2014年5月18日日曜日

非常時局読本(第四回)「思想病を認識せざる日本人」

日本精神とは何でしょう。今の日本人にあるのでしょうか。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

17ページより

四、思想病を認識せざる日本人

 斯くの如くに思想というものが政治的にも軍事的にも、また日常生活の上にも重大なる意義を持っておるに拘らず、なぜこの研究を疎かにして置いたかというと、その原因は二つある。一つは今まで思想の研究をした人は殆ど左傾者が多かった、殊に世界大戦後は自由主義は更に激化してデモクラシーが盛んになり、更に学生達の大部分は赤化思想にまで捉われるというような時代になり、思想を研究する者は大抵左の者であったのである。そこでこの自由主義者、現状維持派は思想を研究する者を目して十把一束に危険人物のように解釈した傾向もあったのであるが、これもまた一面無理からぬ道理もある。しかしてこれでは日本は到底駄目だと、それに対して反動的に出て来て愛国的に働いた者、いわゆる右翼として進出した者も、やはり十把一足に取り扱われている。もっともその中にも過った者もあったけれども、真の愛国者までもその悪者の中に数えられる様に混乱状態に陥ったのである。そういう訳で思想研究者というものは寧ろ悪いことでもする様に思われる傾向が大であったのである。これが一面日本人が思想的に非常に遅れている理由であるけれども、根本はあまりに我が国の国体が有難すぎて、思想についてはこれまでも一つも悩んでいない、鍛えられていない所にあるのである。
 我が国はいわゆる万世一系の御皇室を戴き、その国体の本義を基調とする大義名分というものを建国以来突き通しているので真の国難に遭遇していない。歴史を見ればいわゆる世に汚隆なからんやで、時に多少の動揺はあったが、それは橙に例えればその面の皺のようなものであって、橙は依然として円形を保っている如くに、多少の曲折はあったが、大動脈というものは一貫して来ているのである。本当に国礎を危うくするようなことは起こっていないのである。そのために外国人ほど思想的に鍛えられていない、あたかも富豪の坊ちゃんが浮き世の辛酸を知らず、浮き世の荒浪を知らないで育ったのと同じように、本当に物の有難さも知らなければ金の有難さも分からない、そうして遊女の手練手管に掛かって翻弄されて遂には身を滅ぼし、家産を蕩尽するというような状態に思想的にはあるのである。余りに国体が有難すぎて、それで思想的に辛苦していないで油断をしている、全く隙だらけである。そこに外国の思想的あばずれ者が巧みに侵入して来て、思想的に富豪貴族の坊ちゃんたる日本人を手玉に取って弄び物にしてしまったのである。それでもなおそれに気が付かなかったために遂に思想的に破産状態に陥ったのである。

これからどんどんおもしろくなります。
つづく。

非常時局読本(第三回)「欧米模倣と日本精神の喪失」

 第三回です。人の思考の根底に「思想」がありますが、普段私たちはそれを全く意識せずに生きています。「皇道派」(二二六青年将校を除く)の人達はこの「思想」が大切であり、西洋の国家社会主義、ルソーやマルクスの思想、過度な自由主義思想に対しても、危機感を持っていました。これらは現代にも繋がる問題です。一緒に考えてみましょう。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

11ページより

三、欧米模倣と日本精神の喪失

 誰も自分は日本精神を失っていると自分で考えている者は一人もないであろうと思うが、しかしながら良く詮索してみると、本当に日本精神に目覚めている人は実は甚だ少ないのである。それは従来の教育の仕方も大いに悪い、国体の本義を明らかにする事に力が足らず、また交通の発達や通信の便宜のために外国の影響を受けた所も大いにあって、建国の本義に即する即ち宇宙の生成化育の原理に則る日本精神を真に理解し体得しているものは少ないのである。
 かくの如く日本人は日本精神を忘れて外国かぶれしているのに、実に面白い皮肉な事には、日本人の大部が御師匠さんの様に尊敬するドイツのヒットラーはあのように自分が成功してみると、いつまでも今日の隆盛を続けて行きたいというのが人情であるから、どうすれば今の隆盛を続けて行かれるか、これがためにその根本の指導原理を知りたくなって、彼の股肱の臣を日本に派遣して日本精神を研究さしたという事である。これは誰が考えても世界を見渡したところ日本以上に永遠に栄えて行く歴史を持つ国、即ち指導原理を持っている国はないのであるから、先ず日本を手本にしようと考えて日本に使者を派遣したのは当然である。ところがその報告の中に「現代の日本人には日本精神無し、ただ歴史の中には日本精神がある。即ち日本人の血の中にはまだ日本精神がある」ということを言っているそうである。かくの如くドイツのヒットラーは日本精神を研究して、日本の指導原理を真似したいと思っているのに、日本人の方はドイツの指導原理を学ぶとい今日の非常時が解決されて行くかのように考えている人がたくさんあるようである。日本人には何でも外国のものはよく見える癖がある。明治維新後外国模倣を主としたために外国のものとさえ言えば何でもよい様に考え、上等は舶来だと合点しておったからであろうが、実はその点が日本に非常時を招来し世の中を混乱に陥れている所の有力なる一つの原因だと確信する。もっともヒットラーの使者は本当は日本精神というものが、どういうものであるかということは、真には到底認識は出来なかったであろうと私は思う。ただ日本に来て調べてみたが、何処を見渡して見ても特別なものはない、皆外国同様のものばかりである。何等今日の日本には特長はないから、これによって、今の日本人には日本精神はないということを報告したものだと考える。本当の国体の尊厳建国の理想から発達し宇宙の生成化育の真理そのものを理想とし信念とし、義においては君臣の差別あり、情においては父子の関係にて無差別の心境にある日本精神を解する者は、前に述べたように日本人中にも少ないのであるから、外国人には本当に理解する事は中々難しい事と考える。とにかく日本が全く外国化したという報告は、それは偶然にも日本の現状につき穿ったことをいっていると考える。これは我々に取って何処までも頂門一針であって、大いに鑑みなければならぬ点であると信ずるのである。
 またかつてフランスの新聞記者が数年前に日本の国情を調査して、日本の現在の指導原理は何処にあるのか一向に判らぬ。この分で日本が進んでいると日本は共産主義の国になるのじゃないか、あるいはファッショ国になるのじゃないかと、非常に疑問を持って首を捻って研究をしたそうであるが、この人は日本の当時の指導原理は一つも分からぬけれども、明治天皇が軍隊に賜ったところの御勅諭が日本の指導原理となっているようだと、こうく報告をしているそうである。かくの如く外国人の方が日本の特異性について非常に注意しているのである。一体思想というといかにも抽象的のものであって、それが火花を散らしたり戦争の原因になったりするかと考えるけれども、思想の衝突即ちそれは文化の衝突融合であって恰も陰陽の電気が合して火花を散らすのと全く同じような現象が起こるのである。一体思想というものが人間の基であって万事の基礎をなし考え方を指導し或は行いの基調を支配しているのである。故に思想のない者には指導原理はない、また批判力もない、理想も信念もない。今日新聞を読んでも、或は各種の出来事を見ても、思想のない者は正しい判断がつかない、正しい理解が出来ない。そこが非常に危険な所である。これを艦船の運航に例えて言うと、いわゆる思想というものは恰も艦の操艦術や舵のようなものである。そこでもし艦に舵がなくまた艦長や船長が操艦の術、あるいは如何なる進路を進むべきかということを知らないで、漫然と船に全馬力をかけさせて、全速力を出して走って行ったならば、船は直に 擱岸、座礁、大衝突の運命になることは、すぐ想像のつくことである。しかも機関の馬力が大なれば大なるほど、速力が早ければ早いほど、その損害は大きいのである。自動車について考えてもその通りであって、運転手が操縦術を知らないと、その自動車の機械の馬力が大きければ大きい程、速力が速ければ速い程、その事故の大きいことは見やすい道理である。それと同様に一国の舵を取る所の首脳部、政治家が思想について正しい認識がないということになると、その結果は国が直ちに非常時になるという訳である。国内数次の不祥事の原因も、また今次の戦争の原因も、帰する所は首脳部を始めとして有識者に思想の分からないというところに非常時の真の原因があるのである。言い換えると真の日本精神を理解せざる者あるいはこれを失ったという所に、今日の非常時の原因があるのである。

次回に続きます。

2014年5月17日土曜日

非常時局読本(第二回)「露支侮日の遠因」

 大東亜戦争とは、欧米の自由主義、共産主義と日本精神との思想戦だった?!共産主義者が暗躍し、国家社会主義者が踊らされ、自由主義者は抵抗出来ず、日本精神の一般人は戦場で散った?今も思想戦は続いています。
 歴史とは過去と現在の対話です。
 ぜひ、お読み下さい。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

6ページより

二、露支侮日の遠因

 今次の戦争の原因について考えてみても、決してこれは盧溝橋やあるいは柳條橋の鉄道爆破あるいは支那人の暴戻なる不法射撃というようなもののみに因って始まっている訳ではないのである。単にそれのみに依って戦争が始まるものであったならば、先般の張皷峰事件などは疾くに日ソ戦争になっているべきはずである。これは一口に言うと時の空気即ち勢いが支配するのである。しからばその時の空気あるいは勢いは何に依って出来るかというと、その時の人の思想、主として国の首脳部たる者の思想に支配されて出来るのである。そこまでよく認識しなければ真の戦の原因を知る事は出来ない。真の原因を知らなければ、適切なる対策も考えられないのである。適切な対策がなければ、聖戦のの結末を正しく解決する事も出来ない相談であって、それでは東洋永遠の平和どころか国内の安泰さえ保持し得なくなる次第である。
 この度の事変の如きは私共は実は大正十年頃から、どうしてもこの一戦は避け難いものだと言う事を予想して心配しておったのである。それで度々当事者に報告もし、注意を促したけれども、万事が欧米万能時代にしてロシアや支那の事は一切馬耳東風に附せられて顧みられなかった訳である。しからば大正十年頃になぜこういう戦が起こる必然性があると考えたかというと、それは例のワシントン軍縮会議時分であったが、あの自分から俄にロシア人や支那人が日本を軽蔑し出したのである。私が使っていた極詰まらぬ支那人さえ、ワシントン会議で主力艦が五・五・三の比率に決定せられた時に私に対して「日本は大きな顔をして支那やロシアに向かって威張っているけれども、アメリカやイギリスの前には五・五・三じゃないか、頭が上がらないじゃないか、弱い者だけには大きな顔をしているじゃないか、もう日本は駄目だ」という事を朝飯を食っておる時に言ったものである。また当時ロシアの「ゴーロスロヂヌイ」(祖国の声)という新聞には日本の外交は東京でなくて、ワシントンで行われている。即ち政治の中心がワシントンにあるというようなことまで書き立てたこともあったのである。そういう風に日本ももう駄目だという考えをつまらぬ支那人やロシア人にまで持たした以上は、日本は駄目じゃないかということを彼等に新たに示さぬ限り将来ロシア、支那において日本人は何も仕事は出来ぬことになる。即ち日清、日露両戦もシベリア出兵も何のためにやったか分からぬことになる。これでは大変だと私は非常に強く心肝に銘じたのである。日本人の中にも一人一人では支那人やロシア人に負ける者がたくさんあるから、駄目でないことを示すには我が国体を基調とする全国民のその団結力に成る大なる力を以て彼等に一撃を食わして反省を促さなければ、このままの和平交渉では徒に彼等を増長せしむるのみであると考えたのである。また彼等はその時分から日本人の思想も大分赤化してほとんど胸の辺りまで真っ赤となって来たから、日本を崩壊に導く事は唯時機の問題だ等と言っておった者もあり、昭和の初め頃には日本の軍隊の赤化工作も略略目的を達した等と、彼等の密偵達の報告にも
あり、また新聞の記事にもあったのである。
 次に愈々第一次ロンドン会議が行われるに及んで、益々彼等は増長して軽蔑し始めたのである。斯くの如く彼等は日本人よりも却って著しく日本人の思想の動向や内部の情勢について注意し常に一喜一憂を感じておったのである。今回の事変の数年前支那人中には日本人の特徴である国体観念につき既に昔日ほどでなく、従って国民の団結力もさほどでなく、恐るるに足らずとして軽蔑的の言葉を弄していた者もあったのである。以上に依って明らかなるが如く今次事変の原因は、一口にいうと欧米の自由主義ないし共産主義と日本精神との衝突であり、特に日本人が日本精神を失ったという所に帰着するのである。それであるからこの事件を解決するためにも先ず日本人が日本精神に還るということが何よりも先決問題であり、何よりも重大要件であるのである。

次回に続きます。二十六回の連載の予定です。お楽しみに。

2014年5月15日木曜日

非常時局読本(第一回)「近代戦と思想戦」

 私が好きな真崎甚三郎大将の弟の真崎勝次海軍少将による著書である。真崎勝次少将は海軍の中で思想問題を研究されていたほとんと唯一の人である。ロシア革命当時はロシアに駐在武官として滞在し、共産主義の何たるかを熟知されていた。大湊要港部司令官だった昭和11年に二二六事件が起こり、兄甚三郎大将が冤罪で捕縛されたのと同時にやはり青年将校に激励の電報を送ったという嘘によって、予備役にさせられた。
 この「非常時読本」は昭和14年に発行されている。内容が今でも通用する内容だったので、ここに連載し、多くの人の目に触れたいと思う。この本は終戦前はおそらく陸軍によって広がるのを止められ、戦後はGHQによって図書館からも回収されている発禁本である。この本を読んだ事がある人は日本でも本当に少ないのではないかと思う。
 私は古本屋から購入したのだが、表紙はかなり劣化し、開くたびに破けているので、裏は絆創膏だらけである。この連載が終わる頃には本当にぼろぼろになってしまうのではと心配している。
 皆さん、ぜひお読み下さい。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

一、近代戦と思想戦

 近代戦の特徴が武力戦の外に思想戦であり、外交戦でありまた経済戦であるということは、今日では皆異口同音に唱えておるところであって、今更どうどうを要せない所である。しかしながらよく詮索してみるとこれは何も今日に始まったことではないのであって、昔から名将といわるる人は必ず武力戦を有利に進展せしむるためには、いわゆる思想戦も外交戦も経済戦もこれと併行して実行しておるのである。例えば徳川家康公の大阪城攻略にしても、直に武力をもって落としてはいない。また敵方に回りそうな者に対しては人質を取ってその死命を制するような手段も採っている。支那においては合従連衡の謀略が盛んに行われ、またヨーロッパにおいてもパルチザン戦その他後方撹乱の手段が行われて有利に兵戦を指導して行くというようなことは古来盛んに行われているのである。ただ昔は武士という特別な人のみが戦争に従事しておったので、真に国民の総力戦でなかったために、思想戦も外交戦もあるいは経済戦も今日程戦争に対し重要なる役割を演じていなかったに過ぎないのである。しかして更に突っ込んで考えると、思想戦が近代戦の特徴であるいうよりも寧ろ近代戦は思想戦そのものだと解してよいくらいである。即ち兵術そのものを左右し、外交を支配し、経済を指導し、また戦争そのものの原因をも作っているのであるが、この点については未だ研究の足らない所が多々あるのである。しからば思想がどういう風に兵術そのものを変化せしめ指導しているかというと、一例を挙げれば、孫子も戦争をするには五つのことが一番大事であると申している。即ち第一に道ということを挙げている。その道とは今日でいういわゆる大義名分、戦の旗幟であってこれが一番大事であると言っている。次に時、いかなる時機に戦うかということ、それから地の利、つまりどういう所で戦うかということ、その次には将を選ぶ事の大事である事を説き、最後に法という事を挙げている、法とは今日でいう戦術である。しかしてこの五つの中何の点に重きを置くかということは、その時の政府首脳者や軍の統率者の思想によって変わって来るのである。一番大事な大義名分を忘れて、無闇に地の利や開戦の時機ばかりを焦って戦を始める者もあり、大義名分が立派でなければ戦争をせぬ者もあり、また戦争の時機も土地柄も構わず戦術さへ巧みにやれば勝つと思って無理に戦を指導する者もある。それらは全てその時の当事者や首脳部やないしは一般の思想によって決定されるのである。
 更に詳しくいうと、いわゆる、正攻法を重んじこれを主として戦をするか、または奇襲を主体として戦うかというような事もその時代の思想に支配せられているのであって、これを相撲に例えていうと四つに組むことを建前として取り組み、敵に揚げ足を取る時機があったら気を逸せず揚げ足を取るという風に奇襲を副手段として戦うか、或は奇襲を主として、即ち揚げ足取りを専門にして戦うかというような根本の考えの持ち方も、全てその人の思想によって支配せらるるのである。かくの如く思想そのものが時代の兵術の様式も、または国防そのものの観念様式も、あるいは建艦の様式も、即ち主力艦を主とするか、潜水艦や飛行機に重きを置くかと言う事も、また軍隊の教育も編制も訓練の仕方も全てこれが支配を受けるのである。
 外交にしても同様であって、現に防共協定などといって、(実は絶対的見地に立ち滅共協定でなくてはならぬ)これを現代に日本の外交の枢軸であるかのように言っているごとく、明らかに思想が中心になって外交が行われていることは既に周知の事実である。またその樽俎(そんそ)折衝の方法にしても、やはり思想によって変化する。即ち誠実にやるか、自主的にやるか、或はペテン外交をやるかと言う事も皆思想の支配を受けるのである。
 次に経済の如きももちろんである。即ち自由主義の下における資本主義経済、あるいは共産主義の下における極端な国家管理、統制経済、あるいはファシズムの下における全体主義というような訳で、思想そのものが完全に経済の形態原則を支配しているのである。斯くの如くに思想そのものが戦争を支配し、兵術を支配し、外交を支配し、経済を指導しているのであるから、近代戦の特徴は武力戦の外に思想戦、外交戦或は経済戦であるというよりも、寧ろ近代戦は思想戦だという言ってもよいくらいであるのである。


2014年5月14日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第十一回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 54ページ

 その話が梅津から陸軍に洩れたために、これは大変な陰謀だと陸軍は感じたらしい。そこで直ちに陰謀団を捕まえよということになった。この陰謀団については、かねて彼等は内定済みであるから、近衛とか、吉田とか、岩淵とか、私なんかを一網打尽にしようと思ったのであろうが、いろいろな事情で全部は捕まえなかったわけだ。これは小磯内閣の時で、これを知った陸軍の兵務局と軍務局との両方で、直ちに捕えようという案を出した。その時は杉山元が陸軍大臣で、杉山は若い連中の言いなり次第になる人であったが、これには署名しなかったそうだ。あまりに重大なので、自分が責任を取るのが嫌だったのであろう。それで一ヶ月以上もたつうちに小磯内閣が退陣して鈴木内閣になった。その機会に陸軍大臣が阿南ということになった。阿南という男は正直な人だから、陸軍の強要に遭って、真っ正直に受け取ってサインしたのだろうと思う。

 この間も、吉田さんと会った時、この時の話が出て、吉田さんも「どうして、奴等は我々を殺さなかったんだろう。闇から闇へ葬ることだって、あの時ならできたのに・・・」と言ったものだ。それをしなかったのは、やっぱり戦局が非常に悪く、それをする程の意志力がもう、軍になくなっていたのだろう。もっとも証拠は何もない。私達は別段、紙に何にも書いてない。電話なんかは聞かれているかもしれないと、これも用心している。内容のある話を電話でしたことはない。ただ、いつ何日に誰と会う、こういう位のことは話した。それは全部彼等に取られていたけれども、その外具体的なことはなかった。東條内閣の倒閣運動をどうしてやったか、などと訊ねる位で、あんまり大きな収穫は彼等にはなかった。
 拷問はもとよりしなかった。非常に丁重ということもないけれども、手荒なことはしなかった。もっとも岩淵君なんか、三晩位寝かされなかったことがあるそうだ。つまり彼等はわれわれを目して、吉田茂陰謀団という見方をしていたらしい。また事実、大陰謀団であったのだ。われわれは実はいろいろのプランを持っていた。近衛さんに大命が降下する。その晩のうちに、真崎陸軍大臣と近衛総理大臣と二人だけの親任式をやり、宮中を退出せずにそのままかねてのプラン通り、用意しているリストに依って、陸軍省、参謀本部の首脳部を一遍に首切って、予備役に編入してしまう。参謀総長も次長も、陸軍省の軍務局長も兵務局長はもちろんもっと下の奴から、憲兵司令官まで全部予備役にしてしまう。そして、「近衛はどうしたんだろう、大命が降下して宮中に入ったはずだけれども出てこない、どうしたんだろう」と人々が言っている頃には、スッカリ首切りが終わって宮中を出て来る。翌朝になれば近衛一連隊を指揮して、予備役にした主な将校の家を包囲して逮捕もし、家宅捜索をしよう。そして国民になぜかかる断乎たる処分をしたかをハッキリと声明して、出先の各派遣軍に向かっても事情を明らかにしよう。陸軍の粛正が終わったらば、更に次の工作に移ろう。こういう構想を持っておった。いわば夢物語みたいなものであったからかも知れぬが奴等は一向に気がつかなかったらしい。もっとも我々の側でもこんな細かい具体的な問題は小畑君や岩淵君や私の如き参謀連のテクニカルな問題として考えられておったに過ぎないものも多かった。
 いずれにせよ、憲兵が毎日毎日愚にもつかんことを訊くのだ。それで「どうせ、あなた方はわれわれが嫌いなんだろう。いっそ死刑にしたらどうですか」と言った。そうしたら「死刑にしたいんだ。しかし法治国の悲しさ、それが出来ない」と言っていた。
 憲兵隊では別々の留置場に入れられて、しかも他の人と混みだから、混雑しておったし、食い物も悪かったし、シラミがいっぱいいるし、着て寝る毛布も枕もない。ずいぶん惨憺たるものであった。十八日ばかりそこにおってから、手錠をはめられて代々木の陸軍刑務所へやられた。そこへ行ったら、吉田さんと私は隣り合った独房へ一人ずつ入れられ岩淵君は独房がなかったので混みであったけれども、人数の少ない、割り合いに善良な奴と一緒におかれた。優遇されたわけだろう。ところが五月二十五日の空襲で刑務所が焼けたので、その夕方逃げていた代々木の練兵場から、東横沿線の都立高校という駅のそばにある八雲小学校、そこが仮の陸軍刑務所になって、そこに五日ばかりおって、仮釈放ということでトラックに乗せられて帰されたのである。
 吉田さんの家は二十四日の晩、岩淵君と私の家は二十五日に焼かれた。帰って見たら、家には誰もいなかった。それまで何にも連絡がなかったので、これは家族はやられたかなと思っておった。万一やられていなければと思いつつ、帰って見ると予期の如く、全部やられていた。その時長男は兵隊に行ってるから家にはいないと思っていた。ところがそれがその日に帰って来て、家族と一緒に逃げたが彼だけ助かって、ほかの者はみんな全滅したのである。悉く私の責任であって死んで行った者に対して何とも申し訳が無い。(了)

 
 以上が近衛上奏文に関わった人達の動向です。皆さん、少しは参考になったでしょうか?
 次回からは真崎甚三郎大将の弟勝次少将の「非常時局読本」の連載を始めます。戦前は陸軍、戦後はGHQがこの本を隠蔽しようとした「幻の本」です。お楽しみに。

2014年5月11日日曜日

日本バドリオ事件顛末(第十回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 52ページ

 近衛さんはこれより二ヶ月ほど前の昭和二十年の二月十四日拝謁されたのだが、その前から何時拝謁されるということは、われわれ同志の間では知っておった。いよいよ拝謁をして、お話を申し上げて、こういうことを申し上げたんだ、ということを知っておった。近衛さんにお目に掛からなくても、チャンと知って居った。それをわれわれの目的への一歩前進ぐらいに思って喜んでおった。それを陸軍が嗅ぎつけてわれわれを捕まえたのだ。ということが判った。問題の焦点は明らかになったから、私は非常に安心した。その晩は留置場の自分の室に帰ってから、グッスリ睡ることが出来た。
 その近衛さん上奏というのは、岩淵君が“世界文化”に「近衛上奏文」と題して出している。あれは私の書いたものではない。私の書いたものはもっと長いもので、もっと詳細に深刻な言辞を連ねてあるものだ。しかし、近衛上奏文も近衛さんが私達からいろいろな話を聴いていて、われわれの主張の線に沿って、自分で書かれたもので、非常によく出来ているものだ。
 近衛さんは上奏される前の晩、平河町の吉田さんの邸へ来て泊られた。翌日吉田さんの自動車に乗って宮中に行き、拝謁して帰って来た。非常に久し振りに拝謁して、その結果は近衛さんとして意外だったらしい。
 近衛さんは陛下の御信任が全くなくなっていると思っておった。私共がどうしても近衛さんが出なければ駄目だと言っても、出ようという意思表示はされなかった。「私は駄目ですよ、駄目ですよ」と言っていた。それ故に私たちのプランの中に小林さんが登場したり、宇垣さんが登場したりしたものだ。なぜ近衛さんがウンといわないかといえば、陛下の御信任が自分を去っている。だから、到底大命が降下するこはない、と考えておったのではないかと思う。しかし、それは近衛さんの錯覚であって、陸軍の近衛さんに対する信望が全くなくなっておったことを、陛下の信任がなくなったと混同して考えておったと私は思う。しかし、そういうふうに見えるくらいまでに、陸軍は陛下の聖明を覆うておったのである。
 その上奏文は近衛さんが湯河原で自分で書かれたものだそうだ。罫紙に約十枚ばかりのもので、それには、ロシアは信頼ができません、ロシアはこういうふうな不都合なことをやっております。日本の陸軍というものは陰謀の府であります。これでは正しい政治は絶対に行われません、戦も出来ません、というような趣旨が書いてある。終戦後に考えても、実に立派な上奏文である。
 その拝謁になるまでの道筋が面白い。私たちは政変があったら、小林さんを登場させて、小林さんによって上奏させようと思っていたが駄目になった。それからは政変の時に限らず、誰か拝謁して上奏できればいい。その任に当たる者は近衛さん以外にない。そこで近衛さんに、拝謁して陛下にいろいろ申し上げてもらいたい。と言っておったわけで、それから近衛さんは拝謁したいということをお願いしておったのだろうが、宮中は用心堅固でなかなか拝謁が出来ない。恐らく木戸君が侍従長の所で押さえている。公の職務のある人以外は拝謁が出来ない。何事でも政府及び軍部以外の声をお耳に入れない、という事にしてしまった。近衛さんは第三次近衛内閣を退陣した時以来殆ど拝謁しておられない。御会合の時に、大勢と一緒に集まるようなことはあったかも知れんが・・・
 ところが、たしか十九年の終わりだと思うが、牧野伸顕伯が、夫人が亡くなられて、その喪が過ぎてから、忌明けの御礼というものに参内された。そして東御車寄へいって忌明け御礼の記帳をされた。そこへ木戸君が出て来た。多分、牧野さんが見えたと連絡があって、すぐ内大臣府から出て来たものと見える。そこで、「今日は非常によい時においでになりました。いま陛下は御暇ですから、拝謁なすってはどうですか」こう言ったそうだ。それから牧野さんが「いや、私は忌明けの御礼に伺ったので、畏れ多いから拝謁なぞ出来ません。またの機会に・・・」と言って帰られた。そしてその話が吉田さんの方に伝わって来た。そこで、拝謁が必ずしも出来ない訳では無いではないか、それでは一つ拝謁をお許し願おうということで、それを鈴木貫太郎さんに話して、鈴木さんから侍従長の藤田尚徳という海軍大将に話をして、何とか近衛さんが拝謁出来るようにしてもらいたいということを頼んだ。
 その二人の骨折りで拝謁のことを取り計らうということになったが、今のような大きな原則が出来ているから拝謁ということでは許されない。ただ重臣が天機奉伺に御車寄へ記帳に見えたら、その時にさっきの牧野さんの場合と同じくお暇だからというので拝謁を賜るということになった。それがすぐわれわれの方へ伝わって来た。重臣というと東條も一緒だ、それと一緒に拝謁を賜ったのでは何の事かわからない。と言ってまた運動したわけだが、それでは一人一人日を決めて、誰は何日、誰は何日ということでやろうということになった。一番初め広田弘毅氏が出た。何でも、ソ連を頼りにして、ソ連に縋らなければならぬ、というようなことを申し上げたそうだ。その次に平沼さんは伊勢の外宮が空襲に遇われて甚だ遺憾だ、といった話をされた。みんな時間は五分間位であったそうだ。そして二月十四日に、近衛さんがゆくことに決まったのである。この日、近衛さんは意外と長い間拝謁を賜って、椅子に掛けろと仰って椅子を賜った。そこで近衛さんはかねて用意している原稿によって申し上げた。その時、近衛さんがソ連頼るべからずという話を申し上げると、「参謀総長の梅津は数日前に拝謁して、ソ連のみが頼るに足るというておったが、それはどういうわけだ」という御質問があったそうだ。それから、それでは陸軍大臣を誰にする、陸軍を粛正する人を誰にするという話になった時に、われわれ同志の間では真崎大将に決まってるのに、近衛さんはハッキリそう申し上げず、三人候補者を挙げたのだ。宇垣と石原と真崎と申し上げた。そこで近衛式である。ただ、その中でも真崎が一番適任でありますと申し上げたそうである。次に杉山元はどうだというようなことも話題に上ったらしい。それで、元帥でないと陸軍が治まり悪くはないか、というようなお話が出て、しかし今頃元帥であろうとなかろうと、そんなことはこの大切な時には問題ではないでしょう。要は本人の実力でございますと申し上げて、それをきっかけとして陛下もお笑いになるし、近衛さんも笑って非常に和気靄然たる雰囲気を醸し出されたわけである。唯、その笑った時に陛下と近衛さん以外に笑った者がある。木戸君であった。そこで私共が疑うのは、木戸君がその上奏の内容を洩らしたのではないか。それから、これは近衛さんに訊いて見なかったが、近衛さんと木戸君のことだから、上奏をして退出する時に木戸君の所へ寄って、近衛さんの意見をもう一つ詳細に述べただろうと思う。木戸君からそれが陸軍の誰に洩れたか判らないが、木戸君は梅津美治郎と非常に親しくって、信頼していてたようだから、梅津にその話をしたのではなかろうか、それは悪意ではなかったろう。こういうことを近衛君が言った、君はどう思うというようなことを話したのではなかろうか。

2014年5月3日土曜日

日本バドリオ事件顛末(第九回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 51ページ

 一方引っぱって行かれた私にすれば、この一文が取られたのか取られていないのか、判らない。憲兵に「君、あれを取って来ましたか」と訊くわけにもゆかんし、「何か僕を調べる材料があるのか」と訊くわけにもゆかぬ。憲兵がそれを持っていると否とでは、私に対する考え方がまるで違うであろうし、こっちの答弁も違うわけだ。けれども中途半端に妥協的なことを考えて答弁してはいかぬ。つまり隠せるだけは隠していた。そして、事実、これは取られてないのであったから、肝腎なところが憲兵にもおせなかったのである。
 私が家内にモンペの中へ入れるように頼んでいると、「急いで下さい。早くして下さい。」と言う。それから私は和服に着替えて、応接間へみんなを呼び入れた。ドヤドヤッと大勢が入って来て、机の上に紙を出した。それが軍法会議の拘引状である。「あなたを拘引してゆきます。そして家宅捜索をいたします。」と言うから「承知しました。それでは洋服に着替えますから」と言って私は背広に着替えた。家内に「ちょいと言って来るよ」と言って玄関に出た。門前に自動車が待っていて、私を真ん中に挟んで憲兵が二人付き添って自動車に乗せられ九段の憲兵隊に連れて行かれすぐ調室へ引き出された。先刻の法務官がまた出て来て、私の被疑事実を述べるのだ。「あなたは隣組の常会へ出て、戦は負けるという話をしたそうですね」「したことはありません。第一、隣組常会など一遍も出たことはありません」問答はそれで終わりだ。向こうは私が常会に出たこともないし、そんな話をしたこともないのを承知の上で、ただ被疑事実として拵えて引っ張っただけなのだ。そして私は憲兵に引き渡された。
 私はこれはきっと一味みんなやられたんだろうと考え、それでは誰と誰であろうと、注意していると一日二日経つうちに、ハッキリは判らないが大体のことは判った。吉田さんと岩淵君が捕まったことは、ほぼ確実に判った。近衛さんもてっきりやられただろうと思ったが捕えられていない事が判った。真崎大将も引っ張ってなかった。小畑君も引っ張られてなかった。しかし、これは引っ張ったと同じに、憲兵が家へ行って調書を取っている。二週間位軟禁されている。前述の小林さんはこの頃は既に翼政会総裁で我々とは離れた立場に居られた。
 私はその日一日、ズッと真夜中まで、何ということなしに、雑談風な話をしながら憲兵に調べられた。戦争の見透しはどうだとか、そういうことばかり言ってその日は暮らした。
 そうしているうち翌晩になって、調室へ大きな椅子を持ち込んで来た。誰が来るのかと思っていると、司令官がお見えになる、と言っている。私は憲兵司令官が来るのかと思った。ところが、司令官というのは東京憲兵隊長のことで、それを当時は機構が変わって、そういう厳しい名前に代わっていたのである。やがてデップリ太った大佐が、大勢のお供を連れてやって来た。その大佐が戦犯に指定されながら逃げ回ってこの間捕まった大谷大佐だ。初めはいと丁重な言葉で「近衛さんが拝謁したことは知ってるでしょう」と言った。私はハッ思ったけれども、「私はそんなこと知りません。近衛さんには今年の一月お目に掛かったきりお目に掛からない。だから拝謁したことは知りません」「そんなことはないでしょう。何もかも知ってるでしょう」「何も知りません」「それでは、近衛さんが上奏したのを知っているでしょう」ははあ、来たなと思ったけれども、「知りません。上奏されたんですか」「知らない筈はない」「いや知りません。どうせ私たちの行動はあなた方が知っているんだから。私がこの頃近衛さんに会ってないこともご存知でしょう。私は拝謁のことも知らんし、上奏のことも知りません。私は近衛さんから聞く以外に近衛さんの行動を知る手がありません。まさか陛下が、近衛がおれに拝謁してこんなことを上奏したよ、という話を私にされる筈はない。一体近衛さんと陛下だけの話をあなた方が知ってる、そのことがおかしいじゃないか」と言った。すると突如として大谷が「今度の事件は貴様が張本人だッ。厳重に調べろッ。」と言って、靴を蹴って出ていった。その「今度の事件」と言われたので、私はハッキリ判ったのである。

続く