2014年10月23日木曜日

非常時局読本(第十五回)「自由主義の発達と日本精神」

 今回は自由主義と日本精神の違いについての話です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

83ページより

十五、自由主義の発達と日本精神

 次に個人の完成、個人の利益を至上と考える者がある。それをもって正義なり人道にかなっていると考える者がある。そうなると所謂個人主義が起こり、利己主義ともなる。それが所謂今日の自由主義の元である。これは所謂個人の完成、個人の利害を基調とし立った思想であるから、唯物至上主義であり「花より団子」主義である。また自分の利益のためには「長いものには巻かれる」主義である。また臭いものには蓋をして都合よく世の中を渡って行こう、また物を独占したいというのが自由主義の持ち前である。自由主義が日本に来たのは主として明治維新後である。明治維新に於いて志士達が尊王攘夷王政復古でもって幕府を倒したけれども、真の王政復古にはならなかった。そこで何のために御一新かと言うので奮起したのが、神風連の乱であり、佐賀の乱であり、鹿児島の乱であるのである。そうして十年の役に於いて日本精神の権化である大西郷が倒れて以後というものは所謂自由主義が日本に於いて跳梁をし始めた。流石に偉い岩倉公あたりでも外国の文化に迷わされて、そうして外国の自由主義の文化を基調とする総ての機構を日本に取り入れて所謂議会中心主義になる因を作った。ただし明治時代には機構は外国の自由主義文化を基調とするものを輸入せられたけれども、それを運用するものはまだ日本精神を持った者が多かったために、その弊害が比較的少なかったのである。しかしながら欧州大戦というものは段々進展して来て、デモクラシイとなり、また真っ赤なマルキシズムとなって、非常に盛んに社会主義を輸入した。そうして当時は軍人中にも自由主義でなければ戦は勝たぬように思った者が出て来た程である。つまり世界大戦に於いては自由主義たる連合国側が勝った、それでドイツは自由主義国でなかったから負けたように考えたのである。(今日はドイツが威張って来たからその真因は極めずしてファッショに心酔する様になって来た)かくの如く軍人の中にさえ赤くなった者があって、国体明徴どころではなく、また真面目な軍人中にも何故に忠義を尽くさなければならぬか等という疑問を発して現に私に聞いて来た人さえあったのである。最も真面目であった軍人までがそういう風な思想に迷うような状態になって来たのである。迷う人は未だよろしいが、中には迷わずにこれが本当に正しいと信じきっておった者さえある。そういう随分危険な時代があったのである。
 またカントの新学説というものが日本に輸入された。その時代には文化というものと、武というものとは両立しないかのように考えた軍人も沢山おったのである。そうして国体を忘れて所謂国体なき国に発達したところの思想に基づいて唱えられた、彼のウイルソンの正義人道主義にかぶれて、前述の如く日本の 陛下に忠義を尽くすことが正義人道に適っているかどうか、というような議論をする者さえ出て来た程である。国体を考えずによくこれを理解せずに人道観に捉われ正義感に堕するとかく脱線する。実に危険な時代があったのである。さような場合には力の限り一生懸命になって、建国の理想信念から説き起こし、この理想信念は前述のように宇宙の固成生成化育そのままの真理であるから、これを外にしては正義もなく人道もない事を良く述べたが、なかなか一度や二度では完全には分からない。今頃でもこれに似通った質問をする人がある。マルキシズムが何故いけないか、それははっきり一遍説明して下さいと言う者があるが、しかし近頃は私は直接問題を説明せずして血の中にある日本精神即ち人間の赤心を喚起せしむる様にしている。いやしくも人間が自分の親に孝行を何故せねばならぬかという疑問を持つ様になったり、また日本に生まれた者がなぜに君に忠義を尽くさなければならぬかという様な疑問を持ったりする様になった時は、その人のその時の心理は獣以下になっているのである。人間は修養の積んだ者は神様に近き心理状態になっているが、修養を全くしていない者は忠犬ハチ公以下の心理状態になっている。犬にも劣る心理状態であるのである。その獣より劣っている心理状態の時に、何を言っても聞かした所で、とても分かる道理がない。所謂猫に小判である、馬に念仏である。しかしながらまた時が経って人間の心に帰る時が来るのである。その人間の心に帰った時に話せば分かるのである。それが獣と人間との異なるところ、また外国人と日本人との異なるところである。外国人には真の忠義は解しかねるが、日本人は時が経てば自然に分かって来て本心に帰るのである。以上の様な思想状態に反発的に起こって来たのが今日の右翼である。大体日本の自由主義はこの様にして発達して来たのである。
 さりながら自由主義の自由と人間の高級の自由というものとは区別して考えなければならぬ。高級の自由は人間には絶対に必要である。自由主義の自由というものは社会の束縛から逃れたい、自由放縦なる自由というものが多い。すべての権力の束縛から脱せんとする、故に無政府主義もそれから出て来るのである。自分さえ良ければ人の邪魔にいくらなっても構わない様になる。極端に自由なる社会の様式は猛獣の社会となる訳である。自由主義の中で一番害を流しているのは資本主義である。即ち金を儲ける事の自由、どんな事をしても金を儲ける、またこれを貯える事の自由、しかして最後には金を利用する事の自由である。どんな事でも金で解決しようとする、この点で政治を腐敗せしめ、世道人心を害した点は実に大なるものであります。しかして前に申した様に人間には高級の自由即ち真の自由、孔子の所謂「意の通りに行って規を喩(こ)えず」(註 心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず)という自由ならばなくてはならないのである。もしこの高級の自由もいけないと言う事になると人間は機械となり羊の群れとなる訳である。だから実際の問題になると自由は統制との限界を何処に求めるかという事が問題であって、これを適切に実行して行くのが政治の要諦であると考える。軍隊の名指揮官といわるる者は、各級指揮官は素より一兵卒に至るまで、その者の全能力を発揮せしむる様に、自由に手腕を発揮しうる様に、各自の思う存分に天賦の能力を発揮する様にしてやって、しかしてそれが指揮官の意図に合する様に指揮統率をする、これがため、平素よりこの目的に合致する様に教育して置いて、いざと言う時には一令をもって全部が共同の目的に合する様に動かすのである。これが一番名指揮官である。軍司令官が一々一兵卒に至るまで、地物の利用までも教えておっては戦は負け戦であり、そんな指揮官は軍人として三文の価値もない事になる訳である。
 これと同様に政治家というものは、やはり人民をして天賦の能力を思う存分に発揮させて、その働きが国家発展の目的に合する如く、日本に於いては皇運扶翼の目的にそうように指導して行くのが名政治家である。各自の天賦の能力を殺しては決して総体としてその能率は上がらぬ、個性を余計に束縛するほど下手な政治家である。そのためには一国の政府も軍部と同様に常に平素より緩急ある事を予想して常住座臥公に奉じ得る様に計画し指導して置くべきである。もちろん国家全体は軍部と同様に全部を考える訳には行かないけれども、平素よりその考えをもって計画し指導をしていれば、計画と統制を間違えてはならぬ。愈々戦時になったからと言って、急に慌てて統制統制といわなくてもよい訳である。それにはまず平素より思想の統制が何よりも必要で、これができておれば前にも述べた様に余りの事はこれが派生事実に過ぎぬから、自然にその思想の目指すところに結果は統一されて来る訳で、法で統制せず精神的に統制せらるる訳である。軍事はご承知の通り平素からこれを考えてあるから戦時になってやたらに統制統制といわなければならぬ事はないのである。しかして実際問題としては極端なる統制も国を亡ぼし、また極端な自由も滅ぼすのである。そして程のよい指導精神が日本精神である。立法をするにもまた法を運用して行くにも、日本精神をもって立案運用して行くのと、権力至上主義や法律中心主義の精神をもって実施して行くのとは、その結果に於いては大変な差である。最後に注意すべきは自由主義も権力至上主義も共に物の独占に陥る点である。


 今現在も自由放任主義に近い自由主義、強欲資本主義とそのアンチテーゼの「サヨク」思想が日本人の精神を荒廃させています。これらの思想は人を幸せにしません。何とかこの思想の乱れを正して、日本人が「幸せ」を実感出来る社会にしたいです。