2016年3月11日金曜日

思想が違うと世界が全く違って見える。

いつも日本人に知っておいて欲しいけど図書館に置いてない文献を紹介していますが、私の意見も発信していきます。
もし読んで参考になりましたら、ツィッターなどで広めて下さい。

同じ映画、同じ本、同じ歴史を皆が違って感じるのは当たり前です。
人それぞれによって感じ方や考え方が違うので、誰も異論はないと思います。
しかし、善と悪が正反対になってしまったり、大幅に解釈が違うとは皆さん思っていないでしょう。
同じ日本人でも、同じものに対して正反対に感じてしまうのは、単に感じ方、考え方の個人差ではなく、世の中に対する見方つまり思想が違うからなのです。

それがどうしてそうなっているのかについて解説します。
簡単なものから言うと、「永遠のゼロ」という映画を見てどう感じるかということです。
「愛の強さとは大切な人のためにどれだけ苦痛に耐えられるか」という考えの人は、この映画を見ると涙が止まりません。
自分は親や恋人、恩師などの誰かに愛された経験があり、また自分も誰かを愛している人です。
しかし、「苦痛や危険は悪である」「自己犠牲などというのは狂気か、騙されたかのどっちかである」「愛とはセックスという快楽以外に意味はない」という考えの人にとっては、「ああいう物語はありえない、偽善の物語で、吐き気を催す」ような映画だろうと思います。
同じ映画でも正反対の反応になるのです。
この正反対の思想の人たちと議論して話がかみ合うでしょうか。
同じ世界にいながら、白と黒が逆になって見えているのです。

次に儒学についてです。
儒学のことは現代の人はほとんど知りません。
この私も最近、論語、孟子、中庸、大学などの四書や孝経、吉田松陰の講孟箚記(こうもうさっき)を読んで学んだばかりです(現代語訳ですが)。
儒学の本を読んだら、儒学で言う「徳(仁の心)」が身につくわけではないようです。
読む人に元々「仁」の心があるかないかによって、解釈が大きく異なってしまいます。
徳川家康や徳川光圀、幕末の思想家の藤田東湖、吉田松陰、横井小楠などは本気で「仁」の思想を信じていました。
「仁」とは、親や子どもを愛する気持ちを基に、先祖を愛し、配偶者を愛し、上司や部下を愛し、友人を愛し、愛をもって政治を行うという思想です。
それが、福沢諭吉のような自由主義者やサヨク思想の学者によると、「上下関係のある封建社会を正当化するための学問」という扱いになってしまいます。
ちなみに福沢諭吉にいう「徳」とは、「他人に迷惑をかけないこと」に過ぎません。
支那や朝鮮が元々儒教国家と言われながら、全く「仁」の思想が国民性の中にあるように見えないのは、自由主義者やサヨク思想の学者と同じように上下関係の道徳として認識され、悪用されて支配の道具になっていました。
このように、学問でさえ思想が違うと全く意味が変わって来てしまうのです。

最後に歴史についてです。
歴史とは単なる事実の連続ではありません。
歴史とは、過去の出来事を現代人の我々がどのような物語で解釈するかが歴史なのです。
だから、解釈に大きく影響する思想抜きに歴史のことは語れません。。
「苦痛は悪である」という考えに縛られている自由主義者やサヨク思想の人は、社会を「支配する者(苦痛を与える者)と支配されるもの(苦痛を与えられる者)」という構造でしか、世の中が見えていません。
そういう人たちにとって、歴史は全て「支配者―被支配者」として解釈されます。
そのため、天皇や将軍、武士は支配者、農民、被差別部落の人たちが被支配者になります。
殿様と家臣の間の忠義は全てではないにしても、「仁」を基にしたものだったはずです。
そうでなければ、殿様の死に続いて殉死する家臣のことを理解することはできません。
殉死とは愛する殿様への命さえ捧げる極度の愛です。
家康が殉死を禁止しなければならないぐらいでした。
自由主義者やサヨク思想の人からすると、殉死などは全く理解不可能なことです。
頭がおかしくなっているとしか考えられないでしょう。

それから、「仁」の思想の人からすると、天皇のために日本のため忠義を尽くして命を顧みず、志を遂げようとした楠正成は、忠義の士としての英雄ですが、自由主義者からすると「時勢が読めない武将」に過ぎず、逆にサヨク思想の学者からすると「豪族から生まれた革命家」となります。
同じ人なのにその人の生き様が全く違う解釈になってしまうのです。

私は、自由主義思想やサヨク思想より、日本古来の「仁」の思想の方が日本人は幸せに生きられると思っています。
心の中の思想の自由は保障されるべきですが、自分や他の人に迷惑をかける思想を論破していく自由もあります。
私は、このブログの中を通して、極端な(キリスト教が背後にない)自由主義思想、サヨク思想を論破し、日本人が本来の「仁」の心をを取り戻し、日本人が与えられた能力や環境の中で、それぞれが困難を乗り越えながらその役割を担い、それなりの幸せを感じながら、人生を全うできるように、貢献していきたいと考えています。