2017年4月30日日曜日

帝国憲法制定の精神 四(上)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
31ページからの引用です。

 しからばどういう風に、我々は日本の憲法を起草したかということは中々沿革のある事で、短時間には述ぶることはできないから、極めて簡単に申し述べようと思います。
 まづイギリスとアメリカの法律学には三通りある。その一はPhilosophical Jurisprudence(哲学的法律学、あるいは純理的法律学)その二はComparative Jurisprudence(比較的法律学)その三はHistorical Jurisprudence(歴史的法律学)である。我々がフランス、ドイツ、イギリス、その他の諸外国の憲法を調べた時もこれらの国々の憲法を比較して、いずれの国の憲法が日本に当て嵌まるかと調査研究してみたがドイツとも当て嵌まらない。ただイギリスの憲法史上にある基礎的政治の原則という文字は大いに参考の用に立った。これが即ち比較的法律学の効能である。しかして哲学的法律学は民法、商法、刑法、訴訟法などを研究するには最も適当であるが国際公法、憲法の如きは歴史的法律学によるのでなければその真髄を理解することができない。この点については日本の憲法学者は多くその歩み出しから誤っていると思う。また憲法学の原理は欧米各国を通じて一定したるものなければ憲法は歴史的法律学で解釈しなければその肯綮(こうけい)にあたるものでない。先に申しました通り各国各々その憲法は異なっている。それはそのはずである。憲法はその国の発達の歴史によって変遷して行くものであるが、イギリスには憲法という成典はない。憲法的歴史はある。それであるからイギリスの憲法を知らんと欲せばまづその歴史を熟知しなければわかるものではない。ドイツの碩儒の著した法律書中の理屈でイギリスの憲法を解釈しようとしてもその当を得るものでない。いわんや我が日本の如く二千五百年有余年連綿たる万世一系の 天皇がこの国に君臨して、統治権を総攬遊ばれておらるる国においてをやである。それをドイツの憲法学の理屈で日本憲法を解釈してはその精神および真髄を知悉すること能わざるは当然のことである。憲法は歴史的法律学を以って解釈するにあらざればその真髄を得ること能わざるから、我々は即ち筆を執って、歴史的法律学の識見を以って憲法を起草し始めた。決して哲学的法律学の理論によって起草したのではない。
 そこで我が日本の憲法はどう起草するかという問題が起こる。これは既に明治九年 明治天皇が有栖川元老院議長に賜りたる勅語に「朕爰(ここ)に我が建国の体に基づき広く海外各国の成法を斟酌し」とあるから我々は勅旨のあるところを奉じ国体を本として起草したのである。即ち第一条と第四条がそれである。よってこの二か条を熟読し日本の歴史を講究し、我が国体に基づきて憲法を解釈すれば天皇機関説の如き誤りに陥ることは決してない。しかるにこの二か条を熟考せずにただ外国の憲法論の理論によって我が憲法を解釈しようとするから、そこに大なる誤りを生ずるのである。さて第一条にはどうあるか。
 第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
これが日本の国体である。そこで統治の有様はいかがであるかといえば 
 第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりこれを行う
統治権の施行については各種の官衙(かんが)に分かれているけれども 天皇は国の元首としてその最高位にあらせられて、これを総攬し給う。その統治権施行の区別は内閣、枢密院、参謀本部、軍令部、司法権を行う裁判所、会計検査院とする。これらは皆 天皇に直接隷属している。これが日本帝国政府の組織である。この組織は日本の建国以来の国体に基づきたるものである。
 しからば国体については、何という書によればよくわかるかという論が第二に起こりますが、それについては「大日本史」が随一であるがこの書は大部なるがため、簡単なるものを挙ぐれば、北畠親房の「神皇正統記」、水戸の烈公の書かれた「弘道館記」、それを解釈した藤田東湖の「弘道館記述義」、会沢正志斎の「新論」など何も日本の国体をよく書き表したものであります。ことに水戸公園の中に徳川烈公の起草されたる「弘道館記」の碑が立っておりますがその碑文の中にこういうことが書いてある。これが日本の国体を最も簡単明瞭にわずか数十字で書いてある。今ここにこれを読み上げます。
 恭しく惟(おもい)みるに 上古 神聖 極を立て統を垂れ 六合を照臨し 宇内(うだい)を統御せらる 寶祚(ほうそ)之を以って無窮 国体之を以って尊厳
と記されてある。凡そこの文句くらい我が国体を簡単明瞭に書き現したものはない。日本の憲法学者中「弘道館記述義」につき日本の国体を研究した人が幾人あるか尋ねたい。
 之を要するに以上の文句の趣意に基づき日本の憲法の第一条と第四条は書かれたものであります。前にも申し述べましたが国体という文字は日本に限った特殊の政治語であって欧米にはない文字である。それはないはずである。世界広しといえども、日本のような国は他に類例がない。同じような国が世界にない以上は、この文字もまた出てくる由もない。故に日本の国体の意義は日本人自らこれを解釈するの他はない。そうしてその解釈は日本の歴史によるの他はない。決して欧米の書籍につき捜索しても見い出すことはできない。
 明治十七年から二十一年まで憲法起草の任に当たって伊藤公はもとより井上、伊東及び私共は、夜の十二時過ぎまでも議論を闘わしたことがあしばしばありました。そうして時には長官と意見を異にすることもありまして、我々共は堅く自説を採って譲りませぬと、伊藤公も癪に障ると見えて、君ら如き幼弱な者に何が分かるか、と言われる。私共のことを幼弱な者だと言われるのです。よって私共も負けずして、如何にも私共は幼弱な者でしょう、しかし閣下も昔は幼弱な人ではございませんでしたか、その幼弱な年齢から参議におなりになったではございませんか、また閣下は初めに何と仰った、今回憲法を起草するに当たっては我輩と君達三人は皆各々憲法学者を以って任ずべきである、決して伊藤は参議だ、長官だという考えを以って一歩でも譲るところがあってはならぬ、我輩のの議論にして非なるところがあらば少しも憚かるところなく意見を述ぶべし、仰せになりましたから、我々も遠慮なく自己の意見を述べたのであります、それが思し召しに適わぬからとて幼弱な者と言って抗弁なさる、閣下は最初に長官と思うなと仰ったから我々は憚かるところなく意見を申したことがお気に召さなければ、以後は何も申しませぬと言い放って、私共は伊藤参議を独り長官官房に置きっ放しにして帰ったこともありました。その位に伊藤さんも熱心であり、我々も真剣でありました。まだこの他に起草中いろいろなこともありますが、長くなりますから省きます。

帝国憲法制定の精神 三(下)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
27ページからの引用です。

 次にイギリスの憲法を調べんとするには、諸君ご承知の通りイギリスには成文としての憲法はない。English Constitutionという成典はない。イギリス人ハラムという人が書いたConstitutional History of Englandという「憲法的英国歴史」はある。イギリスの憲法は始祖のウィリアム・ザ・コンクェラー以後の歴史の中に散在している。しかして歴史の発達と共に憲法も発達している。イギリスはドイツはフランスのように憲法という成典がある訳ではない。そこで我々は非常に苦しんでイギリスの憲法的歴史を調べて、その中から憲法と言うべきものを書き抜いた次第である。有名な憲法は「マグナ・カーター」(大憲章)という。これはジョン王が非常に圧制したがために貴族が奮起した。当時は労働者や百姓や商人はあったけれども未だ政治上に勢力がなく、ただその勢力を有しておったものは貴族であった。貴族は土地を持っているしまた財産を持っているから従って勢力があった。これらの貴族がラネミードという野原にジョン王を呼び出して、かかる暴政を行われては我々英国民が困る、よってこれから国王の施政の方針はこの「マグナ・カーター」によるべしと誓われたい、と言ってこれを突き付けてジョン王の調印を求めた。王は弱いからついにこれに調印した。この「マグナ・カーター」がイギリス憲法の骨子と言わるるもので、これが憲法の始めである。それから段々政治が発達してきたのである。しかるにその後チャールス一世が暴政を行った。今度は貴族と国民が国王を引っ張り出してきてついに殺戮した。この時も多くは貴族が牛耳を執った。人民も参加したが、貴族が主動者であった。
 そこで今度はクロムウェルという野心家で、そうして偉い人がコモンウェルス即ち「共和政府」を創設した。これは僅かに十一年続いたが、彼の死後共和政府は倒れ再び王政の復古を見た。そうしてチャールス二世を迎えてキング即ち国王にした。この十一年間のクロムウェルの共和政府の時代をイギリスの歴史には共和政府と書いてあるけれども、正当にはインター・レグナムという。インター・レグナムという文字はラテン語で「帝政と帝政の間の時期」ということである。これ即ちイギリスは古来国王が中心となって政治をする主義の国であるから、十一年間共和政治を行ったことは英国の歴史を傷つけるから、それで「帝政と帝政の間の時期」即ちインター・レグナムという文字をもってこれを避けている次第である。とにかくイギリスは君民共治の国であってフランスのように主権民にありとする国ではない。またドイツのように諸王国の君主の連邦政治でもない。イギリスはその点だけは一貫している。そこでイギリスの憲法を調べてみるとKing in Parliament(議会における国王)Lord in Parliament(議会における貴族)Commons in Parliament(議会における人民)というように国王と貴族と人民との三種族が議会に集って英国の政治をするという君民共治がイギリスの主義である。これを称してFundamental Political Principle of England(英国の基礎的政治の原則)という。この三種族の中の一つを欠けば基礎的政治の原則が破壊さるることになる。かの千八百四十八年のフランスの革命の猖獗なるときに、イギリスでも国論が沸騰して共和政治に変更せんとした。その時にかの有名なる下院の議員エドマンド・バークが、もし共和政府にすればイギリスの基礎的政治の原則が破壊せらるるから、そういう事は断然排斥しなければいかぬと絶叫した。それ故にフランス革命の余波が遂にイギリスに侵入しなかった。これを要するにイギリスの基礎的政治の原則は、国王、貴族、人民の三種族が共同して英国を治める主義であるからである。
 それで我々が以上三ヶ国の憲法について考えて見た時、フランスは無論日本に適用ができない。ドイツもまたその精神が日本に適用できない。しかしてイギリスの基礎的政治の原則は国王と貴族と人民が政治を共治するにあるからこれもまた採用することはできない。しかしイギリスの基礎的政治の原則という文字はこれを日本語に当てはめてみると、日本の国体という文字にやや似たところがある。しかるに日本の国体という文字はこれをイギリスにもフランスにもドイツにも見出すことはできない。何となれば日本の国体という文字は日本特殊の政治語であるからである。かつて私は欧米の碩儒にも会ってこの問題につき談論したこともあるが外国人には国体という文字の真髄は分からない。何となれば二千五百年以上も万世一系の 天皇が連綿として君臨せらるる国は世界広しといえどもどこにもない。従って欧米の政治学者、憲法学者の頭には国体という文字の分かるはずがない。ただ一人これに似寄った文字は前に述べた仏国革命のおりエドモンド・バークが絶叫して、革命の害毒を防いだ時の言葉即ち英国の基礎的政治の原則という文字が、やや日本の国体という言葉に近いと思わるるくらいである。