2014年6月29日日曜日

非常時局読本(第九回)「大義名分は日本人の生命である」

 今回は「大義名分」についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

47ページより

九、大義名分は日本人の生命である。

 日本国はその大義が通ってこそ日本国である。即ち大義名分ということが日本人の生命であり、日本国の生命である。これが乱れた時は必ず日本国は動揺する。これは恰も物理学に於ける振り子の運動のようなものである、振り子が垂直に垂れていれば左右の動揺は起こらないが、これがはずれれば直に左右に振れる。即ち大義名分が日本を貫いていれば日本に非常時は来ないのであるが、大義名分が暗くなれば即ち振り子が中心の垂直線から脱すれば直に左右に振れるように国家に必ず動揺が起こるのである。しかして、振り子が中心線で遂には留まるように、大義名分の力に依って最後には動揺が日本では止むのである、それで天地と共に悠久に続くのである。外国には国体がない、それで大義名分というものもないから、一度起こった動揺は何時迄も続き、右に振れ左に振れつつ歩くのである。即ち易姓革命という国家の大混乱は免れないのである。しかして中心線に動揺を制止する力がないのが外国である。歴史を見ると、日本にも多少世に汚隆があったけれども、やがてはその中心線たる大義名分に抑制せられて、即ち正気時に光を放って、真の日本の正体に復するに至るのである。
 それで往年正気が光を放って、国体明徴等が叫ばれたけれども、世を被って間違った思想に左右せられておった時代であるから、その方が却って悪いように解する者もあり、またその悪思想に感染していた者には何よりも恐ろしき消毒剤であるから、却って余計な事をいう者があるから世が騒がしくなる等と考えて、真剣な者を危険視するような暗黒時代となった。しかしさすがは日本人であるから血の中には日本国体を理解しているから、表面ではやむを得ずこれは大変だとは称えたが、さりながら内面的にはそんな事を言う人を悪人にしてしまったのである。その後歴代の内閣は政綱の第一に国体明徴を掲げるようにはなったが、今日に至るまでなお日本精神を説く者が注意人物であるような気分が漂っているところに思想混乱の根本があり思想不統制の原因があるのである。大抵の者が国体は明徴だ、そんな事は言わなくて分かっている等というが、灰色にしか分かっていないのだる。先般神兵隊の宇野裁判長がこんなに裁判が長引いては、上御一人に対し奉り申し訳ないと言ったと新聞に出たが、その時にある裁判官が私にそれを喜んで褒めて言ったから、私はそれを聞いて、そんなことは当たり前ではないかとこう思ったが、その人の言うのには中々さようでない。近頃は天皇の御名に於いて行う裁判を理解せず、また御名代の意味で裁判をやっているのに真にそんな気持ちで任に当たっている者はなかなか少ない、大抵はいわゆる権力至上主義、法律中心主義、つまり法律の番人の気持ちであり、いわゆる外国の国家の役人と同様の考えになって権力の行使者になっているとかように語った。本当に日本の国体が分かり、忠良なる陛下の官吏でありまた假令罪のある人でも 陛下の赤子たる事を考うる日本精神の所有者であるならば、親が子を裁判するような御上の気持ちが理解されて、その気になって裁判するようになるはずである。ただ法律の末節に引っ掛けて人民を敵視するような冷酷なる気にはなれないはずである。被告もまた親に接する気で裁判に応ずるのである、そこまで行って初めて義は君臣情は父子の国体が明徴になったと言えるのである。
 またある子どもはその父親が、ある事件に関係したからと言って、学校の校長さんがその子どもの入校を渋って許さなかったと言うことであるが、これらも本当に校長さんがいわゆる日本精神に目覚めていない証拠である。申すも畏れ多きことながら、日本の御皇室は斯くの如き浅薄なる御徳ではない。万物皆その御仁徳に浴する広大無辺の御聖徳にあらせられ、これまで天変地異に際してさえも、それは 朕が不徳の致すところであると仰せになっているのは真に感涙すべき事である。また昔、仁徳天皇様は民家の炊煙が立ち上るのを見られて「朕は富めり、民が富むのは朕の富だ」と仰せられた。また 明治天皇様は「天下一人でもそのところを得ざる者があるのはそれは朕の罪だ」と仰せられたように、真に親が子を見るように御覧になっているのが我が御皇室である。不具の子ほど親は可愛いと言う、ちょうどそれが我が大君の思し召しである。しかるに中間の者がその御徳を忖度し得ず、いわゆる外国の国家の権力の下にある役人の如くに思ってしまって、ただ自分の都合あるいは自分の権勢に捉われ、あるいは自分の出世のために具合が悪いと言ってそういう子どもを入れることを拒むということになるので、これはいうまでもなく親の心子知らずで、外国思想に捉われている結果の致すところである。日本の御皇室は 天照皇大神宮様そのままの御現れであり全然神の心を心とせられている御方である。それだから、天皇を現神と申し上ぐるのである。そこを分からないで灰色であるから、国体明徴だとい言いながら最も大事な大義を誤った足利尊氏を礼賛するような事になるのである。彼は政治的手腕があった、また人格もあったと言ってそれに惚れ込んで、取り返しのつかぬ脱線をする事になるのである。これは大義名分そのものが日本人の生命であり、日本国の生命であるという事を忘れている証拠である。
 私は日本人であるかないかと言う事は、その人が大義名分がよく分かっているか分かっていないかによってはっきり分かるものだと思うのである。
 頼山陽は「丈夫の要は順逆を知るを尊ぶ」とこういう風に詩に作っているが、私は日本人であるか、日本人でないかは、その人が大義名分を知るか否かによってはっきり分けられると思う。この大義名分と言う点がはっきりしていないために外国の思想にかぶれてしまうことになるのである。

つづく

私自身は「大義名分」をきちんと理解しているだろうか?

2014年6月15日日曜日

非常時局読本(第八回)「日本国体の本質と天皇機関説の誤謬」

今回は国体と天皇機関説についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

39ページより

八、日本国体の本質と天皇機関説の誤謬

 我が国に於ける各種不祥事の原因をなした彼の天皇機関説の起こりも、その元を正せばいわゆる国体と国家とを分けて考えるところから起こって来る。我が国は君民一体でなければならない、これは三大神勅にもはっきりしておって、第一 天皇陛下のご先祖は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)であってそれからイザナギ、イザナミの尊(みこと)が天沼矛(あめのぬぼこ)をもって修理固成して宇宙や地球をお造りになった。そしてその宇宙が生成化育して行く所の原理そのものをもって発展して行くのが日本の指導原理であり、理想であり信念である。だから第一神勅に於いては「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいおあき)の瑞穂の国は我が子孫の君たるべき地なり爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(し)らせよ、行け、宝祚(あまつひつぎ)の隆んなること天壌(あめつち)と窮りなかるべし」こういう風に仰せられている。それから第二神勅でいわゆる宝鏡(みかがみ)をお授けになって「この宝鏡を視ること当に我を視るが如くせよ」と仰せになって始終神の心を以て心とせよと仰せられた。それから尚「この稲穂を以て我が国民を育み育てて行け」こういう風に仰せられた。第三神勅で更に神籬(ひもろぎ)磐境(いわさか)君民一体の理を御示しなさっている。ところが第一神勅の方は小学校の教科書にもあるので大体日本人は皆承知しているが、この第二、第三の神勅の意義は明を知っている者が少ない、つまり第一神勅の元をなしているところの、本当の日本精神の基調に触れているところの第二、第三神勅がどういうものかそれを説明していない。だから国体は知っていると言いながら、神代の神話等を本当に理解しようとしない、またよく理解させようとしないために漸次に外国と同様の物の見方で我が国の歴史をも国体をも解決しようとする、そして君と民と国家を分けて考えるような不逞な思想に陥るのである。大体 神武天皇以前を神代とする事自体が国体の本義を明にする事こそ、日本精神を理解する基礎である。
 神代を明瞭にしないから日本建国の理想をこれは日本人のみに都合良く説明するのだくらいに考えて、天地の発育成長の自然の原理そのものを、即ち生成化育の原理をそのまま指導原理とし、信念として実行して来たのが日本の国体であるから、それ以上の正しい指導真理は何処から考えてもあり得ないという事を考えず、また従って信じもしないから君民分離して考える思想に堕するのである。
 即ち 陛下の御先祖がこの土地を固めて国をお造りになり、そうして山川草木に至るまでをお造りになり、そこで日本の君と国と臣民は離れられないので一体である、これが即ち日本の国体の本質であるのに、それを西洋の思想にやたらに囚われてしまって、国家と君とを分けて考えて、国家の上に帽子を被せたようなものが、 天皇陛下であるというような事で天皇機関説が起こって来るのである、分けられないものを分けるという観念になることが天皇機関説のそもそもの元である。これは更に後段で述べるが、今次の戦争の一番の大きな間接の原因にもなっているのであって、これはいわゆる自由主義がもたらした弊害の一番大きなものである。天皇と国民と国家とを分けて考えるのは丁度家庭というものを親を引き離して子どものみの家庭と考えるような観念を持つと同じであって、そこに根本の錯誤がある、家庭は親があって初めて出来る、親があって子どもが出来、その子どもがまた親になる、親が現在亡くなって親のない家庭はあっても、親がなくて出来た家庭というものはない、それが日本の家族精神である、日本の国体の本である、それを別々に離して考えるということが国体破壊の根元である。外国殊にロシアの例をいうと一番良く分かるが、ロシアは始め国土がある、そうしてロシア民族があってそれを治める者がないのでノルマン民族のルーリックという者を連れて来てロシアを治めて貰いたいと頼んだ、それだから統治者が会社の社長のような機関というようになる訳である。しかるに日本は御皇室の御先祖が国土を固め、臣民を造り、樹木が繁茂して宇宙の発展と一体となって栄えて来るのだから、日本は君臣と国土とが分けられないものになっている。それを分けて考えようとするところに誤りがある、だから皆さんには釈迦に説法のような点もあるが、機関説はそこのところを巧みに誤摩化しているからその点を充分注意する必要がある。外国流の国民あっての主権者なり、国家あっての統治者なりと別々に考えようとしている。そうして、この解釈の型に嵌めて日本の国体までも外国流に漸次になし崩して行こうとするところに根本の罪悪があるのである。しかしていわゆる天皇機関説というものは私どもの中尉位の時分に、確か明治四十三年頃と記憶するが、ぼつぼつ台頭して来た、当時私どもは憲法や法律の頭もなかったのであるが、天皇は我々の親であり現神であると思い、何時でも大君のためには一身を投げうとうという覚悟を持っているのに、天皇を機関だの会社の社長などというならば、また取り替えてもよい事になるのではないか、というように考えて、実にけしからぬと青年の純情から当時の帝大の学生などと議論を戦わしてそんな馬鹿なことがあってたまるかと大いにやったものであったが、しかし純真なる胸奥からほとばしり出る信念というものは中間の論議を抜きにして、これを今日考えてみてもやはりそれは正しいのである。その時分にこの説の間違っている事を明瞭にして、二葉の中に刈り取っていたならば、日本のために如何に幸福なしめか、おそらく今次の戦争もまた数次の不祥事も起こらなかったであろうと思考する。
 元来憲法は国家の大典であって、陛下の御地位にまで言及し 天皇の大権を執行なさる形式を定めているのだから、その解釈を忽せ(ゆるがせ)にするということは非常に重大な問題である。それを疎かにするような気分になったことはいわゆるご都合主義の自由主義に日本人が囚われておったからである。直接自分の利害にさえ関係なければ時勢に従うのが利巧だとする、花より団子主義の実利主義に捉われて大義の重きを忘れた結果である。かかる大事な事をその後三十年以上も放擲(ほうてき)して置いたところに大いなる誤りがある、それだから彼等も段々増長し国民も段々と騙されて、遂には天皇と議会とを対立さして来たり、また統帥権もいわゆる統治権の一部であり特別に考える必要なきが如くに説き、 天皇の御勅語をも批判してよいというような論議まで出て来るようになったのである。それが国民の思想を撹乱し、またそれを本当だと思う者が大分増えて来たために、軍隊の中にもこの思想が入って来て、それをいけないと思う者と、それを本当だと思う者と現れて来て、一層世の中が混んがらかって来たのである。それが遂に彼のワシントン会議ともなったのである。そして第一次ロンドン会議においてはいわゆる統帥権干犯等の大問題を惹起して、軍隊の中がいよいよごたつき出して各種の国内における不祥事の原因をなして、層一層世の中を混乱に陥れいわゆる超非常時の原因を造り、今度のような大戦争となり 神武天皇創業以来の大事となった次第である。かくの如く考えれば考えるほどこの天皇機関説というものが日本の不祥事の総ての原因となり、また今次大事変の根本の原因を成しているのである。しかるに斯くの如き重大事を歴代の政府もやはりご都合主義でこれを放擲して置いて、臭いものに蓋をしつつ便宜主義に堕し、事なかれ主義で世を渡り「そんな学説等は学者に委せて置け」とこういうような出鱈目を言っていたのであるから、大義は段々と乱れて来て遂に未曾有の非常時となった訳である。

続く

国体問題が大東亜戦争の根本の問題の始まりとは驚きですね。

2014年6月7日土曜日

非常時局読本(第七回)「日本国体と欧米国家との相違」

では、「日本国体」とは何でしょうか。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

28ページより

七、日本国体と欧米国家との相違

 日本人にして国体は分かっていると言いながら本当に分かっていない者がたくさんあるのである。その錯誤の根本は我が皇国ということと外国の国家との区別がはっきり頭に入っていないためである。日本人にして全く国体を忘れ国体を軽蔑している者は私は一人もいないと思う、けれども御皇室を考え、国体を考えるときの頭と、国家を考える時の頭とは、観念上別々のものになってこれを一体として不可分的に考えていないのである。即ち観念上国体を考える時と国家を考える時と、二つ頭を持っている、二頭の人間である。ここに各種の錯覚が起こるのであって自分は国体を知っているつもりであるけれども、本当の国体精神を、官吏としても軍人としても、臣民としても現していない者がある。つまり我が国においていう国家即ち皇国という言葉の意義と外国の国家という言葉の意義とを混同しているのである。そこに現在の日本のこんがらがっている根本の原因があるのである。またファッショに惚れ込んだ理由もここにある訳である。実は私どもも大正九年頃にはいわゆるファッショというものは愛国主義であって非常に良いものだ、そして国家社会主義というものは、日本を救う指導原理であるかの如く考えた時代もあった。それはなぜかというといわゆる国体そのものが日本国家である。君民一体で君と民と国とが離れ得ざる所のものが日本の皇国の真の姿であるということに関する適確なる認識がないために、単に愛国主義と言われる国体なき国に対する権力至上主義、政権至上主義の愛国主義と、我が国の忠君愛国主義即ち義は君臣、情は父子、君民一体不可分の日本精神とを一緒にしてしまっている、そのために愛国主義ならよいではないかと思ってしまっている点があるのである。元々ファッショは国家主義、愛国主義で来たものでいわゆるインターナショナル、即ち最も危険なる国際共産主義に対抗して起こって来たものだからそれは良いものだと考えた。そこにファッショに惚れ込んだ一つの原因があるのである。
 更にこれを歴史的にくわしく言って見ると、ロシアの革命の時分にはロシアはいわゆるインターナショナル、国際共産主義というものを指導原理として、そうして世界革命を企て、まずロシアを転覆したのである。初めは西ヨーロッパを一挙に転覆して共産革命をやってしまおうというので、武力と併行していわゆるインターナショナリズムを大いに宣伝したのである。しかるにそれが失敗した。そこでその次に狙いをつけたのが支那である。支那においては列国の利害関係が一番輻湊している、ここに火を付けて混んがらかせるとその飛び火が列国に行く、そうしてしかも仕事がやりやすく成功しやすいと考えた。つまり共産主義の宣伝等は無智蒙昧の人ほどかかりやすい、教育を受けた者はある程度までは騙されるけれども、ある程度以上は騙されない。それで支那を騙した方が一番騙しやすい、しかも列国の利害が輻輳しているからそこに火を付けると列国に飛び火して世界を混乱に陥れやすいというのでそこに狙いをつけて、レーニンの晩年から始めて、スターリンになって余計に支那に重きを置いて共産主義宣伝をやるようになった。しかもこれを手っ取り早く成功しない、そうする中にまず時分の足元を固めないと自分が危うくなった。そこでスターリンとトロッキーの争いが起こった。即ちスターリンが一国社会主義の建設は出来るというのに対して、いや世界を全部共産主義にしなければ社会主義国の建設というものは出来ないと言っているのがトロッキーの説で、これがいわゆるスターリンとトロッキーの争いである。その結果とロッキーはロシアを追っぱわれて、まず一国社会主義に立脚したスターリンがロシアの政権を握ってしまった。スターリンはあえて世界革命を止めた訳ではないが、まず自分の足下の一国を固めようというので一国社会主義というものを建設していわゆる国家管理極端な統制主義でやっているのが今日のスターリンの現状である。
 ところが千九百二十年頃は国際共産主義というものは欧州を風靡したのであって、なかんづくイタリアは大戦後共産インターナショナルに非常に虐められた。そして各工場はほとんど共産インターナショナルの占有するところとなった、そこでこれではいかぬというので起ち上がったのが今のムッソリーニである。ムッソリーニはご承知の通りこの国際共産主義を撲滅するには国家主義即ち愛国主義で戦わなければならぬと言って起ち上がった。それが我々日本人の目には今までロシアをあれだけ荒らしてしまい、世界を聞きに導いたようなそのロシアの共産インターナショナルをイタリアの国内においてはムッソリーニが見事に手際よく撃滅した、それがファッショである、愛国主義である、国家主義である、日本もああいう風にして共産主義を撲滅しなければならぬこういう風にファッショを心から良いものだと考えて、それが国体と矛盾するという点には気が付かないでただこの特徴が著しかったためにそれに引き摺られてしまった。つまり日本の国体というものはイタリアとは違っている点に気が付かない、向こうには政体はあるけれども国体はない。向こうには愛国はあるけれども忠君愛国ではない。そこに気が付かないで単に愛国ということならそれでよろしい、こういうような考えになってしまった。殊に愛国心に富む軍人がそれに引き付けられた。ムッソリーニが余り手際良くやるものだから、彼の人格識見と思想の区別はつけないで、国体のある国と、国体のない国の差も分からないで、無条件に唯それに惚れ込んでしまった、即ちファッショというものを恰も日本精神であるかの如く誤認してしまった、そもそもの原因はそこにあるのである。
 私共も前述の如く初めはそう思った。向こうの愛国ということが忠君愛国と違うという点に気付かなかった、しかして日本はどこまでも忠君愛国、君民一体の国柄である。しかるに向こうの方は君の方は第二でよい、いわゆる政府至上主義であり、権力至上主義である、そう言う愛国である。そこに我が国とは大なる差がある。建国の歴史に非常な差があることに気が付かない、ただ当面の一時的争闘を鎮めるために起ち上がった愛国心と、日本の如くこれを古今に通じて誤らず、これを中外に施して悖らぬ、そういう深淵なる建国の原理とを混同してしまった。その根本ははっきりと国体を認識しないからである。向こうは国体なき国柄である、ただ政体だけあって国体のない国である。だから強い者が出ればまた前のを転覆して取ってしまう、理屈をうまくつけたものが新しき思想をつくる。しかるに我が国は千古を貫いてしっかりした大義名分を持って、それに依って物の善悪を区別し万古を貫いて興隆するくにである、ということに気付かない。ムッソリーニが余り手際良く恐ろしき国際共産主義をやっつけたものだからそれに眩惑された点もある。もう一つは日本人の国体に関する認識が確固としていなかった、そこでファッショを見誤ってそれを日本精神だと誤信するようになった。一体人間はよほど注意をせぬと多少の悪口はいわれても、尊氏となって天下を取るのが隙で、大楠公となって湊川で散るのは嫌いである。よほど国体の認識が確かでないと我が国の歴史を見る如く間違いやすいのである。そこで明治天皇が軍隊に賜りたる御勅語に特に「再び中世以降の如き失体なきを望む」と仰せられて武家の勢力政治今日のファッショ政治を戒めていらるるのである。
 そうしていよいよイタリアやドイツがそういう風にして国際主義を討伐した結果を見ると、前述の如くスターリンの一国社会主義と内容においては大差がない、これもまた一国社会主義である。その実行には多少差はある、権力、思想、産業共に政府者の統制に帰するいわゆる国家管理の根本の思想独占の思想においては差違を認めないのである。この点をよく認識して親善関係は親善関係として相互に援助して行くべきであるのに、よいと見ればまた仲良くしようとすれば魂までも投げ出して奪われてしまうところに日本人の間違いがあるのである。
 しかして外部に対する働きには相違がある。ロシアのスターリンのやり方はまだまだ世界革命を捨ててはいない。つまり思想的に共産インターナショナルを一線に立てて、武力の背景の下にいわゆる世界革命をやって行こう、侵略をやって行こうというのである。ところがファッショ国のやり方は武力を一線に立てて、そして国家の発展を企画して行こうというのであって世界革命など考えていない、それで前者は外国から見て思想的に警戒され、、後者は怖がられないのである。そこに防共協定ということも意義があるのである。片方は思想戦をもっていわゆる世界革命をやって行こう、片方は武力でもって建て直しをやって行こう、そう言う所に差があるのである。しかしそれを自由主義国から見ると既に思想的には練れているから、思想的侵略の方法よりも武力で来る侵略の方が彼等には怖い、そこで今度は自由主義国はロシアと一緒になったのがヨーロッパの現状であるが、しかし血は水よりも濃しということわざもあるから我が国は特に注意を要する点もある。彼等は思想においては日本より練れているからいわゆる共産主義の手練手管には罹らない、その点は割に怖くない。ところが力で来られるやつ、腕っ節で来られる奴は怖い、それだからいやでもロシアと一緒になって、その腕っ節を食い止めようというのが人民戦線である。

つづく。

国際共産主義と国家愛国主義の違いはわかりましたか?
 

2014年6月3日火曜日

非常時局読本(第六回)「思想と人格との混同」

思想病の問題は現在も「保守主義者」と「サヨク」の間でも厳然として残っています。
それぞれの主張を見ると本当に善と悪が逆さまになっています。
同じ世界に住みながら、全く違う世界に生きています。
本当に恐ろしいのが「思想病」です。
続きを御読み下さい。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

25ページより

六、思想と人格との混同

 日本人はとかく思想と人格とを混同して考えている。政治家やあるいは外交官等までがイタリアやドイツに行って、日本人たることを忘れて無条件にヒットラーやムッソリーニの人格、識見、技倆に惚れ込んでしまって、その識見や技倆の生みの親たる思想にまで惚れ込んでしまって来る者がある。単に人格のみを言えば私はロシアにいる時分に特に関心を持って調べたのであるが、彼の共産主義の元祖であるレーニンの如きは、今日の日本の何れの政治家よりも人格としては綺麗な人だと信じている。しかしながら彼は共産主義を以てロシア人を救い人類を救い得るという思想を持っていた所に、日本の国体、つまり日本精神とは根本的に相容れざるところがあるから排撃するのである。しかも日本精神というものは何も日本人だけに都合の良い事を言っているものではない、つまり宇宙の創造、造化の真理、生成化育の原理をそのままに原理とし理想とした所の我が国体そのものから発足した精神であって、共産主義以下非道理な思想とは徹底的に相容れないのである。かるが故にレーニンを排斥するのであって彼が人格劣等なるが故に排斥する訳ではない。彼はあれだけの仕事をやり遂げただけに、人格に於いてもいわゆる識見技倆に於いても恐らくヒットラー、ムッソリーニを抜くくらいの人物であったのである。またヒットラーやムッソリーニにしても非常な人格を持ちまた識見、力量がなければあれだけの大成功は出来ないことはいうまでもない、ぼんくらではとてもあれだけのことは出来ない。それは分かり切った話であるが、外国の国柄の異なる即ち国体なき国の思想をそのまま鵜呑みにする訳にはいかない。レーニンの場合には共産主義は真似てはいけないということは日本人は全部知っているから誰も彼に傾倒はしないが、しかしいろいろの都合でヒットラーやムッソリーニの場合には人格に惚れてこの思想までも鵜呑みにしてこれに全部真似ようとする傾きがある。その点が思想の本質は別として実際上では今日の日本人には共産主義以上にファシズムの方が危険性があるのである。人格が立派で識見、力量が大で思想のない者はこれが一番危険である、つまり自動車の機械が立派で舵がない訳であるから何時危険に瀕するか分からない。かくの如く思想で分からないと自分では一生懸命国家のためと思ってやっていることが結局は国を混乱に導く事になるのである、即ち誠心誠意国を危うくするのである。

続く

皆さんいかがですか。
思想が如何に大切かわかって頂けたでしょうか。

2014年6月1日日曜日

非常時局読本(第五回)「色盲と同じ思想病患者」

おそるべき思想病。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

20ページより

五、色盲と同じ思想病患者

 思想の病に侵されるとちょうど色盲になったのと同様で、自分では一向病気である事を認識せず、紫を見て赤と信じ、黒い物を紫と信じ切るように、それと同様に誤った考えを持ち、しかも自分が正しいと信ずるところに思想病の非常な危険性があるのである。一堂に集まって同じ話を聴いていても、その理解と解釈は異なるのである。思想の違う者は実は観念上全く別々の世界に住んでいるのである。ある者は月の世界に住んでいるような観念を持ち、またある者は地球に住んでいるという観念を持っている、そしてその自分の観念を土台として全てを考え、全てを判断し、また物の正邪曲直をも判断して行くのであるから、つまり観念上全然別々の世界に住んでいる訳である。故にどうしても事物に対する考えの合い様がない。そこで意見が衝突するのが当然である。しかも自分の考えばかりが正しくて他人のが間違いに見える。つまり自分が色盲であることに気が付かないで、赤だ紫だと喧嘩をしているのと全く同様であって、しかも正しい眼の人が少なくて色盲の方が多いと正しい者の方が悪人だとしてしまわれるのである。今日の日本は思想的に色盲の者が非常に多いのであるから、自然善悪が反対に見られている事が頗る多い。先ずこれらの者を思想病院に入院せしめて自分が色盲である事を自覚させる事が絶対に必要である。
 現在日本人の中にはいわゆる黒い眼鏡を掛けてファッシズムを正しい思想と信じ切って、不知不識の中にドイツ人やイタリア人になり切って精神的の戸籍はかの国に転籍している者がある。また赤い眼鏡を掛けてこれが正しい人の道だと信じ切って、あたかもロシア人の気持ちで日本に住んでいる者もある。あるいは緑の眼鏡を掛けて、これが一番正義だと考えて、イギリスやアメリカやフランスに住んでいるのと同様の気持ちを持って、日本に住んでいる者をある。また一方には正しい白い眼鏡を掛けて日本精神の下に正しい観念と信念とを持っている者もある。そうしてこの人々が卍巴になって思想的に戦っているのである。しかも各々は自分が色眼鏡を掛けて世の中を見ていることに気が付かないから喧嘩になり、非常時になるのである。各々が自分は色眼鏡を掛けている、自分は色盲であるということに気が付いて、即ち日本国体の本質の閃きを感ずると反省というものがそこに生じて来て、それで互いに一致点を持ち得るようになるのである。先ず思想の正しい方に引き戻さなければ即ち統制しなければ色々のことを話して見た所で二つの平行線と同じことで何時まで話をしたって意見の合うことはない。平行線が何処まで行っても合致点がないと同じように、思想の違った人間は何処まで話して見た所で、考えの根本が違っているのであるから合致するということはないのである。
 大震災の時分に大杉栄の妻君だったか、あれが憲兵隊に喚ばれて調べられた時に「あなた方と私共は思想が違うから考え様が百八十度違っております。あなた方が正しいとお思いになることは私共から見れば正しくない。あなた方が悪いと思っておられることは私共から見れば正しいのです。そういう訳でありますから、何ぼ話してもお分かりになりますまい」ということを言ったそうであるが、そういう風に思想の根底が違っていると、考えというものは一つも合わない。人の考えの根底を支配しているものが思想であるから、その思想に、即ち根底に間違いがあると何を言っても間違って来るのである。それであるから日本精神がなければ今日の全ての出来事に就いて日本人としての正しき判断、正しき認識理解をなし得ないので、あるいはロシア人式にあるいはイタリア人式にあるいはイギリス人式に物を判断し理解し、それを正なりと信ずる様になり、国内の出来事に対して正邪曲直の違った判断をするので世の中は混乱に陥いるのである。それで一番最初にまた絶対に統制しなければならぬものは産業より何より先ず思想なのである。さすれば他の事は全部派生の事項であって、漸次に統一されて来るのである。全く思想病者は自分で思想病に罹っている事に気がつかずして、無病の者を悪思想と思っているのであるから一番危険で困るのである。

続く

恐るべき思想病は現在も罹患している人が大勢いる。