2015年11月22日日曜日

非常時局読本(第二十六回)「日本人よ、日本精神に還れ」

今回が最終回です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

123ページより

 これを要するに今まで縷々(るる)申し述べたが、結局は今次事変の原因は日本人が日本精神を失ったところにあるから、これが解決を図るためには、どうしても日本人が日本精神に還らなければならないのである。即ち日本精神の根源である大義名分に依って事の正邪曲直を明らかにし、以て聖戦の意義を知り、その解決を完全に図らなければならないのである。今後長期戦になればなるほどこれが一番大事な事となって来る。私は現下の我が国に取って最も憂うべきものは、実は外敵よりも、国内の思想問題であると考えている。依って日本人の全部が真に日本精神に還り、ここを基調として天皇中心に打って一丸となっておれば、決して恐れるところはない。恰もそれは黎明の明け行くが如く自然に国運の進展を見るに至るであろう。しかしてこの宇宙の真理たる日本精神に依ってのみ、真の世界平和を招来することもできるのであると確信するものである。
 この他非戦主義と敗戦主義との区別や、その他未だ申し述べたいことはいくらもあるが、以上に依って大体日本国体の本質と思想問題の正邪曲直を明らかにすることができたと考えるから、今回はこれで擱筆(かくひつ)する。

時局読本(終)

非常時局読本(第二十五回)「天皇御親政と日本精神」

今回は天皇御親政と日本精神についての話です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

120ページより

 天皇御親政ということについても非常な間違いがある。天皇親政というと 天皇陛下が直接すべて命令をお下しになるように考えている者があるが、そんなことは到底できないことである。それでまた反対に自由主義者は 天皇機関説でないと 天皇に責任が行くのでいけない、こういうことを言う者があるが、これも根本的に誤りである。日本精神では責任はすべて自分が取り手柄は上に譲るべきである。これが君に仕える者の心懸けである。しかるに却って反対に御上に於かせられては、天変地異に対しても 朕の不徳だと勅諭さえ御下しになっている。そこで人民はお上がそんなことをいわれてはたまらないと恐懼(きょうく)して輔弼(ほひつ)し進んで自分で背負い込むべきであって、命にかけても累をお上に及ぼすようなことはないようにするのが国民の務めである。
 御親政ということは大御心に帰一するようにする事であり、従って法規に依るべきものはこれに従って御裁可を仰ぎ、 天皇の御意思を通達するようにやって行く。また法規のないものは日本の 天皇には悪というものが一つもないから、天皇は現神で居らせられ、つまり天照皇大神の御心で居らせられる。故にその司司はその神の心を心として人民に接し、人民もまた神を拝む気持ちで仕事に従事し、そして三大神勅の精神を上下共に守って行くところに御親政の実がある、即ちその祭政一致が行われる。これが本当の天皇親政になるのである。
 大楠公の旗幟(はたじる)しの非、理、法、権、天について述べる。さすがに大楠公であると感心しているのである。その非、理、法、権、天というものは、今日の各思想の特徴を現しているように思われる。いわゆる非は理に敵(かな)わない、理は法に統べられる、法はまた権に倚(よ)る、権は最後に天の摂理には敵わない。これを楠公は旗印としておられた。これを近代の思想からいうと、非は非合理のことで共産主義に当たると私は解釈している。それから理は支那の王道である。王道は有徳者が帝位に即(つ)くが、時移れば有徳の者に譲るというところは理に適っているように思うが、これは易世(姓?)革命を認めているのであって、日本の国体とは絶対に相容れないのである。それから法というのは今の自由主義であって、法律中心主義である。権は権力至上主義ファッシズムである。我が国はこの五つの最後の天になっている。即ち最後にはいわゆる権力至上主義も天の摂理を基とする精神には敵わない。それは即ち日本精神が最後には勝つということである。楠公の非、理、法、権、天はこれを表しているものだと私は考えているものである。

非常時局読本(第二十四回)「財産奉還論と君民一体の精神」

大分お休みしてしまいました。
再開です。
今回は「統治」についてのお話です。
日本の「統治」と欧米、支那朝鮮の「統治」では内容が違います。
しかし、これは「仁」の精神がなるかないかで、理解できるかできないかが決まります。
日本人でも、世の中を「支配ー被支配」とでしか見えない人には、「統治」=支配になってしまいます。
日本古来の天皇の統治は「仁」に基づく、民を慈しみ、民の幸せを祈ることです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

117ページより

近頃日本の所有権はもともと 天皇のものであるから、何時でも必要な時はこれを奉還すべしといって、それを国体精神のようにいっている人がある。
 これは日本国体を尊重するごとくで実は国体に悖(もと)っているものである。我が国は建国以来「君民一体」の国であるから、臣民が財産を持っていても皆これ 陛下のものである。つまり「政府が持っているものばかりが 天皇のものでなく、臣民が持っているものも 天皇のものである」これが君民一体の大精神であって、また憲法の形式から言っても非常大権として定められている訳である。故に何も奉還奉還と騒ぐ必要はない。また学者の説によれば日本の統治は「統(すば)らす治(しら)しめす」ということである、三大神勅の中にもこの意義が明らかで 天皇が民を慈しみ育てるという事が日本の統治の意味である。
 外国の主権者のように人民のものを占有する私有するというような意味は含まれていない。また大国主命(おおくにぬしのみこと)以前は「統治」の言葉の代わりに「うしはく」という言葉が用いられた、ウシとは主ということ、ハクとは物を私有する占有する意義だそうである。さりながら、天照皇大神それ以後にはかかる言葉は使われていないそうである。ただし皇運翼賛の熱情の発するところ、生命も何のその、財産も何のそのと各自の熱意の発することは結構であるけれども、熱意をもって指導精神と定めてはならない。正しき指導精神のもとに各自が熱意を発することは望ましき事である。近来は故意か錯誤か知らないけれども、指導原理と熱意とを混乱して考えている人が多いようである、深く戒むべきことである。
 仁徳帝が高台に登り、民家の炊煙の立ち上るを見られて「朕は富めり」と仰せられたことは共にこの辺の消息を拝察するに足り畏れ多き極みである。

2015年6月28日日曜日

非常時局読本(第二十三回)「現状維持の誤謬と日本精神に基づく革新」

日本精神による革新とは?

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

115ページより

 自由主義者の現状維持者は常に自分たちのみが正しい者のようなことを言って、現状を何処までもその儘維持しようとして、右も左も狂人だ、自分達が中庸を得た思想を持って威いる、穏健な思想を持っているというのであるが、これは大なる誤りであって却ってこれが国家を混乱に陥れるのである。大体日本には前述の如く思想は「イエス」か「ノー」かしかない。善いか悪いかがあるだけで、穏健も中正もそんな思想はないのである。つまり大義に背いた者は皆悪いので、大義名分に即した日本精神だけがあるはずである。自由主義者は穏健中正な思想だというが、これは自分自身が外国思想に囚われていてそれを基調をして物を考えている証拠である。一体現状を何処までも維持しようとするから無理が出来る。昔と比べて今日は飛行機も出来、自動車、汽船、無線電信、ラジオも出来、毒ガスも出来た。かくの如く世の中は毎日変わって来ている。東京でも震災の前と後では建物でも雲泥の差がある、何れも進歩発達している。故にこの進歩発達に対応して適切なる改革をして行かなければならぬ。それを止めようとすると却って爆発する。しかしながらその改革を間違って外国思想を以てやるとまた大変な混乱を導く。だから何処までも日本精神で改革して行かねばならぬ。そこを共に理解して現状を改革する事は必要である。だが国体を忘れてやってはいけない事を良く理解する必要がある。元々改新という事のお里は社会主義である。改革とか革新というのは社会主義から来ている。だから国体精神が余程しっかりしておらぬと、段々行く中に社会主義のお里に帰ってしまうのである。その点が改革論者の方もまた余程中止してなければならぬところである。殊に今日の様な事態になると、このままでは全てが行けぬことは明瞭であるから、革新論者も現状維持者も共に正しく冷静に考えて日本を破壊に導かぬようにせねばならない。

非常時局読本(第二十二回)「議会制度否認問題」

当時大政翼賛会などのように議会制度を否認するような動きがありました。これに対する批判です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

112ページより

 近時議会制度を否認する考えがあるようであるが、これもまた国体を真に理解せざる結果である。永年にわたって政党が腐敗しておったために、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということになって、感情的に起こってきた議論である。政党の悪いのはそれはそれとして別に考えこれを正すべきである。日本は神代の時から議会はあった、国体の根本精神は議会制度を認めている。ご承知の様に天孫降臨に際して天安河原に於いて、八百萬神が神集いに集い給い、神諮りに諮り給うたということになっている。これは今日でいうと議会を開いてどうしよう、こうしようと会議をされて、その結果天孫が天降りになったのである。即ち我が国は神代の昔から肇国の初めから議会というものが設けられいる。ただ神集いというのは神様が集って、即ち私心のない者が集って 天照皇大神の御心をその儘 天皇の大御心を心とせられている方々ばかりが会議されたのである。今日は私欲を持った代議士が集まるからいかぬのであって、決して議会制度そのものが悪いのではない。つまり人間に私心があって日本精神がないからいかぬ。だから昔の如く神集いに集い、神諮りに諮らんとする精神がないのが悪いので、議会そのものが日本の国体に合わないのではない。それで明治天皇は御自ら欽定憲法を作られ議会が出来上がった訳であるから、何処までも御意に添って皇運を翼賛するための議論ならば、論議は決して相克摩擦ではなくて、切磋琢磨になるのである。それを私心を持ってやったり感情を持ってやったりするから相克摩擦になる。そこをはっきり弁えなければならん。これを混同してはならない。もちろん選挙法等は何とか改正すべき点もあるであろうが、しかし兎にも角にも集まる人間が私心のない人間でなければならぬ。そのことがはっきりせぬから議会が悪いことになるのである。だから選挙する人もやはり私心を去り、感情を去り、本当に日本精神を以て大義名分のはっきり分かった人を選挙してそれを議員に送らなければならぬ。そういう議員を送って議会を天安河原に於ける神々の会議のような議会にすることを理想として行わなければならぬのである。

2015年6月21日日曜日

非常時局読本(第二十一回)「億兆一心と一国一党」

大政翼賛会への批判です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

111ページより

二十一、億兆一心と一国一党

近頃は一国一党ばやりで「億兆心を一にして」ということを解釈してそれは一国一党という事だと詭弁を吐く人がある。これもまた国体を弁えない結果である。
 勅語の中に「国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済ませるはこれ我が国体の精華にして・・・」こう仰せられているのはこれは皇運を扶翼し奉るところに帰着しなければならないのである。それでその皇運を扶翼し奉る為に、世々厥の美を済ます為の億兆一心であるならば、日本国は一国一体一国無党であるべきで党派などはないのである。一国一党ということを殊更にそれは一国一体であるかの様に誤解する所に誤ちがあるのである。皇運を扶翼する為の団体、仮にそれを党と名付けるならば、即ち皇運を扶翼するために切磋琢磨して行く党ならばそれは何党であっても構わない、党の数は問題ではない。その党が日本精神を持っているかいないかということが問題である。殊更ながらに一党は一体なりというようなことにこじつけて行くと、それは非常に危険な結論に陥って行くのである。何事も指導原理が確かでないと直に現実の問題について誤ちが起こって来るのである。



非常時局読本(第二十回)「外国の全体主義と日本の一体主義」

今回は全体主義と日本精神、日本の一体主義との違いについてです。


非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

106ページより

二十、外国の全体主義と日本の一体主義

 それから、日本精神と全体主義、之もよく取り違える事である。全体主義を日本精神のように思っている人がある。全体主義というものは元来は個人主義から発展している。個人主義の反面であって根は同様である。名は全体主義であってもその基礎は個人主義である。だからそれは丁度海岸で砂を水で握り締めた様なもので、ちょっと投げつければ、またちょっと雨に合ってもパッと散ってしまう。それが彼等の全体主義であり、個人主義を軽視しながら個人に立脚する矛盾である。日本の方は君民一体の一体主義である。民は大君を現神と敬い 天皇は民を大御宝として愛撫される。即ち一家族の精神である。親と子と離れる事の出来ない一体主義である、個人が栄えれば総体が栄える一体である。総体が栄えれば個人もよくなる一体である。即ち宇宙の真性、宇宙の生成化育と同じ精神で上下一致して一体となっているのであるから、その発展状況は丁度植物の発育するようなものである。即ち根が水分を吸って幹を養い、幹は枝を養い、枝は葉を養い、葉は空気や光線を吸収して枝を養い、枝は幹を養い、幹は根を養ってお互いに一体となって相寄り相助け、各部栄えて行くと同時に一体として生育して行く、これが日本の国体精神であり、日本精神である。それを無理矢理に全体主義だ、何だと言って盆栽の様に外から無理な力を加えて行くのとは全くその撰を異にするのである。
 全体の為にこの枝は邪魔になるからこれを切れとか曲げてしまえとか、甚だしきに至っては木を逆さまにして植えるようなことまでしてとうとう木を枯らすようになる、これが流行の全体主義で、日本の一体主義即ち大自然のままの主義方針に適わぬのは当然である。日本の一体主義は平等の中に差別あり差別の中に平等ありで、天の摂理そのままをやっているから、これに優るものがある訳がないのである。ただ全体というと、それは日本の国体に合うように思う人があるけれども、その点は今言った様に非常に注意を要する点であって、そこがはっきりしていないと八紘一宇の精神をも取り違えることになると思う。八紘一宇ということは丁度彼の先のドイツの皇帝が武力をもって世界を併呑しようとしたのと同様、その覇道の様に考えている者があるようであるが、八紘一宇ということは即ち太陽の光線が無差別に万物に及んで、その慈愛を垂れこめて万物を生成化育せしめて同化さして、各々その所を得せしめて発展さして行く、これが八紘一宇の精神である。しかして同化されて一体となるものならばちっとも差し支えない、無理がなくついて来るものである。それだから今度の戦にせよ何も領土的野心があるとかないとかいう必要はない。領土的野心なしという議論は領土的野心ありということを前提としての論理と同様になるので、この思想を認めたことになってしまう、そんなことをいう必要はない。所謂皇道翼賛、つまり天業を恢弘して行くことに依って同化されて日本のものになり、陛下の御稜威について来るものならば喜んでそれを頂戴して育み育てて行けば宜しい。即ち無理なくして付いて来る者は取っても宜しい。無理をして取ることは皇道ではない。日本精神は絶対に無理をしない。天の摂理そのまま、恰も宇宙が出来て動植物が生えて育って行くそのままの原理を指導原理としているのが、所謂日本精神である。八紘一宇である。全体主義と日本主義と間違えると、八紘一宇を覇道であるかの如く考えて来るのである。それは恰も小節の信義を重んじて大綱の順逆を誤るのと同様になるのである。

全体主義と一体主義の違いは、無理矢理個人を一体化させる全体主義と、生物の細胞のように有機的に一体になっているのが一体主義のようです。

2015年1月12日月曜日

非常時局読本(第十九回)「戦時に於ける統制」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

105ページより

十九、戦時に於ける統制

 次に戦時に於いて若干はどうしても統制しなければならぬが、それは統制主義がよいからという意味でやるのでなく、戦時の特種の事情下にやむを得ず行う政策である事を理解しなければならぬ。それをよく理解せずして統制が主義上一番よろしい等と考えて行くとその結果は共産主義になってしまうのである。即ち戦時は戦争に勝つ事が唯一の目標であるから直接戦争に必要なことに力を入れ、戦争に直接必要でない方面は節約して行わねばならぬのであって、好んでやるべきものではないのである。もし統制主義という理想的に主義がある等と考えると統制のために統制する事になり、先に言ったようにスターリンのやり方と同様になる訳であるから、主義と実際とはよく区別して考えなければならぬ。また立法をするにも法の運用をするにもその支配を受くるのも日本国体の本義即ち義は君臣、情は父子と言う事を忘れてはならない。世の中は光線が強いと陰は之に比例して暗くなる様に、統制で官権が強くなるとまた民間の暗黒な力も強くなる、また中間には官吏の代わりをする者が出来て却って政府の権力は弱くなり、遂には国を乱す様になるのは歴史の示す所である。斯くの如く統制は毒ガスのようなもので使い方を間違えると全く味方を殺し自殺する事になるのである。大いに注意して実行せねばならぬ、と同時に計画の必要と統制とを履き違えてはならぬ。

2015年1月11日日曜日

非常時局読本(第十八回)「共産主義の基礎をなす平等観」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

101ページより

十八、共産主義の基礎をなす平等観

 次に所謂平等観をもって正義だと思っているのが共産主義になるのである。ところが実際現在の世の中には一つも平等なるものはない、ないから総ての現実を否定して来る。現実を否定して来るから現状を破壊しなければならぬ。そこで革命になるのである。しかして共産主義、社会主義の特徴は自己の反省というものが一つもないのである。自分が貧乏しているのは自分の能力が足らぬということや、或は自分の努力が足らぬことを反省しないで、これは皆社会制度が悪いと言って、何でも罪を人に被せるのが特徴である。同じ戦で負けても、昔の日本武士は自分の修行が足らぬから負けた、こういう風に自己反省をして、そうして努力をする。また敵ながら天晴だと言って敵の良い所を誉めている。そしてその良い所を自分で学んで屈せずにまた起ち上がる。こういうのが所謂日本精神である。真の共産主義というものは、一九二〇年頃ロシア革命の直後これを行った。ところがご承知の通り忽ちにして大飢饉になって数百万の人が死んでしまうようなことで実際には之は立ち行かない。つまり皆が楽にはならず皆が乞食になるのであって、立ち行かないか色々看板をかえて新経済政策と称し、新々経済政策、或は第一次五ヶ年計画、第二次五ヶ年計画といって、鈍重なるロシア人を誤摩化し羊頭を掲げて狗肉を売っているのである。列国に対してもまた国民に対しても今更共産主義は悪いとは言えないから所謂新経済政策、新々経済政策と称して所謂統制経済をやっているのである。(計画の長所は見る必要がある)故に本当の共産主義即ちマルクスやエンゲルス、或はレーニン、トロッキーが言ったような共産主義というものは、私の見る所では実際上は世界に存在しない。観念上或は学術上でそういう共産主義というものはあるけれども、実際に彼等が考えておったように貨幣制度もやめる、銀行も止めるというような共産主義を実行できるものと思っている者は一人もないと思う。之はロシアの実験ではっきり分かった次第である。もっとも西洋では二十歳代に社会主義にならぬ者は心臓がない、熱がない、頭がない、又三十過ぎまで社会主義を称える奴は馬鹿だというような噂もあるけれども、共産主義は今のようにロシアで実験済みである。だから世界中でロシア人が一番共産主義にはもう懲り懲りしている。しかしまた革命になって悲惨な思いをするよりよいと考えているのが真相である。さりながら共産党だけは一国一党主義でやっている。彼等は是をいけないと言う時は自分の首が飛ぶ時であるから、詮方ない訳である。本当に之が良いと思っている者は一人も居らぬと思う。今日の実情は所謂一国一党で国家管理、極端なる統制でもってやっている有様である。之がスターリンの共産主義である。これ以上のことをやろうとすると直に飢饉に襲われて人民が死んでしまうから出来ない相談である。私は共産主義の基礎を成す平等観というものは、むしろ日本人が今日一番強いのではないかということを憂えている次第である。また日本人には社会政策と社会主義の区別のつかぬ者が多いのである。

非常時局読本(第十七回)「統帥権と各思想との関係」

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

96ページより

十七、統帥権と各思想との関係

 皆さんも未だによく記憶して居らるる事と思うが、最もやかましかった第一次ロンドン会議の如き、その時に標語は世界平和のための軍縮会議、また国民の負担を軽減するために軍縮をやるんだというのであったが、その結果は先に詳しく言ったように全く正反対に国内に於ける各種不祥事の原因となり、また今次事変の間接の大原因となっている次第である。金もまた昨年は八十億、本年も百億に近い膨大な予算を要する事になったのである。何事もご都合主義に目前の難を避け、易につき、その日その日の事なかれ主義をやっておると、最後には大事になることは之によって明らかである。それだから常に確固たる指導原理を持ち、これを規尺として物の善悪を、事の是非を判別して大義名分の下に解決して行くようにする事が必要である。次に統帥権と各思想との関係を述べると一番はっきり分かるからお話するが、自由主義は統帥権の独立ということを認めない。これは日本独特の国体を真に認めぬから左様になる訳である。しかして統帥権の独立は国体を直接擁護して行く力である。だから前にも言った通りに勅諭の中にも
 「その兵馬の大権は朕が統(す)ぶるるところなればその司司をこそ臣下には任すなれ、その大綱は朕親(みずから)之を撹(と)り肯(あ)て臣下に委ぬべきものにあらず、子々孫々に至るまで篤く斯く旨を伝え天子は文武の大権を掌握するの義を存して再び中世(なかつよ)以降の如き失体なからんことを望むなり」
と仰せになっているのである。この軍隊に賜った勅諭がもう少し一般に普及しておると、そういう点がはっきりと一般にも分かって来ると思うのであるが、一般の方はご承知がないから困る。そういう風な大事な統帥権に関して、自由主義はこれを政府のものなり、即ち議会の監督を受くべきものなり、という風に解釈している。それだからそれに対抗して統帥権の独立が叫ばれたのであるが、本当に皇道精神をもってこの独立を主張したのと、それからファッシズム精神をもってこの独立を叫んだのと二つあった訳である。言語から見ると二つとも独立であるから、差別はないように思われたが、それが誤りの初めであって、一面今日ファッショを日本精神の如く考えたのもこの所に起因する点もあるのである。そこで、独立は独立だけれどもファッシズムの思想から言えば、その統帥権は自分のものだと考える、自分の独占と考える。そう考えるからいわゆる日本にあるまじき各種の事件が起こって来る訳である。一体皇軍は国体擁護のためになるのであるから、これを破壊する者は内敵たると外敵たるを問わず、討伐すべきであるけれども、之は自分勝手に討伐すべきではない。一に絶対に大命に依って発動すべきである。ところが権力至上主義に捉われると権力の権化となり何事も独占の感にとらわれ、遂に自分が権力者になり切って、自分の判断で勝手に討伐するような間違いが起こりやすいのである。
 日本精神からいうと統帥権の独立を叫ぶのは本当に 陛下のものにせんが為である。凡て軍隊の発動は大命に依るべきものであると思っているからそこに過ちが起こらない。威厳あって過ちなく一つも無理がないのである。そういう風に大事な統帥権、国体擁護の根本とも言って宜しいような統帥権に付いても、思想的には斯様な差別があるのである。またこれを人格、道徳的に区別して見ると、例えば会社の社長なら社長が、自分が金があるから大きな顔をして威張っておっても宜しい、そういう風な考えを出して来るならば、それは自由主義の思想から出て来る考えである。また俺は会社の社長であってお前達の首を切る権利があるから偉いのだぞ、こういう風に思うならば、それは即ちファッショの思想から出て来る考え方である。自分等がお互いに安楽にこうして暮らしていられるのは御陵威の御力であると感謝の念に満ちて考えるならば、それは日本精神から出る考えである。しかして之は何も上の者ばかりの事ではない、下に使われている者も同様である。今のように商店法が施されて夜十時過ぎると、それから先は俺の権利だという風に考えるのは、それは自由主義の思想から来る考え方である。そこを日本精神で見ると我々がこうして安楽に起居が出来るのは主人のお陰である、主人の為に今よりもっと充分に働かねばならぬという考えが起こって来る。此の何れが良いかということは、之は最早論ずるまでもない。本当に心の安定は日本の精神で初めて得られることは、それ等の事実からしてもはっきりして居ると思うのである。