2017年11月2日木曜日

十七條憲法 第二条 仏教は国教だった

二に曰く、篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、即ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

 二に言う。篤く三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは仏、法理、僧侶のことである。それは命あるもの全て(四生とは胎生、卵生、湿生、化生という仏教における生物の分類)の最後のよりどころであり、全ての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理を貴ばないことがあろうか。人ではなはだしく悪い者は少ない。よく教えるならば正道に従うものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によって心を正せるだろうか。

 ここで聖徳太子が言いたいのは、仏教を日本の国教とするという宣言です。イギリスでは国教会があり、アメリカでも大統領の宣誓はキリスト教の聖書に触れながら、行われるように、欧米でも国の中で宗教は重要視されています。なぜ宗教を大切にするのかということですが、第一は国民の道徳を保つためです。
 新渡戸稲造が外国人に聞かれたそうです。「欧米ではキリスト教によって道徳が守られているが、日本ではどうしているのか?」と。
稲造はその時言葉につまり、その後思い返して日本人の道徳を保っているのは「武士道」だと気付き、書いたのが英語で書かれた『武士道』です。
 聖徳太子は、豪族や官僚、一般国民の道徳の低下を嘆いていたのでしょう。天皇の暗殺が(崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された)起きるような世の中です。風紀が乱れていた可能性は高いです。
 次に、神道との関係です。十七条憲法の中で神道についての記載はありません。その場合、書いてない理由としては二つ考えられます。一つは書く価値も意味もないという場合、もう一つは当たり前過ぎて書く必要がない場合です。
 どう考えても神道が軽視されるはずがありません。そうなると当たり前過ぎてという理由になります。神道とは日本国にとって正に「国体」そのものです。つまり神道は日本の憲法の根本そのものです。だからこそ、十七条憲法には書かれていないのです。
 仏教を国教にしたとしても、国の憲法の基礎そのものである神道の上に国民の道徳を守る目的で仏教が乗っかっているだけなのです。だから、仏教が神道を押しのけている訳ではないのです。
 聖徳太子のような哲学者であれば、仏教のような宗教がなくても道徳は守ることは可能です。しかし、そこまでの知恵者はほとんどいません。そうなると、「信じる」ということにして、道徳を守らせることが重要になります。道徳とは「嫌なことを我慢する」ためのものではありません。道徳とは「その人自身が適度な自由を持って幸せに生きる」ためのものです。

 国の統治の根本に「道徳」が必要であると聖徳太子は考えていました。今の日本にもこのことは必要と思われます。大日本帝國憲法の時はその道徳維持のために作られたのが、「教育勅語」でした。次の憲法の改正時には道徳に対する政策も必要になるでしょう。