2017年1月9日月曜日

帝国憲法制定の精神 二

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
5ページからの引用です。

 これから憲法制定の由来を申し述べます。話の順序としてはあるいは諸君のご承知のことを申すかもしれませんが、なるべくそういうことは簡単に話すことに致します。世は王政維新となり明治の政府となるや、明治元年の三月に 明治天皇は天神地祇皇祖皇宗に御誓いになって五箇条の御誓文を御示しになった。それが即ち日本の国是でありまたそれが日本の憲法政治の淵源である。この五箇条の御誓文の沿革もまた非常に長い、また非常に必要な事でありますけれども、これは省略致します。
 さてこの五箇条の御誓文の中に「広く会議を興し万機公論に決すべし」という一箇条があり、また他の箇条には「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」ということがある。これは諸君のご承知の通りこの二箇条から憲法政治が出てきている。また議会も生まれてきている。しかして議会を開くについては憲法が必要である。さて憲法が発布せられ議会が開かれた後の政治は如何にするかということは 明治天皇の御思し召しでは「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」とあって、世界中から智識を取り入れて、日本の皇基を振起せよとこういう御思し召しであらせられたと恐察し奉る。それ故に日本の憲法学者が皇基即ち皇室の基礎を知らずして、徒らに欧米の学理をそのまま日本の憲法に応用した時には、恰も基礎工事を施していない地面に鉄筋コンクリートのビルディングを建てるようなものである。蓋し憲法を布き議会を開きて立派な政治を行わんとするならば、先づもってその基礎は泥であるか砂であるか或いは岩であるかを知って、然る後に高層堅牢なる建物を造るべきである。然るに日本人は往々ヨーロッパ、アメリカに行くと、かの国の文明と学問の進歩に目を晦まして、我が日本の歴史及び国体を軽視し、徒らに外国の学術の理論を盾として日本の憲法を論議する者がある。この事が即ち全ての間違いの本である。  明治天皇は「智識を世界に求め」よと仰せられたけれども、それは何の為に求めるのか、「大いに皇基を振起」する為だと御沙汰になっているではないか。然るに欧米に留学する日本人中に唯智識を世界に求める事にのみ熱中して、学問の大目的たる皇基を振起する事を忘るるものがある。蓋し日本国民として、そういう誤りたる考えであったならば、立憲国の国民となる資格はないと思う。
 さて日本で誰が一番早く憲法政治について研究したかというと、それは伊藤公である。伊藤公は明治三年に憲法政治ということを既に念頭に持っておられたのである。それは事実が明らかに示しております。明治三年閏十月三日に伊藤公は政況及び財政調査のためにアメリカに行かれた。その時にアメリカの大統領及び国務長官と話された際には、日本も世界の仲間入りをしたについては、諸官衙(かんが)の構成も欧米各国の通りにしたいが、先づアメリカの組織を調べに来たと言われた。それから段々にアメリカ政府の官制などを調べられた。その時の国務長官はフィッシュという人であった。この人が各省の官制というものはアメリカの憲法を本として制定せられてあるからこの成典(Statute book)から研究なさいと言うてその書冊を贈与された。そうしてアメリカ政府がこの憲法を作るに当たっては、独立戦争の後、政治家も学者も国民も非常に研究した結果、漸く憲法ができたのである。憲法政治を実施するについてはアメリカの政治家ハミルトン、マデソン、ゼイの三人が申し合わせて憲法を起草した。然れども憲法政治を実施するについては国民を教育しなければならぬと思うて、この三人が外国の例を調べてパブリカスという匿名で印刷物を出版し、これを称して「フェダラリスト」(Federalist)というた。「フェダラリスト」は共和という意味であります。その後憲法が実施されてからこの書類を一括して書籍となした。これが今日アメリカ憲法を講究する第一の教科書になっておる。これをお読みになれば如何にして米国民の祖先が憲法を起草したかが分かる、と言って伊藤公にその本を贈与した。故に明治三年に伊藤公がアメリカでこの本を貰われて以来、これについて研究された。しかして枢密院で憲法の会議の終わりになるまで常に座右に置いて、何か問題が起こればその本を繰り返し読まれた。ほとんど二十年間座右を手放さなかった本であります。私は明治九年ハーバード大学に於いて憲法を研究する際、この「フェダラリスト」は憲法の研究には最も必要であるから、これを読めと言って、私の先生から教えてもらいました。故に日本で誰が一番早く憲法政治について研究されたかというと、それは伊藤公である。
 次に明治七年一月前参議後藤象二郎、板垣退助、副島種臣、江藤新平等が民選議員開設の建議をなしたるより、世論は議員政治の事を講究するに至りました。
 次に明治七年の三月七日二、宮内少輔吉井友実が宮内省を罷めて、ヨーロッパに視察に行かれた。それは何のために行かれたのか、私も段々調べましたが分からない。吉井は自費で洋行したことになっているけれども段々調べて見ますと御内帑金を賜っている。そうして帰朝の後拝謁して 明治天皇に捧呈されたのが、イギリス人アルフィヤス・トッドが著述した「英国議院政治」(Parliamentary Goverment in England)と言うこの原書である。しかしなぜにこの「英国議院政治」という洋書を捧呈されたか、その理由はいろいろ調べましたけれども少しも分かりませぬ。しかし諸君のご承知の通り、イギリスの憲法はイギリスの歴史の中に包含せられてある。故にイギリスの歴史を知らなければイギリス憲法は分からないことが、この書物に詳細に記述してある。
 次いで明治八年に元老院が創立され、その翌九年の九月六日に 明治天皇は当時の元老院議長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を御学問所に召されて、勅語を賜った。その勅語は
  朕爰(ここ)に我が建国の体に基づき広く海外各国の成法を斟酌し以って国憲を定めんとす。夫(そ)れ宜しく汝らこれが草案を起創し以って聞かせよ。朕将(まさ)にこれを撰ばんとす。

 日本の憲法は最初は国憲と言っておりました。元老院の憲法取り調べの委員は国憲取り調べ委員と称しておりましたが伊藤公が憲法起草の大命を拝してから憲法ということになりました。この勅語の依れば日本の憲法は 明治天皇の叡慮にある御方針を以って起草せよ、とお沙汰になったものである。即ち憲法は日本の国体に基づいて起草せよ、外国の憲法は斟酌して、悪い点があるなら捨てて、良い所があったらなら取れという仰せである。しかしてここに驚くべきことは、この勅語を有栖川議長宮に下し賜い、これに依ってよく研究せよと仰せになって、御手づからこれを御下賜になったことである。当時憲法に関する書類は数多(あまた)ある中に、独りこのアルフィヤス・トッドの本を御下賜になった御思し召はいかがであるか分からないけれども、或いはイギリスの憲法は歴史の中にあるからこれを研究して憲法を起草せよとの厚き御思し召ではなかったと私は恐察し奉ります。
 さて明治九年に憲法起草のことを元老院に御沙汰になると、日本国中憲法政治憲法政治と言って憲法に関する外国の書冊を研究するようになった。この時最も勢力のあったものは、フランス人モンテスキューの書いた「万法精理」(Spirit of Law)である。これは主権民
にありという原則から書いた書冊で、行政、立法、司法は各々独立して三権鼎立すべきものである、互いに相干犯せざるを以って憲法政治の骨子とするというのである。これは一時ヨーロッパ、アメリカを風靡した学説で大いに人心を指導した。この書は長崎人何禮之が日本語に翻訳したものである。それからまたフランス人ではルーソーが書いた「民約論」(Social Contract)これは中江篤介が翻訳したものである。この二書はなかなか広く読まれたものであります。当時わが国ではモンテスキューの三権分立論とルーソーの「民約論」が最も人心を風靡したものであります。
 この時に当たりドイツ学者と世に評判せられた東京大学総理の加藤弘之がドイツの原書を基としてドイツの学説を日本に紹介した。それは「真政大意」と「国体新論」という書冊でありました。これもまた当時広く読まれました。当時の東京府知事は府会議事堂に加藤弘之を招請して、「国体新論」の講義を公衆に聴かせた。私はその説には感服しなかった。果たせるかなこの「真政大意」と「国体新論」に対して世人の非難の声が囂々(ごうごう)として起こって来た。その言う所に依れば苟(いやしく)も官吏である東京大学の総理(今の総長)の地位にある者が天賦人権論に依り国体に反する議論を唱えることは、怪しからぬと言って非常な攻撃であった。海江田信義の如きは東京大学総理として斯くの如き論を為すことは不都合である、加藤の説は国体に反している、我輩は自ら加藤を処分せんと言って憤慨した。また世古某は三條太政大臣に建白するなど随分やかましいことであった。そこで段々加藤も考えたと見えて自分が「真政大意」と「国体新論」を著したのは全く自分の学問が足らなかったためであった、あのような謬言妄説を世に流布して、後進を誤っては申し訳ない次第であるから、私はあの二つの書物は滅版にしますと内務省に届き出で、また長い文章を以って滅版の理由を書いて、新聞紙に広告した。そこで内務卿の山田顕義は、明治十四年十一月に加藤のこの二つの書物を、発売禁止を命ずることにした。
 これより先、明治十二年の夏、先の北米合衆国の大統領グラントが、家族を連れて世界漫遊をしたその帰途に日本に立ち寄った。日本では前大統領のことであるから、皇室の御待遇、政府の接待は実に非常に慇懃を極めたものである。そうして 明治天皇は浜離宮にグラントを召されて午餐を賜った。その陪席者は三條太政大臣、岩倉右大臣及び諸参議であった。午餐の後、只今も浜離宮にある中の島の御茶屋で珈琲や煙草を召し上がりつつ 明治天皇は色々政治上の事についてグラントに御下問になった。その時グラント将軍は、承る所に依りますれば日本も国会開設の議論がある由、何れ憲法を御制定になることと存じますが、何事も忌憚なく言上せよとの御沙汰であるから申し上げます。日本の憲法は日本の歴史及び習慣を基にして御起草遊ばさるることこそ願わしく存じますと言上した。これは余程 明治天皇の御思し召に適った様に拝します。この事はグラント将軍の秘書役たるヤングが書いた「グラント将軍世界漫遊記」の中にも書いてあります。
 明治十三年十二月かつて勅命を以って起草に従事した国憲の草案が、元老院議長大木喬任から三條太政大臣を経て上奏された。そこで三條太政大臣から各参議に対して意見を徴された。その意見はなかなか参考になることがたくさんあります。けれどもここに一々申し申しませぬ。ただその結論だけを述べますれば、国会開設なお早しという説が多数である。またある人はこの国憲草案にはまだ不備の点があるから、再調すべしという論を述べた者もある。とにかく各参議の意見書は出ましたが、一人大隈参議だけが出さない。再三催促されて初めて出された。それが明治十四年三月です。今の方々はこういうことは御承知ないでしょうが、昔の参議は直接 陛下に書類を奉呈することはできないもので、今の次官が直接奉呈することができないのと同じでありまして、昔の参議は 陛下に奏上したりまた書類を差し上げて御裁可を請う時には太政大臣か左右大臣かを経るのほかは参議は御前に出られないのであります。参議はいわゆる参議であって太政官の議に参画するだけで上奏をしたり勅裁を請うたりする権限はない。依って大隈参議は有栖川左大臣宮に意見を出された。有栖川宮は大いに驚かれ岩倉右大臣と謀り伊藤参議に相談せられたから、伊藤参議は三條太政大臣を経て 陛下のお手許にある大隈参議の意見書の御下渡しを願い出られて、奏議全部を自ら書写されてその末文に「明治十四年六月二十七日三條太政大臣に乞うて 陛下の御手元より内借一読の上自写之博文」と認められた。この書類は伊藤家の秘書の内に保存されてある。これは海軍中将刑部齋という人が本書と少しも違わないように印版せられている。
 さて大隈参議の意見書が 陛下の御手許までいったか否かについて従来不明であったから、先年私は大隈さんに会って、あなたの意見書は有栖川宮の所に留まっておったのかまた、陛下の御手許にいったのかと尋ねました時、大隈さんは僕はその事は知らぬ、僕はただ有栖川宮に差し上げたのみ、それから先はどうなっておったか知らぬと言われたことがありましたが、実は 明治天皇の御手許に達しておった。とにかく伊藤公は大隈参議の意見書を見て大いに驚いた。この大隈参議の奏議は第一より第七までに分かれた長文でありますから、これを述べることは省略します。その中にある第五、明治十五年末に議員を選挙し、十六年を以って議会を開くべき事につき伊藤公は驚いた。斯くの如き重大なる事件を内閣の同僚にも諮らず単独に密奏を企つる者とは席を内閣に列することはできないと言って辞表を出された。これが大騒動になって大隈参議は職を罷め、そうして明治二十三年を期して国会を開くという詔勅が出た。これが明治十四年の十月である。以上が日本の憲法政治の十四年までの沿革であります。

次回に続きます。憲法とは国の最高法規というよりも、「その国の歴史伝統文化を基に最上と思われる国のかたち(統治のかたち)」であるとわかります。