「私はそんなこと知りません。近衛さんには今年の一月お目に掛かったきりお目に掛からない。だから拝謁したことは知りません」「そんなことはないでしょう。何もかも知ってるでしょう」「何も知りません」「それでは、近衛さんが上奏したのを知っているでしょう」ははあ、来たなと思ったけれども、「知りません。上奏されたんですか」「知らない筈はない」「いや知りません。どうせ私たちの行動はあなた方が知っているんだから。私がこの頃近衛さんに会ってないこともご存知でしょう。私は拝謁のことも知らんし、上奏のことも知りません。私は近衛さんから聞く以外に近衛さんの行動を知る手がありません。まさか陛下が、近衛がおれに拝謁してこんなことを上奏したよ、という話を私にされる筈はない。一体近衛さんと陛下だけの話をあなた方が知ってる、そのことがおかしいじゃないか」と言った。すると突如として大谷が「今度の事件は貴様が張本人だッ。厳重に調べろッ。」と言って、靴を蹴って出ていった。その「今度の事件」と言われたので、私はハッキリ判ったのである。

続く

2014年4月13日日曜日

日本バドリオ事件顛末(第八回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 50ページ

 ところが間もなく東條内閣が倒れた。けれども小林のコの字も後継内閣の噂に出て来ない。若槻さんも我々の考えを知っているシンパであったけれども、重臣会議の席上で宇垣さんを推したらしい。近衛さんも小林ということは、とうとう言われずに終わった。小林さんは我々の間で考えただけで、具体的な問題にならなかった。従って、折角私が書いたけれども、それを小林さんは私がそれを書いていることもご承知なかったかも知れない。—小磯内閣が出来上がった。事は破れたわけである。その原稿は焼き捨てればよいのであったが、我々はそのために大きな目的を捨てず、また次の機会を狙おうということになった。なにも小林さんと限ったことはない。誰でも我々の同志が出て行って組閣をするという問題にぶつかれば、この上奏文は必ず必要になる。のみならず、政変、組閣の際でなくとも、近衛さんでも拝謁ができて陛下にお話を申し上げるという時には、それは有力な参考資料になると考えておったものだから、私はそれをそのまま取っておいたのである。
 とにかく人に見られたら大変なものであるからどこかへ仕舞い込んで、いざという時に始末が出来ないようなことでは困る思って、私はこの上奏文を、普段、すぐ枕元の 小引出しに入れておいたのであった。ところが、さて憲兵が十人も来て家を囲まれて見ると、その平素の用意が何もならない。どう処分のしようもない。すぐ寝床から下りて寝巻きを着替えながら、まっすぐに飛びついたのがその引出しである。大きなレター・ペーパーに50枚くらい、こまかく書いてある。そうして畳んで封筒に入れてある。それを懐中に入れてみたけれども、どうも具合が悪い。茶の間の外が中庭になっておる。その向こうには物置もあるし、隣家もある、そこへいって見たらば何とかなるかもしれぬと思い、茶の間の雨戸をあけて見たら、中庭にカーキー服を着てチャンと立っている。急いで雨戸を締めてまた引き返した。丁度その時に家内が寝巻きにモンペに着替えておった。ハッと思いついて「お前、これをモンペの下に入れてくれないか」と言ったら、「それじゃ便所へ持っていきましょうか」「いや、便所は駄目だよ。中廊下にも見張りがいるし、便所なんかへ入れても必ず覗かれるだろう。何かあるなと思って拾い上げて見られたらおしまいだからそれは駄目だ。それよりモンペの下へ入れといてくれないか。まさか女を裸にもしないだろう。」私としては裸にして取られたら、それはその時のことだと思って頼んだのだが、結局それが成功したのである。しかし、この上奏文は、後に焼き捨てられている。

続く

2014年4月5日土曜日

日本バドリオ事件顛末(第七回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 49ページ

   第二部  我々は如何に戦ったか

 昭和二十年四月十五日の未明、まだみんな寝ておったところへ玄関のベルが鳴った。女中も居なかったから、家内が玄関へ出る。そして陸軍法務官の某という名刺を持って私のところへ来て、「大勢来ましたよ」と言う。
 ははあ、来たなと思って私は飛び起きた。その時にすぐ気がついたのは、私の持っている上奏文の原稿をどうするかということであった。
 その上奏文というのは、その前年東條内閣の当時、われわれの同志、吉田さん、岩淵君、近衛さん、真崎大将、小畑中将、真崎勝次少将、森岡次郎こう言った人々の間で、小林躋造(せいぞう)海軍大将を出して東條内閣に取って替わらせよう、こういうことを考えておった。その小林内閣では真崎大将か小畑中将をもって陸軍大臣にしよう、海軍大臣は小林さん自身に当たらせたらどうか、こういう案を考えておった。政治を軍部の手から離して、完全に新しい内閣の手に握ろう。そして腐敗しきっている軍の粛正をやって戦争を早くやめ、平和に持ってゆく。そのためには真崎とか小畑とかいう人を軍政に当たらせる必要がある。ところがそれらの人は予備役だ。予備役の人を軍部大臣にすることは、当時は出来なかった。現役の人の中からは、軍の粛正をすることを望んでも、これは思いもよらぬ。いわんや、平和への転換などということは考えられぬ。どうしても予備役のそれも少数の限られた人の中から後任の軍部大臣を選ばなければならない。もし、我々の希望する如く、小林さんに大命が降下したとしても、組閣の一番の難関は、陸軍大臣を現役から採らずに予備の将軍から任用する点だ。これをやるためには、陛下が充分にその必要を認識されて、小林さんの意見を採用されることが必要なわけである。それには、何故そうするかということを、一応申し上げるだろうが、その複雑な事情を陛下が直ちに呑み込まれるかどうか判らぬ。そこでその理由を詳しく判るように書いて、その時の役に立てる必要があるということになった。その時の小林さんの考えでは、陛下がそれを御採用にならぬ時は組閣は不可能だからご辞退する。しかし、なぜかような事を必要とするかはこれに書いてございますから、よくご覧を願います。と言って御手許に残して来る。その用意を持ってゆこうというので書いたのがその上奏文なのである。大命が降下した時に陛下の御前でもそれを読んで御承認を得ようというよりも、御承認がない時にそれを陛下の所へ残してお考えを願うことに役立てるために書いたものである。それによって、新しい内閣を作る事は不成功に終わっても、日本の政治の実情はこういうものだ、日本の陸海軍の真相はこういうものだ、この戦争はこういう段階にあるということを、ハッキリ陛下が認識される一つの機会にはなる。それだけでもよいのだ。恐らく陛下は何も真相をご承知ない。こう考えて長文のハッキリしたものを書こうということになった。そして私に書けということになって私が書いたのである。そういう意図のものであるから、簡単なものでなくて、ゆっくり読んでいただくような長いものになった。その原稿が出来て、小畑君が見て筆を入れておった。近衛さんには、簡単に見てもらったがその外の人達にには未だ見せてなかった。我々同志の中では内容を一々見る必要はない、話は決まっているのだから。しかし軍事との問題があるから、小畑君には特に相談したわけだ。

続く

2014年3月14日金曜日

日本バドリオ事件顛末(第六回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 48ページ

 我々同志の最大の問題は、陸軍を政治から追っ払うこと、それには陸軍大臣にその人を得て陸軍を粛正する外は無い。その陸軍大臣に誰を充てるか。私共は真崎甚三郎大将を考えた。ところが、真崎さんに対しては当時非常な誤解がある。統制派が非常な努力をして真崎さんに対する誤伝を世上に流布したものだが、この真崎さんを囲む一団の人々がある、その最も有力であったのが小畑敏四郎、あるいは松浦、山岡、また柳川などもそうであった。その中で真崎、小畑が最も信用の出来る人だ。陸軍の実情を認識して、陸軍の粛正を実行し得る人は、この二人殊に真崎さんを措いて他に人は無い。真崎が大臣ならば小畑は次官になるであろう。ところが二人とも予備だ、予備のしかも非常に誤解されておる真崎さんを陸軍大臣に起用する政府を作らなければならない。それを身に以て実行する決心をした人を総理大臣に択ばねばならぬ。これが我々の建前であった。
 真崎、小畑の二人と我々との結び付きに就いて言えば、我々の盟友の一人である岩淵辰雄君がこの二人と非常に親しかった。私もこの二人とは親しかった。そうして私も岩淵君も吉田さんとは頗る親しい、こういう関係で結合するに至ったが、後に近衛さんが第三次近衛内閣を投げ出して陸軍に振り捨てられてから、その全部と親しい我々と一緒になるようになったのである。しかしそれは近衛さんだけでこれがために従前近衛さんを取り巻いておった人々と密接な関係を生ずることは無かった。もちろん至って少数の例外はある。
 そうやって我々が非常に憂えているうちに、遂に三国同盟が出来、翼賛会が出来、日米交渉という場面になった。日米交渉というものは非常に矛盾したものである。けれども近衛さんは真面目に考えた、ああいう矛盾したコースが近衛さんのとってはナチュラルであったのだろう。近衛さんはあの交渉の成功せんことを切に祈った。私は駄目だと思った、吉田さんもやはり駄目だと思いながらも、非常に親しかったグルー氏やクレーギー氏あたりに向かって熱心に努力されたものである。既にその頃は憲兵が我々を追っかけていた。吉田さんの平河町の邸は憲兵に取り囲まれていた、私共はそれを承知していたけれども、そんな事は構わない、平気で出入りしておった。
 そこへ松岡がソヴェットから帰って来て、真っ先に日米交渉をぶち壊しに懸かった。南仏印進駐をやった。これは日米和平の退路を絶ったようなものだ、それでもアメリカも非常な努力をした。もし日本が誠意を以て平和的妥結に持って行こうとするならば、それは立派にできていたと思う、それを軍が壊そうという建前だから出来っこない、遂に不成功に終わった。
 そこで我々は、この日本の政治の真相を、先ず重臣に認識してもらわなければならないと考えたので、吉田さんと私が、手を替え品を替えて重臣の間を説いて歩いた。若槻を説き、牧野さんを説き、岡田にも、平沼にも、幣原にも、池田成彬にも説き、私は町田忠治にも話した。
 宇垣さんにも話した。そうしておるうちに、遂に太平洋戦争に突入してしまって、それから近衛さんの反省と煩悶が始まったわけだ。
 ある冬の寒い日、私は小畑敏四郎君と一緒に湯河原の近衛さんの別邸に往って、私の見解を数時間に亘って述べた、それを近衛さんは熱心に聴いてくれた。近衛という人は聴き上手だそうだから騙されてはいけないと思ったけれども、そうではなかった。
 「殖田さん、私は三遍組閣して、その間相当長い年月も経っているし、あらゆる人と密接な交渉もあった。いろんな場面にも会っている、その体験からいうと、あなたのお話は思い当たる事ばかりです。何故私にもっと早く話しをしてくれなかったか」、これに対して私は、「敵の重囲の中におられるあなたに話をすることは出来ませんでした。話をして、私も重囲の中に陥って殺されることは厭わないが、私が殺されたら、志を継ぐ人が無い、自惚れとは思ったけれども、そう考えたから危うきに近寄らなかったのだ」という話をした。

続く

次回から第二部です。

日本バドリオ事件顛末(第五回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 47ページ

 私は日華事変の始まった当時から、陸軍にこの国家が任して置かれるか、何としてでも政権を早く陸軍から奪い返すことが最大の時務であることを痛感していた。そこで国を憂える人々に対して、まず日華事変を早く止めなければならないと説いていた。
 そこで当面する問題は、陸軍を政治から追っ払うこと、これが解決されれば、あとは自然に解決される、困難は他にも色々あるけれども、それは大した問題でない、というのが我々の考え方であった。だから三国同盟については、戦争に巻き込まれる危険を怖れて、私は常に反対しておった。
 陸軍が日華事変を止めたくなかったことは、ドイツ大使トラウトマンの仲裁に応じなかったのを見ても判るし、「蒋介石を相手とせず」もそうだ。もっとも平和交渉に応ずるというゼスチュアだけはする。これを見て陸軍が良くなった、平和論になったと思って、一生懸命努力してみると、最後の土壇場へ行けば必ずひっくり返る、何時でもそうだ、これは近衛さんが切実に経験されたところである。
 その三国同盟の頃、吉田茂さんがイギリスから帰って来られたから、私は吉田さんと旧交を温めた。だんだんと提携を密にして行くようになって、吉田さんを中心に、我々後輩が集まって運動を続けたわけである。
 ここで吉田さんと私の関係を簡単に述べると、無論吉田さんは私よりずっと先輩で、昭和二年田中内閣の時、田中外務大臣の下で外務次官になられた。田中さんはほとんど毎日のように外務省に来て事務をとっておった。私は総理大臣秘書官で、外務大臣秘書官を兼ねてはいなかったけれども、事実上は外務大臣秘書官の仕事もしていたわけで、次官、局長あたりとは密接な関係があった。吉田さんの前の次官は出淵勝次で、これは私の親戚であった。吉田さんはその頃から、極くいい意味の政治家の風を備えておられた。事務官というよりも政治家であった。吉田さんは一つの政治的識見を持っておられて、外交を政治の一環として、進めて行こうという、ハッキリそれを意識して、外交事務ではなしに政治をやる意味で外交をやっておられたのだと思う。それで私は親類である出淵より吉田さんの方が親しみをもって接することが出来た。というのは、吉田さんは最も忠実に田中首相を助けて、田中と一心同体に働いておられた。出淵次官はいつまでも次官で残ってはいない、遠からず米国大使になって出て行くと言うことが決まっておったから、腰掛けの次官と言うところがあったが、吉田さんになって本腰を据えた次官という感じであった。—

2014年3月5日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第四回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 46ページ

 それではなぜ対英米戦争をやる気になったか。あの頃しきりに反英の空気を煽って、反英理論を宣伝したものだが、これはソヴェットにおいて、カール・ラデックが世界に向かってしきりに論陣を張っていた反英理論とそっくりなものである。ラデックはドイツ系の ユダヤ人で、後に粛正されて、あとで寛大な処置を与えられた男であるが、その当時はソヴェットの有力なるスピーカーであった。そのスピーカーの主張通りの主張が日本においてしきりに行われたのである。反英的空気はあってもソヴェットと争う考えは微塵もなかった。陸軍の中には対ソ論者がたくさんいたけれども、その人達はリーダーの位置から皆追われてしまった。皇道派は二二六を契機としてみんな退けられてしまった。石原莞爾なども初めは対ソ論者だったが、後には考えが変わって「東亜連盟論」を書いたりした。これは東洋においてソヴェットを作るということなのだ。ある人は彼はコミュニストであるとはっきり言っておる。なるほど今の左翼の人々は、陸軍とは仲良くなかったであろう。しかしまた陸軍と仲良かった左翼もたくさんおったのである。三月事件前後から陸軍は左翼と非常に密接な関係をもっておった。いかなる人々がそうであったかこのところでは差し控えるが石原はあの当時の統制派の代表者だったから、この連中と特に親しくしていたようだ。しかしその他の連中にしても左翼の人達に対してすこぶる敬意を払っておったようだ。
 そこで陸軍はソヴェットと争うことは絶対に避けた。張鼓峰、ノモンハン、あれは日本の陸軍がハッキリ負けた。それでも黙って引き下がった。ノモンハンでは一箇師団の兵隊を失っている。それでも黙った引き下がった。あの戦争に参加した関東軍の幹部は全部罰を食らっている。北京郊外盧溝橋の銃声一発が日本の軍隊を侮辱したといって、あれほど戦を始めたくらいなら、一箇師団の兵隊を失って何で黙って引き下がる理由があるか。当時は日華事変をやっておったから、両方に的を迎えることはできなかった、ことに新鋭の武器を持ったソヴェットの軍隊を向こうに回すことは到底できないことだった、と言う説がある。しからば日華事変のあの大泥沼に足を突っ込んでヘトヘトになっている日本の軍隊が、なぜ英米と戦ったのか。日本の陸軍は何十年来伝統的に大陸政策即ち北進政策を主張して来た。支那本部に事を構え、更に南方に向かって日本の権益を拡張するなんぞということは、日本の陸軍の夢にも考えざるところである。海軍は平和的南進論を夢見ておったが、陸軍はこれを軽蔑していた。それが突如として南に向かって、大東亜共栄圏ということになった。ドイツのナチみたいな汎独主義のような最初から強調され、その実現に向かって進んでいったというならば南進論もわかるけれども、日本の陸軍はそんなものは持ってはいない。日華事変の後で南進を実行するにおよんででっち上げたものが大東亜共栄圏だ。そこに日本の陸軍が昔の陸軍と大変な相違のあることが看取できるのである。
 彼等はそれからブロック経済論を唱えた。ブロック経済というのは大陸政策であって、南洋のような海上に散在する島々は、ブロックにできるものではない。大英帝国の崩壊を笑ったのは誰だ。大英帝国は本当のブロックではない、海の上の島々を単に頭の上で連結したに過ぎないから弱いのだ、世界の政治の上から消えるのだ、こう言って批評していた日本が、何を好んで海の上にブロックを考えるのか、論理上の矛盾撞着も甚だしいではないか。
 かの日本の陸軍は世界中に優秀なる情報網を持って、ふだんから戦略を研究しているし、戦力の基礎をなす経済力とか政治の状況を知悉(ちしつ)してるはずだ。そのデータを精細に集めて研究しているならば、英米と戦争して勝てるなどと考えるわけはない。そんな馬鹿な参謀達ではあるまい。あるいはナチの赫々(かくかく)たる戦果に眩惑されて、自分自身には大した用意もなし自信もないけれども、ドイツの戦勝に便乗しようと安価なことを考えたのではないか、と論ずる人もある。しかし私はそれも採るに足らぬ説だと思う。ダンケルクでイギリスを追い落とした当時のことならいざ知らず、日本が世界戦争に入ったのは、あれから二年も後のことだ。しかもドイツがソヴェットに対して戦争を開始していた時のことだ。戦史を知っている者ならば誰でもわかる。ドイツという国は、二正面作戦、しかも長期戦争で勝ったためしがない国だ。
 それがわからぬ陸軍ではない。
 彼等は今まで詳述したように、戦さをするための戦さをする。国家の利益とか、国民の福祉とかは、真剣に考えたことはない。彼等は負け戦さを承知の上で、戦争の相手を次々と変え、拡大していく。これほど危険なことがあろうか— これが私の一貫した持論であった。

続く

2014年2月17日月曜日

日本バドリオ事件顛末(第三回)

前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 45ページ

 満洲国の性格がソ連的であることは、協和会などを見てもよく判る。
 日本の陸軍が全体主義であると考えておる人が多かったが、その全体主義は必ずしもナチ的ファッショ的なものではなかった。それは彼等がナチ的であるかの如く装っていただけのことで、実は純粋のナチ的ではない、ナチ的より更に進んだものなのだ。多くの人はナチスとソヴェットを全然異なるもののように考えておるけれども、もしナチスのものをソヴェットのものといい、ソヴェットのものをナチスといって日本人に教えたとしても、多くの人はやはりそうかと思う。その一般の人の頭の盲点が巧みに利用されていたのだ。そういう巧妙でかつ高度な精神的指導は、軍のどういう所でやったかというと、それはもちろん統制派の幹部である。士官学校、陸大を優秀な成績で出て、欧州あたりも視て来ているから、相当のインテリジェンスがあるのは当然だ。
 日華事変というものが起こって来た。不拡大不拡大と言いながら、拡大しつつある。不拡大を唱える人は、陸軍大臣とか参謀総長とか表面陸軍をリードするが実権を持たない人々で、実権を持っている人達は黙々として拡大一方に進んでいる。もし本当に不拡大で行くならば、あるいはあの事変を勝利をもって片付けようと思ったならば、容易に片付け得たはずである。それは飛行機を製造する工場もなし、自動車も造れず、大砲や鉄砲もろくな物を持たない当時の中国兵と、最も近代的な装備を持つ日本の軍隊が本気で戦ったら、勝つも勝たぬもない、日本が勝たないのは嘘である。勝とうとしなかったのだ。何となれば戦争を止めたくないからだ。しかも中国と戦争をしていることが一番ラクなんだ。何時も自分がイニシアティブを持っていて、止めようと思えばいつだって止められる、敗けないんだから何時までだってやっていられる、これほど都合のよい戦争はない。 しかもこれで非常時、自分は傷付く心配のない非常時の大規模な展開、まさに思うつぼではないか。それでいて、いや支那は広いんだとか、やれ地形がどうだとか弁解しているが、そんなことを言うなら、秦の始皇帝や漢の高祖時代の戦争と同じではないか。どういう装備を持っていたか、そんなことは、問題にならぬではないか。全力を出す出さぬの沙汰ではない、まるで近代的の装備など、対中国戦争では用いてはいない。そっくり満洲に取ってある。それをたまたま使ったことがある、板垣征四郎が臺兒荘で敗けた時のことだ。敗けてはならぬから取つときの機械化部隊を持って行ったら直ぐ片が付いた。それをストックしているのである。ストックしている武器なり装備なりが不充分ならば、誰に遠慮することもない、直ちに支那の地形なり状況に適合するものを造り得るはずだ、それを造る努力もしていない、飛行機だって十分に使っていないのである。
 これに対して何等の批評をし得なかったことは日本人の重大な責任だ。軍の為すがままに委せて、彼等の宣伝をそのまま聴従していた、こんな馬鹿なことはない、もし実際中国のあの旧式な軍隊を対手にして引きずり回されてノンベンダラリとしていたというならば、どうして最も近代的な英米を向こうに回して戦さができるか、最も高度な近代工業を持っている、従って最も進歩した武器と装備を携え得る英米を相手にして戦うというのだから、それは相当の自信がなければならぬ、大した自信はないにしてもある程度の自信はあったであろう。つまり日華事変は対英米戦争に日本を巻き込む一つの基盤をなしたものと見得るのである。もしこの日華事変がなかったならば、あるいは対英米戦争を起こす口実が見出し得なかったかもしれない。

続く

2014年2月14日金曜日

日本バドリオ事件顛末(第二回)

前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 43ページより。

 満洲事変にしてもあれは昭和6年の9月18日に突発したものではない。既に予定計画があって、満洲で事を挙げると同時に十月革命を行って、国内に非常時を現出して、陸軍の政治力を伸ばそうという計画であったのだ。
 満洲事変後の満洲を観ると、決して帝国主義的な単なる大陸政策ではない。満洲に陸軍の支配に属する独立国家を作る、しかしてその独立の国家たるや、普通には帝国主義は資本主義の発展したものだと解釈されており、それが満蒙政策となり、満州国が出来たのだと理解されておるけれども、出来上がった満洲国は決してさようではない。日本の資本主義が製造する物資を満洲に販売し、満洲の産出する天然資源を日本の工業原料にする、という形式はあまり考えていない。満洲を満洲自身完全な独立国家としての機能を営ませる、日本と相関関係におくのではない、という構想の下に作られておる。例えば満洲重工業株式会社というのは、非常に高度の重工業で、飛行機も造り、自動車も作る、こんな重工業は帝国主義が植民地に興す事など考えられるものではない。満洲国を原料国にするなら、単に大豆を作り、石炭を掘り、あるいは鉄鉱石を掘るというに止まる、満洲に近代的な工業を興そうとするものがあれば、それを止めこそすれ、進める必要はどこにもない。満洲という完全な独立国家を作って、日本人という仮面を被っておりながら、実は日本人でない、即ち日本の陸軍軍人の支配する国にしよう、更に進んではこの満洲国をもって日本をリードして行こう、別言すれば満洲をテストプラントにして一応熟練して、日本もそれに持って行こうというのが一つ。それから満洲という大きな背景をもって日本における勢力をそれによって維持し発展せしめよう。故に始終にほんから掣肘されない独立の領地を有っていたかった、こう考えることが一番合理的なように思われる。
 そこで日本の陸軍は社会革命を描いた、それを実行するために政権が必要である。政権を獲得し、維持するために非常事態を必要とする。これがだんだん大きくなっていけば、対外戦争になるほかはない。こういう構想が出て来る訳だ。
 しからば満洲事変後、彼等の構想が果たしてスムースに実現したかどうか。満洲国はできた、種々な事業は緒に就いた、しかし満洲国の建設、満洲国内の開発は時日の経過に伴って、次第に非常時的性格を喪失して来た、多くの日本人は非常時とは感じなくなった。同時に陸軍の政治上の声望威力は漸次下り坂に向かっていった、陸軍にやってもらわなくたって、我々でもやれるではないかと一般の政治家が考えるようになった。こうなっては今一遍非常時を拡大しなければならなくなって、陸軍の人達は、未だ非常時は終わっていないのだ、これからが真の非常時だと声を大にして唱えたが、しかしかけ声だけで、一般国民の心理状態は、既に非常時は終わった、平静に戻ったと考えていた。そこで陸軍としては、国内か国外かどこでもよいから何かしら異変状態の起生することが必要になって来る。それ自身については各々目的や動機もあろうが、血盟団、五・一五、神兵隊、これらは非常事態を連続せしめるという一つの大きな構想が作用しているに違いなかった。
 従って我々は、陸軍は今に満洲から手を返して支那大陸で何か始めはしないかという予感があったところへかの二・二六は起こったのである。二・二六を実行した人達は、それまで陸軍をリードして来たし、またその後、太平洋戦争の終わるまで陸軍をリードしておった幹部に対する反抗であった。ところがこの反抗を巧みに活用して自分等の利益にしてしまった。これは彼等が非常に利巧であったからだ。二・二六は若い人達が冷静な判断を失って、気紛れといっては悪いが血気に逸って起こした事件である。それならばその若い人達が、それまでのリーダー達と真正面から反対したのかというと、そうではない。二・二六に蹶起した若い将校達は、いわゆる皇道派であったかのように言われておるが、実は皇道派でもなく統制派でもない、どちらかと言えば気分は皇道派に近かったかもわからないが、抱いている考え方は統制派に近いものであった。ただ統制派はいつでも幕僚を主流とするだんたいであり、二・二六の若い人達は第一線のすなわち幕僚でない将校であった。皇道派というものは、言われているほど有力なものではなかったと思うが、これも革新派ではあった。その意味において通ずるものがあるけれども、事実は革新派の中の最もプリミティブな復古主義者であった。もっとも全部がそうだというのではなく、皇道派と言われる人達の中に非常にリベラルな進歩的な人達もあった。これは表現の仕方は色々あっただろうが、一面リベラリストでありながら、しかも最も古い陸軍の伝統を多分に持ち続けていた人達、好い意味の大陸論者であった。それで幹部派即ち統制派が大川周明に近かったとするならば、二・二六の若い将校達は、北一輝に非常に近かった。ある人はこれを北と大川の喧嘩だと言ったぐらいだ。しかし統制派は必ずしも大川にリードされていたとは思わない、もっと進んだ・・・科学的社会主義の理論にまで進んだものであった。例えば満洲国のやり方を視ても、みんなトラストで行けるというように、ナチスにも近いが、より多くソヴエットに近い考えを持っていた。満洲国にアメリカの資本を入れようとしたのは鮎川義介君たちだが、しかし満洲の陸軍の人達の考えたのはアメリカの資本と同時に資本主義の這入って来ることは反対である。もし日本の資本主義が満洲の開発に協力しないならば日本の資本家は一切締出していっそソヴエットの援助を仰ごうかと考えたものもあったほどである。
 陸軍の中にもアメリカ資本説を持った人もあったけれども、それはカムフラージュであったような気がする。踊ってる人達は一生懸命踊っているのだが、後ろにいて踊らせてる人としては必ずしも本気じゃなかったように思われる。

続く

2014年2月12日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第一回)

近衛上奏文がどのような過程で出されたかの貴重な記録です。
真崎甚三郎グループが近衛文麿を使って天皇に日本の真の危機を伝え、東条内閣を倒すための活動です。
長いですが、ぜひお読み下さい。


文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 42ページより
まだ日本がアメリカに占領されていた時期の記事である。

日本バドリオ事件顛末                 法務総裁 殖田俊吉

 東條内閣を一挙に打倒して和平政権をつくらんとして、憲兵隊に検挙された、当時の「日本バドリオ事件」の真相が明らかにされた。本編は近衛文麿、吉田茂、真崎甚三郎、小畑敏四郎、岩淵辰雄等の諸氏を同志として暗躍した現法務総裁、殖田俊吉氏の回想録である。

 第一部 昭和軍閥に対する私の見解

 私は、田中内閣の時大蔵書記官で総理大臣秘書官を兼任していたが、昭和3年5月張作霖爆死事件というものが起こった。これは日本の関東軍の陰謀・・・大きく言えば日本陸軍の陰謀であった。しかるに陸軍はこれに対して何等責任を負わないのみならず、あたかも責任が田中大将にあるかのごとくに盛んに宣伝して、とうとう田中内閣を潰しておわった。その時のやり方が実に陰険であったので、私は陸軍というものを信用しないのみならず、これを唾棄し批判するに至った。日本の陸軍が真に日本の国防を託するに足るものであるや否や、非常に疑惑をもって見るようになったのである。
 その後昭和6年3月には三月事件というものがあった。これは未発に終わったけれども、やはり陸軍の陰謀である、これを陸軍はひた隠しに隠していたが、やがて我々の耳にも入って来た。続いて満洲事変、十月革命、いわゆる錦旗革命事件、陰謀の続発だ。更にこれは直接陸軍の計画ではなかったかも知れないが、血盟団とか、或は五一五事件、神兵隊事件、みんな陸軍と関係の深い連中がやった仕業だ。二二六は多少類を異にするものではあるが、やはり陸軍の陰謀だ。また小さい事件では、昭和10年夏の真崎追い出し事件や士官学校事件があった。永田鉄山事件は陰謀ではないが、その一連の中に入って来る。これらを仔細に研究してゆけばゆくほど、陸軍の性格がはなはだ信用すべからざるものであることが看取されるのである。
 私はこの陸軍の性格にかんして、日華事変が現れる以前に、一応の結論を得ておった。そうして早晩中国において事を起こすであろうと想像している時、果たして日華事変が発生した。これも決して突如として起こったものではない。既に私どもの頭の中に想定されていたことであって、かねて抱いていた陸軍に対する批判の結論が、この日華事変によって実証されたようなものである。

 陸軍にはかねてから政治を自分の手に掌握したいという考えが潜んでいた。陸軍が政権を掌握するためには非常事態の発生を必要とする。何かのチャンスで非常事態を惹起して、それによって政権を握ることが出来たなら、今度はその政権を維持するため、次の非常事態を必要とする。政権を継続せしめるために更に新たな非常事態を必要とする。かくのごとくにして、非常時は益々拡大し延長される結果となる。
 一番初めの張作霖事件からして、その意味をもって行われたものだと思われる。張作霖事件なるものは、満洲事変の伏線ではなくて、満洲事変の予行演習であった。もしあの事件が計画通りに進行しておったならば、当然満洲事変になるべかりしものである。それを中途で不発に終わらしめたのは、全く田中義一さんの力であった。もし田中さんが圧力を加えて軍を抑えなかったならば、あの時あれが即ち満洲事変に発展したものと考えてよろしい。
 それでは張作霖事件でも、また満洲事変でも、単なる陸軍の帝国主義の発露であるかというと、さように見えて実はそうではない。陸軍は古くからいわゆる大陸政策なるものを持っている。これは陸軍の北進政策、即ち満蒙に発展し、日本海を本当に日本の領土をもって囲まれた海にしよう、こういう考え方が昔からあるので、張作霖事件などは、その実行であるかの如く見えるけれども、これを仔細に検討すれば、決してそうではない。
 第一次世界大戦後、日本も世界的な風潮に感染して、陸軍というものが非常に社会主義的になった。いわゆる社会革命というようなものに、非常に興味を持つに至った。この社会主義的社会革命を革新政策という名で呼んでいた。陸軍の中には色々な種類と色々な段階とがある、ごく通常の形は国家社会主義である、それほどに至らない人は復古主義である、しかし更に進んだ人は遥かに左傾しておった。そこで社会革命いわゆる革新政策を自分たちの手によって実行して行く、それを実行するためには自分たちが政治力を持たなければならない。その政治力を獲得するためには即ち非常時が必要になって来る。これを人為的に作ろうとしたのが三月事件、これは直接政権を獲得しようとしたのだが、直接でなく間接な形でやろうとしたのが満洲事変、これと表裏をなすものが即ち十月革命、すなわち錦旗革命事件であろう。
 三月事件に関連して、宇垣さんの了解或は黙契があったとか無かったとか色々な見方もあるが、とにかくあの時に擬音爆弾三百個を陸軍から大日本正義団に渡した事実がある。これは陸軍大臣のサインがなければ渡せないもので、その時の陸軍大臣は宇垣さんである。しかしこっちの品物をあってへ動かすというような事は大臣がそんなに詳しく知らないでも、「大臣、これにサインして下さい」とい言われれば「うんそうか」とサインするのが常識である。だからそれにサインされたからといって、あの計画に参加していたかどうかはわかるものではない。宇垣さんは、自分はそうでなかったと弁明をしているのだ。とにかくあの計画を実行しないで中止された。それは主として小畑敏四郎大佐、真崎甚三郎中将の反対があったためだ。宇垣さんは計画の内容をご存知かどうか知らぬがこれを実行を中止するのに不賛成な道理はあるまい。しかるにその結果は如何なるわけか宇垣自らこの計画を裏切ったんだという印象を若い統制派の連中に与えたもののごとく、彼等はそれならば今後宇垣内閣の成立を妨害するという考えになったというのだ。この辺の経緯は相当複雑に考えなければならぬ。世間では宇垣内閣の妨害は軍縮問題が原因だと想像しておるが、しかしそれは実際に即しておらぬ。三月事件を裏切ったから宇垣内閣を妨害するといったのでは世間が承知しない。第一、三月事件はうやむやにしてしまったのだから、世間にわかりやすい軍縮問題を理由にしたのである。そこに陸軍の連中のいかにも奸知に長けた所を見るのである。

続く


2014年1月18日土曜日

日本の復活

日本の復活において、共産主義者との戦いでの勝利が不可欠です。
皆さん頑張りましょう!
名護市長選挙、東京都知事選挙ともに思想戦、情報戦です。