2017年11月2日木曜日

十七條憲法 第二条 仏教は国教だった

二に曰く、篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、即ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

 二に言う。篤く三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは仏、法理、僧侶のことである。それは命あるもの全て(四生とは胎生、卵生、湿生、化生という仏教における生物の分類)の最後のよりどころであり、全ての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理を貴ばないことがあろうか。人ではなはだしく悪い者は少ない。よく教えるならば正道に従うものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によって心を正せるだろうか。

 ここで聖徳太子が言いたいのは、仏教を日本の国教とするという宣言です。イギリスでは国教会があり、アメリカでも大統領の宣誓はキリスト教の聖書に触れながら、行われるように、欧米でも国の中で宗教は重要視されています。なぜ宗教を大切にするのかということですが、第一は国民の道徳を保つためです。
 新渡戸稲造が外国人に聞かれたそうです。「欧米ではキリスト教によって道徳が守られているが、日本ではどうしているのか?」と。
稲造はその時言葉につまり、その後思い返して日本人の道徳を保っているのは「武士道」だと気付き、書いたのが英語で書かれた『武士道』です。
 聖徳太子は、豪族や官僚、一般国民の道徳の低下を嘆いていたのでしょう。天皇の暗殺が(崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された)起きるような世の中です。風紀が乱れていた可能性は高いです。
 次に、神道との関係です。十七条憲法の中で神道についての記載はありません。その場合、書いてない理由としては二つ考えられます。一つは書く価値も意味もないという場合、もう一つは当たり前過ぎて書く必要がない場合です。
 どう考えても神道が軽視されるはずがありません。そうなると当たり前過ぎてという理由になります。神道とは日本国にとって正に「国体」そのものです。つまり神道は日本の憲法の根本そのものです。だからこそ、十七条憲法には書かれていないのです。
 仏教を国教にしたとしても、国の憲法の基礎そのものである神道の上に国民の道徳を守る目的で仏教が乗っかっているだけなのです。だから、仏教が神道を押しのけている訳ではないのです。
 聖徳太子のような哲学者であれば、仏教のような宗教がなくても道徳は守ることは可能です。しかし、そこまでの知恵者はほとんどいません。そうなると、「信じる」ということにして、道徳を守らせることが重要になります。道徳とは「嫌なことを我慢する」ためのものではありません。道徳とは「その人自身が適度な自由を持って幸せに生きる」ためのものです。

 国の統治の根本に「道徳」が必要であると聖徳太子は考えていました。今の日本にもこのことは必要と思われます。大日本帝國憲法の時はその道徳維持のために作られたのが、「教育勅語」でした。次の憲法の改正時には道徳に対する政策も必要になるでしょう。
 

2017年6月29日木曜日

十七條憲法 第一条 相手を尊重しつつ議論することが大切

聖徳太子の定められた十七條憲法について書いていきます。

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴(たふと)しと為し、忤(さから)うこと無きを旨と為(せ)よ。人皆黨(たむら)有り、亦(また)達(さと)れる者少なし。是(ここ)を以て、或は君父に順(したが)わず、乍(また)隣里に違(たが)う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)わば、即ち事理(じり)自ずから通ず、何事か成らざらん。

最初の文については最後に述べます。
まず人は皆考えが近い者で集まり、その集団が複数できてしまう。また複雑な事を考える事ができ、世の中の真理に近づける者つまり賢者、哲学者はいつの世もとても少なく、ほとんどの人たちは、そこまでの知恵を持っていない。そうなるとどうなるか?集団同士で相争い、そして多くの人たちは、賢者の言うことを理解できず、やはり相争うことになってしまう。そうなると、天皇に臣民が従わず、父に子が従わず、村同士で争うような状況になってしまう。
しかし、天皇や父が優しくなり、臣下や子どもが仲良くしようとし、何事も話し合うことができれば、物事の真理が自然と通じるようになり、どんな事もうまくいくようになる。
(そして最初の文は同じ内容を繰り返しています。)
お互いに争わないようにすることが一番大切である。

というような意味です。

イギリスの議会制民主主義での議会のようなものを思い描いているように思えます。
イギリスでは国会で激しい議論をした後でも、与野党と仲良く会話することができると聞きます。
昔から、子どもの頃から、相手を尊重して議論するという習慣が出来上がっているのでしょう。
「相手を尊重するという前提の中で、議論する」
世の中の全てを論理で説明することはできません。
論理はあくまでも世の中を説明するための道具に過ぎないので、一部を説明することが可能なだけです。
だから、「相手を論破する」ことはあまり意味をなしません。
絶対的な論理を得ることはできないのです。
議論の中から、お互いに世の中の真理を垣間見るのがせいぜい出来ることです。
でも、それが大切なのです。

明治に帝国憲法ができ国会が始まってから現在まで、国会で意味のある議論、日本国をどのような良い国にするか、日本国民の正義とは何かという議論ができたことがあるのでしょうか。
今の国会を見ていても、与党と野党がただ敵対し、日本国としてどのような国にしたいのか、日本国民としての正義は何なのか、などは議論されません。
そのような複雑で高度で真摯な議論ができる国会議員も少なさそうです。
正に衆愚政治です。
聖徳太子の時代から、日本人は「相手を尊重しながら議論をする」ということがおそらく苦手だったのでしょう。
そして、議論の合わない相手を殺してしまう。
崇峻天皇が蘇我馬子に殺意を抱いたため、すぐに蘇我馬子が東漢直駒(やまとのあやのあたいのこま)を使って崇峻天皇を暗殺させ、すぐ東漢直駒を殺し、証拠隠滅をした。
意見の合わない人はすぐ殺し合って時代だった訳です。
聖徳太子は日本人が苦手なことを克服してこそ、良い国になると考えたのではないでしょうか。
今こそ、日本国に生まれた賢者は、思想や政治、法の分野に参加し、相手を尊重しながら一人ずつゆっくり議論する必要があると思います。

こういう話は、英米文化圏にしか通用しません。
ロシアや中国、朝鮮ではこのような話は永遠にできないと思います。
これらの国は強いか弱いかしかないからです。
「相手を尊重する」の意味もわからないでしょう。

殺し合わず、相手を尊重して議論する文化を作り上げましょう。
しかし、サヨク・リベラル思想の人とは議論ができません。
なぜなら、サヨク・リベラル思想の人は、「〜は〜である」という言葉に縛られ続け、物事を多角的に考えられないからです。
例えば、「戦争は悪である」と一度信じたら、自分や家族を守るために戦争をせざる得ない状況でさえ、それを否定し、自分が殺されても、自分の考えの間違いに気づきません。
サヨク・リベラル思想の人は議論できないからと言って、殺してはいけません。
しかし、サヨク・リベラル思想の人を権力のある地位から追い出さなければなりません。

議論できる保守勢力を強くしていきましょう。

2017年6月25日日曜日

帝国憲法制定の精神 六

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
52ページからの引用です。

 以上は日本憲法制定の精神と欧米各国学者政治家の批評であります。それでこれを一言にして申せば、日本憲法は 明治天皇の遠大なる叡慮により国体に基づいて、海外諸国の憲法を斟酌し、その長を採り短を捨て、我が皇基を振起せよとの五ヶ条の御誓文を畏(かしこ)みて起草せられたものである。故に日本の歴史及び国体を知らずして日本の憲法を解釈線とすることはそもそも間違いである。従来日本の憲法学者のいろいろ著述した書冊を見ましても、日本の憲法がその歴史と国体とに鑑み、また欧米の憲法史及びその論理を研究して起草されたものであることを深く調べたものあるを見ることができない。ただ欧州の憲法学者または法律学者の理論を根拠として解釈するもののみ。この不磨の大典は日本の歴史を咀嚼し、かつその起草の沿革を熟知するに非ざれば、決して正当なる解釈をなすことはできないと思います。
 先年アメリカから取り寄せました。「モダーン・ヒストリー」(近世史)という書物を読みました。この本はコロンビア大学の教授で歴史の専門家であるヘイ、ムーンという両人が合著したものでありまして、つい五、六年前の事まで書いてあります。その中に非常に私に感動を与えたことがありました。その句に曰く、欧州大戦に於いて、彼の国威赫赫(かくかく)たるドイツ帝国は亡び、ロシアも亡び、オーストリアも亡び、三大帝国は亡びてしまった、今日ヨーロッパに残っている帝国は、イギリス、ベルギー、イタリア等の諸国を算するのみである、しかしこれらの諸国は帝国というのも名のみであって、その実は民衆主義が権力を持っておる、ここに目を転じて全世界を見れば、神聖不可侵皇帝の在すは、ただ独り日本帝国一カ国のみと。神聖不可侵皇帝はただ独り日本帝国あるのみと近世史を書いたヘイとムーンの二学者が言っておる。私は早速丸善に言い付けて五、六十部取り寄せるように言っておきましたから、諸君が彼の書店にお出でになったらありましょう。
 これを要するに日本は世界無比の帝国でありまた世界無比の憲法を有しておることは、我々大和民族の非常な名誉でありまた誇りである。しかるにこの名誉と誇りを損なうような憲法の解釈を弄することは、甚だ遺憾に耐えない。私は豈(あ)に徒らに弁を好む者ではないが、ただ憲法制定の残存者の一人として 明治天皇の偉大なる宏謨(こうぼ)を奉戴し、伊藤公がその卓見をもって起草せられたることを、諸君に説明する義務を尽くさんと欲するのみである。我々日本臣民は全力を尽くしてこの不磨の大典の憲法を擁護しなければなりませぬ。これが日本帝国の臣民として 明治天皇に対し奉る義務である。蓋し日本の憲法は 明治天皇の御代までは成文としてはなかったが、その精神その原理は、二千五百有余年間天日の如く炳乎(へいこ)として儼存(げんそん)しておった。それが一度 明治天皇の叡慮によって成典となって現るるや、世界の政治家、憲法学者が異口同音に賞賛の声を放ち、また立憲国の淵源(えんげん)たる英国の憲法学者は、日本の憲法以上の憲法は我々に於いて起草すること能わずと、賞賛嘆美の言葉を惜しまなかった。これ偏(ひとえ)に 明治天皇の御稜威(みいつ)の然らしむるところであると誠に感激に堪えざる次第である。よって何卒この光輝ある憲法、この世界無比の憲法が、少しもその尊厳を毀損することなく、益々その光彩を発揮せんことを、我々は日本臣民の義務として諸君と共に粉骨砕身して力を尽くしたいと思います。
 今日は炎暑の際長時間に亘り清聴を汚しまして誠に恐縮に存じます。終わりに臨んで今日私をして一場の演説をお与え下さった松田文部大臣閣下に対しても、厚く御礼を申し上げます。

(終わり)

 これは昭和十年七月の講演の内容です。その十年後に敗戦となり、 GHQと国内の共産主義者らによって不磨の大典の帝国憲法を改正させられました。この帝国憲法を守れなかったのは日本国民の責任でもあります。戦前も戦後も日本では憲法学者は頼りになりません。イギリスではなく、ドイツやフランスの大陸系の憲法学ばかり勉強しているから、わからなくなるのです。この金子賢太郎伯爵の講演録を読み、日本の歴史を学び直してから日本の憲法をどうすべきかを考えてもらいたいです。憲法のことは憲法学者や政治家に任せるのではなく、一般国民もそれなり勉強するべきと思います。その時にこの講演録が参考になれば幸いです。

帝国憲法制定の精神 五(下)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
46ページからの引用です。

 次にイギリスに渡りました。予(かつ)て懇意なるハーバート・スペンサーを直に訪(おとな)うて、一週間程前に送って置きました日本憲法について貴下の意見を聴きたいと申しましたところ、同人が大体または各条について縷々(るる)述べました批評は今ここには省略しまして、結論だけはこうであります。

 日本の憲法は日本の歴史と同一の精神及び性質を有するにあらざれば将来これを実施すすに当たり非常なる困難を生じ、遂に憲法政治の目的を達すること能わざるにいたらん。蓋(けだ)し日本の憲法は欧米諸国の憲法を翻訳し、直にこれを採用して外国と同一の結果を得んと欲するは誤解の甚だしきものなり。今この憲法を一読するに日本古来の歴史、習慣を本とし起草せられたるは、余の最も賞賛するところなり。
 次にオックスフォード大学の憲法講座を持つアンソン法学部長に面会しました。この人はドイツでも、フランスでも、米国でも、アンソンの憲法上の議論とあらば、皆耳を傾けて聞くと言われる程の憲法のオーソリティー(権威者)であります。この人には私は二回も会って彼の質問に答え、また私も意見を述べましたが、それを総括して申しますと。
 
 日本憲法の精神は主権者の大権は悉く 天皇にありて 天皇が万機を総攬し給うにあり。これ世人は日本憲法を評してドイツ主義を学びたりと言うといえども、英国憲法を遠く古(いにしえ)に溯(さかのぼ)って深く研究すれば、その精神もまた実にこの精神に他ならざるなり。これ世人が英国政治の実際にのみ注目して、英国憲法の歴史とその精神とを識別せざるに依るなり。 
  
 これを要するにアンソンの意見は日本の 天皇が大権を総攬遊ばされるのはイギリスで国王が中心に成って居らるる憲法の歴史と同じである。その点は日本もイギリスに似て居ると言うのであります。
 次は同じくオックスフォード大学の憲法学者ダイシーと面談しました。この人は、日本が財政についてドイツ流を採用したことを賞賛しました。
 曰く、
 
 日本憲法中、財政についてドイツ流を採用して、イギリス議会の財政監督権を採用せざるを見て、大に日本憲法の強固善良なるに敬服す。憲法第六十七条の如きは英国の例に倣(なら)わず、ドイツ皇帝が法律に依らず財務行政に依って数多の財政処分を為すことを得る例に倣い、財政案議決権を帝国議会より減殺し、永久経費を削除軽減することを得ざらしめ、以って国家に必要なる政務を処理継続することを得せしめたるは、日本の将来に大なる影響を及ぼすのみならず、憲法学の原理を確定するに至らん。これ英国の憲法より日本の憲法が一層優秀なるものとして余の感服するところなり。もし余をして新たに憲法を起草せしめんか、この日本帝国の憲法に依るの外なきなり。

 ダイシーは世界に雄名を轟かしたる憲法学者である。この人にしてもし新たに興る国より憲法を起草せよと頼まれても、伊藤公の起草せられたる憲法以外に筆を執ること能わずというのでありまして、日本憲法は非常な好評を博したのであります。
 次にオックスフォード大学の公法教授ゼイムス・ブライスに面談しました。この人は縷々グラッドストンの内閣に列したる人である。この人の意見書は長文でありますからその結論だけ申します。

 日本憲法は全体より評すれば、慎思熟慮を費やして起草したるものと言うべし。就中(なかんずく)その条章の簡約にして能く詳細の規定を避けたるは、起草者の深く注意せしところなるべし。殊に重大なる権力を 天皇の統治に帰し、陸海軍統帥の大権と共に国務上の大権を総攬し給い、英国の君主よりも多くの行政命令発布権を 天皇が有せらるることを明記したるは起草者の賢明なる識見なりと感服す。
 
 それから帰途再びアメリカに立ち寄りマサチューセッツ州の大審院院長ホームスに面会しました。この人はかつてハーバード大学にて法律学の講師時代に私に法律学を教えた先生である。この人の批評の要領を述ぶれば、

 憲法学の原理程各種の法律学に於いて不定にして且つ不強固なるものはあらざるなり。故に憲法学の位置を称して変遷の時代にありという。この見地より日本憲法を見れば、余が最も賞賛するところは日本古来の歴史、制度、習慣に基づき、しかしてこれを修飾するに欧米の憲法学の論理を適用したるにあり。蓋し欧米の憲法は欧米諸国には適当なるも欧米と歴史を異にする日本国には適応せざるなり。

 このホームスの意見の要点は憲法ほど原理の定まっていないものはない。また憲法は移り変わるものである。故に外国の憲法を翻訳してそのまま之を行うということは大間違いである。いずれの国にもその国固有の歴史習慣があるから、それを土台として憲法を作るのが当たり前である。そこを伊藤公が見破って起草されているから感心するというのであります。
 次にハーバード大学の憲法の講義を受け持っているサヤー教授に面会しました。この人は私が先年米国留学中彼の大学にて法律学を教わった先生であります。この人の評がありますが、長いから省略して結論だけ申します。

 日本憲法第六十七条の憲法上の大権に基づける既定の歳出とは即ち第十条の 天皇は行政各部の官制及び文武官の棒給、第十二条の 天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定むるという二項に関する歳出なり。元来 天皇の御趣旨はたとい憲法を制定して立憲政治を実施すると雖も、国防及び内外の政務については、政府は旧来の如く百年一日の如く継続して、専ら国家の存続を図るをもって第一の目的とすべきものなりというにあり。

 これを要するにサヤーの意見は文武官の棒給、陸海軍の常備兵額の如きものは、たとい議会が解散になろうとも、規定の歳出は前年度の予算を施行することを得る様に規定せられて、百年一日の如く国家の存続を完全ならしめられた。よって将来はこの主義により欧米の憲法の原則も変わってくるであろうとまで言うのである。
 私は帰朝の後、これらの事を詳しく伊藤公に報告致しましたところ、伊藤公も耳を傾けて聴いておられましたが、私の報告が終わりますと、伊藤公の言わるるには、我輩は君が出発してから帰って来るまで大磯の別荘で日夜どう言うようにヨーロッパ、アメリカの政治家や憲法学者が批評するであろうかと、内心ビクビクしておったが、今君から詳しい報告を聴いて安心した。ただに非難せぬばかりか賞賛の言葉を聴くに至っては実に悦ばしい。明日は早速上京して 陛下に拝謁を願い憲法起草の責任解除を奏請せんと言われました。しかして翌日は上京し、参内せられました。しかし責任解除の勅命があったかどうかは九重雲深くして私は存じませぬ。その後私も宮中に召され山縣総理大臣と共に御前に於いてヨーロッパ、アメリカの政治家、学者の意見即ちただ今申しました事を一時間ばかり上奏致しました。

2017年5月7日日曜日

帝国憲法制定の精神 五(上)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
42ページからの引用です。

 明治二十二年二月十一日の紀元節に憲法発布がありました。さて憲法できたが議会は如何にして開くかにつき政府はいろいろの準備をしなければならぬ。よって私は欧米各国
の議会の内部の組織及び憲法運用の模様を視察するの必要を建議し、政府はこれを認め
、六月十一日私に欧米派遣の命がありました。よって中橋徳五郎、太田峰三郎、水上浩躬、木内重四郎の四人を随行とし欧米諸国を巡回した。私が出発する以前に伊藤公の言悪るには憲法は我輩が 明治天皇の叡旨を奉じ、君ら三人の他には誰にも相談しないで起草したために、世人は、伊藤がビスマルクの政策に倣い、ドイツの憲法を真似て書いたと言って攻撃したが、決してそうではない、それで君が欧米諸国に行ったならば、彼の国の政治家、憲法学者より忌憚なき批評を聴いて来て貰いたいと言われた。よって私は枢密院において英文に反訳した憲法を携えて渡航しました。
 まず第一にアメリカに渡りまして彼の国の国務長官ゼイムス・ブレーンに面会しました。この人は学者でまた政治家である。アメリカの国務長官の職務として合衆国憲法の解釈及び各州創立の際に於ける州の憲法許可権を有する重要な地位にある人であります。この人に面会致しました時ブレーン曰く、
 「私は日本政府から憲法の英訳したものを受け取ったが、実は多忙にしてまだ読んでいない、聞くところよれば貴下は起草者の一人であるからまず愚見を述べて後にお尋ねしたいことがある。もし今日私が憲法を起草するならばこう言う方針で書きたいと思う。それは自分が四十年間合衆国憲法を研究しまた国務長官として新設州の憲法を許否したる実験によって、こう言う方針を以って憲法は起草すべきものと信ずる。
 第一、憲法は一国政治の基本なるが故に、政治に必要なる大体の原則を掲載し、その細目の如きは悉くこれを省略して普通の法律又はその他の規則に譲るべきものとす。しかるにこの点については英国を初め欧州各国皆誤りてり。何となれば彼の諸国の憲法を制定したるは、全く国家革命の機運に際会し、あるいは人民の強迫によりたればなり。故に原則と細目とを識別せず悉くこれを憲法に掲載したり。
 第二、君主の大権については英国の先例に依らざることに努むべし。英国は大権君主に存せず、彼の国に於いてはこれを最も良法なりと思考するが如し。然れども他国に於いてはその歴史も英国と同一ならざる以上は、これに依るべきものに非ざるなり。
 第三、大臣の責任は英国の慣例に依り発達し来たり、各国皆その流儀に随えり。然れども大臣にして一度君主より任命せられたる以上はその責任は全く君主に対する責任にして、議会に於いて敢えて進退すべきものに非ざるなり。殊に日本の如きは三千年来の君主国なれば大臣の責任は 天皇に対してのみあるものにして、議会の対して有せざることを制定したきものなり。現にアメリカの大統領及び大臣は、国民一般に対して責任を有するも議会に対しては直接に責任を有せざるなり。」
 こう言う方針で私は憲法を書きたいと思うが、貴下は憲法を起草したというが、どういう風に起草せられたかと尋ねられました。依って私は丁度貴官の御意見の通りに伊藤公は起草せられた、我々はそれを手伝った、と申しますと、彼は膝を叩いて、それだけが日本憲法にあれば実はあとはどうでも良い位のものだと言って非常に喜んだ。これがアメリカ第一流の政治家の意見でありました。
 それからフランスに渡って、ルボンという人に会いました。この人はパリの大学で憲法の講座を受け持ち、また上院議長の秘書官でありました。後に農商務大臣になった人であります。この人とは度々会って懇談も致しました。また長文の意見を書いて私に送ってくれました。しかしその意見を述べますれば長くなりますからここでは本人の批評の結論だけ申すことに致します。
 「帝国憲法第十二条に 天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む、第五十五条に国務各大臣は 天皇を輔弼しその責に任ずとある点その他予算についても多少の意見もないことはないが、憲法全般を通じて評論すれば前記の二ケ条を初めとし何も精巧なる編成である。」
と言ったのが、この人の結論でありました。

2017年5月5日金曜日

帝国憲法制定の精神 四(下)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
38ページからの引用です。

 ここに一つ諸君にお話し申したい事があります。憲法の草案は明治二十一年の四月に我々四人にて審査議決し、伊藤公より上奏になりました。そうして枢密院が新たに創立せられて、憲法草案は御諮詢になりまして、同年五月より翌二十二年の一月まで憲法会議が開かれました。この会議には毎回 明治天皇は臨御になりまして唯の一回も御欠席になったことはございませんでした。そうして会議の初めから終わりまで御熱心に議事を聞き召されましたことは、我々御側におったものは実に恐懼の至りにも堪えませんでした。なお畏れ多いことは、我々書記官に仰せられて、その日その日の修正の点を御手許にある草案に朱書きを以って書き込んで奉呈するようにと御意遊ばれたこともしばしばありました。そうして我々が朱字で書き込んで奉呈致しましたものをその晩親しく御研究になりまして、もし御不審の点があれば翌日の会議の前に伊藤議長を召されて御質問になる位に御勉強あらせられました。
 また明治二十一年七月以後の厳暑の際、憲法会議が開かれた時ーその場所は只今の青山離宮内にして、その建物は現在明治神宮外にある憲法記念館ー午後になると西日の烈光が差し込みまして御膝元まで参ります。そうして御膝も炎天の光で照らすようになっている。けれども少しも暑いとは仰せになりませぬ。その時黒田総理大臣がその席に列しておりましたが、恐懼措くところを知らず自ら立って板戸を締めて、御膝に西日の当たるのを防いだ位でありました。また冬の十二月、一月の厳寒の気候になりますとストーブは今と違って一つよりない。広い間は余りにも寒いので火鉢を入れてありますが、顧問官などは誰も皆寒い寒いと言いますけれども、 明治天皇には何とも仰せられない。この如く暑寒共に厭わせられず、憲法会議に御精励遊ばされて、この不磨の大典ができたのであります。
 殊に我々が恐懼に堪えざりしことは、ある会議の日に、侍従が慌ただしく会議室に這入って来て、伊藤議長に耳打ちをした。何事を囁いたのか無論誰も分からない。すると伊藤議長は直ちに立って御側に進み低い声で何事か 陛下に言上された。そうしてまた元の席に還って会議を聴いておられたがやがてその討議も終わり決をを取るや否や伊藤議長はまた立って 陛下に何事か奏聞され 陛下は直に入御あらせられた。入御の後伊藤議長は立って宣告して曰く、実は先刻侍従が来て只今皇子昭宮が薨去せられたから上奏ありたしと言うから、私はその旨を上奏し、昭宮薨去と承る以上は 御上には入御遊ばされ会議はこれにて中止いたしましょうと申し上げたところが 陛下には会議は中止するには及ばぬ、このまま継続して審議中の一条の終わった後、内儀に帰るから、それまでは議事を進行せよ、と仰せられたにより只今まで議事を続け、その一条を議了したからここにここに会を閉じ 陛下は入御遊ばされたのであると。その時列席の人々は顔を挙げることができず皆首を垂れて唯々恐れ入るのみであった。その時我々は 陛下の御意中如何かは分かりませぬが、我々の恐察するところでは、憲法は皇祖皇宗の偉業を御継ぎになって、これを皇子孫に伝え給う国家の大典である。この重大なる会議の中ばに於いてたとえ皇子の薨去ありたりとはいえ、これは皇国の重大政務である。故に御親子の情に於いては忍び給わせられざるところであるが、この会議を中止することは然るべからずとの御思し召しであったであろうと恐察し奉った。そのくらいに憲法制定については、大御心を注がせ給うたのであります。当時目の当たりこれらの光景を拝しました者は今日私一人よりこの世に残存している者はない。私が憲法のことについて今ここに演説するのも、決して弁を好むためではない。また私が憲法起草に関係ありとして、自己の広告をするのでもない。ただ残存者の一人として今日の如く世の一部の学者が憲法の精神を誤解し、謬言妄説を以って後進を誤らしむることは 明治天皇に対し奉って恐多い次第であるから、忌憚なく自分の実験したことを諸君に申すのであります。
 また憲法第十二条の陸海軍の編制及び常備兵額また第五十五条の大臣補弼の責任につき如何に伊藤公が深思熟考し何回となく会議を開きて欧米諸国の欠点を補い国防に充実を完全ならしめられたること、又第六十七条の 天皇の大権に関する既定の歳出につき欧米に先例なき条項を設けられたる沿革及び理由を詳しく申し述べますとこの席では終了しませんから、ここに省略することに致しました。しかし第一条と第四条だけをお話しすれば、それで憲法講習会をお聞きになった趣意に適応すると思います。その他の条章については後日また機会があればお話し申すことに致しまして、これより欧米各国の政治家及び学者が如何に日本の憲法について批評したかを申し述べようと思います。

2017年4月30日日曜日

帝国憲法制定の精神 四(上)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
31ページからの引用です。

 しからばどういう風に、我々は日本の憲法を起草したかということは中々沿革のある事で、短時間には述ぶることはできないから、極めて簡単に申し述べようと思います。
 まづイギリスとアメリカの法律学には三通りある。その一はPhilosophical Jurisprudence(哲学的法律学、あるいは純理的法律学)その二はComparative Jurisprudence(比較的法律学)その三はHistorical Jurisprudence(歴史的法律学)である。我々がフランス、ドイツ、イギリス、その他の諸外国の憲法を調べた時もこれらの国々の憲法を比較して、いずれの国の憲法が日本に当て嵌まるかと調査研究してみたがドイツとも当て嵌まらない。ただイギリスの憲法史上にある基礎的政治の原則という文字は大いに参考の用に立った。これが即ち比較的法律学の効能である。しかして哲学的法律学は民法、商法、刑法、訴訟法などを研究するには最も適当であるが国際公法、憲法の如きは歴史的法律学によるのでなければその真髄を理解することができない。この点については日本の憲法学者は多くその歩み出しから誤っていると思う。また憲法学の原理は欧米各国を通じて一定したるものなければ憲法は歴史的法律学で解釈しなければその肯綮(こうけい)にあたるものでない。先に申しました通り各国各々その憲法は異なっている。それはそのはずである。憲法はその国の発達の歴史によって変遷して行くものであるが、イギリスには憲法という成典はない。憲法的歴史はある。それであるからイギリスの憲法を知らんと欲せばまづその歴史を熟知しなければわかるものではない。ドイツの碩儒の著した法律書中の理屈でイギリスの憲法を解釈しようとしてもその当を得るものでない。いわんや我が日本の如く二千五百年有余年連綿たる万世一系の 天皇がこの国に君臨して、統治権を総攬遊ばれておらるる国においてをやである。それをドイツの憲法学の理屈で日本憲法を解釈してはその精神および真髄を知悉すること能わざるは当然のことである。憲法は歴史的法律学を以って解釈するにあらざればその真髄を得ること能わざるから、我々は即ち筆を執って、歴史的法律学の識見を以って憲法を起草し始めた。決して哲学的法律学の理論によって起草したのではない。
 そこで我が日本の憲法はどう起草するかという問題が起こる。これは既に明治九年 明治天皇が有栖川元老院議長に賜りたる勅語に「朕爰(ここ)に我が建国の体に基づき広く海外各国の成法を斟酌し」とあるから我々は勅旨のあるところを奉じ国体を本として起草したのである。即ち第一条と第四条がそれである。よってこの二か条を熟読し日本の歴史を講究し、我が国体に基づきて憲法を解釈すれば天皇機関説の如き誤りに陥ることは決してない。しかるにこの二か条を熟考せずにただ外国の憲法論の理論によって我が憲法を解釈しようとするから、そこに大なる誤りを生ずるのである。さて第一条にはどうあるか。
 第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す
これが日本の国体である。そこで統治の有様はいかがであるかといえば 
 第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規によりこれを行う
統治権の施行については各種の官衙(かんが)に分かれているけれども 天皇は国の元首としてその最高位にあらせられて、これを総攬し給う。その統治権施行の区別は内閣、枢密院、参謀本部、軍令部、司法権を行う裁判所、会計検査院とする。これらは皆 天皇に直接隷属している。これが日本帝国政府の組織である。この組織は日本の建国以来の国体に基づきたるものである。
 しからば国体については、何という書によればよくわかるかという論が第二に起こりますが、それについては「大日本史」が随一であるがこの書は大部なるがため、簡単なるものを挙ぐれば、北畠親房の「神皇正統記」、水戸の烈公の書かれた「弘道館記」、それを解釈した藤田東湖の「弘道館記述義」、会沢正志斎の「新論」など何も日本の国体をよく書き表したものであります。ことに水戸公園の中に徳川烈公の起草されたる「弘道館記」の碑が立っておりますがその碑文の中にこういうことが書いてある。これが日本の国体を最も簡単明瞭にわずか数十字で書いてある。今ここにこれを読み上げます。
 恭しく惟(おもい)みるに 上古 神聖 極を立て統を垂れ 六合を照臨し 宇内(うだい)を統御せらる 寶祚(ほうそ)之を以って無窮 国体之を以って尊厳
と記されてある。凡そこの文句くらい我が国体を簡単明瞭に書き現したものはない。日本の憲法学者中「弘道館記述義」につき日本の国体を研究した人が幾人あるか尋ねたい。
 之を要するに以上の文句の趣意に基づき日本の憲法の第一条と第四条は書かれたものであります。前にも申し述べましたが国体という文字は日本に限った特殊の政治語であって欧米にはない文字である。それはないはずである。世界広しといえども、日本のような国は他に類例がない。同じような国が世界にない以上は、この文字もまた出てくる由もない。故に日本の国体の意義は日本人自らこれを解釈するの他はない。そうしてその解釈は日本の歴史によるの他はない。決して欧米の書籍につき捜索しても見い出すことはできない。
 明治十七年から二十一年まで憲法起草の任に当たって伊藤公はもとより井上、伊東及び私共は、夜の十二時過ぎまでも議論を闘わしたことがあしばしばありました。そうして時には長官と意見を異にすることもありまして、我々共は堅く自説を採って譲りませぬと、伊藤公も癪に障ると見えて、君ら如き幼弱な者に何が分かるか、と言われる。私共のことを幼弱な者だと言われるのです。よって私共も負けずして、如何にも私共は幼弱な者でしょう、しかし閣下も昔は幼弱な人ではございませんでしたか、その幼弱な年齢から参議におなりになったではございませんか、また閣下は初めに何と仰った、今回憲法を起草するに当たっては我輩と君達三人は皆各々憲法学者を以って任ずべきである、決して伊藤は参議だ、長官だという考えを以って一歩でも譲るところがあってはならぬ、我輩のの議論にして非なるところがあらば少しも憚かるところなく意見を述ぶべし、仰せになりましたから、我々も遠慮なく自己の意見を述べたのであります、それが思し召しに適わぬからとて幼弱な者と言って抗弁なさる、閣下は最初に長官と思うなと仰ったから我々は憚かるところなく意見を申したことがお気に召さなければ、以後は何も申しませぬと言い放って、私共は伊藤参議を独り長官官房に置きっ放しにして帰ったこともありました。その位に伊藤さんも熱心であり、我々も真剣でありました。まだこの他に起草中いろいろなこともありますが、長くなりますから省きます。

帝国憲法制定の精神 三(下)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
27ページからの引用です。

 次にイギリスの憲法を調べんとするには、諸君ご承知の通りイギリスには成文としての憲法はない。English Constitutionという成典はない。イギリス人ハラムという人が書いたConstitutional History of Englandという「憲法的英国歴史」はある。イギリスの憲法は始祖のウィリアム・ザ・コンクェラー以後の歴史の中に散在している。しかして歴史の発達と共に憲法も発達している。イギリスはドイツはフランスのように憲法という成典がある訳ではない。そこで我々は非常に苦しんでイギリスの憲法的歴史を調べて、その中から憲法と言うべきものを書き抜いた次第である。有名な憲法は「マグナ・カーター」(大憲章)という。これはジョン王が非常に圧制したがために貴族が奮起した。当時は労働者や百姓や商人はあったけれども未だ政治上に勢力がなく、ただその勢力を有しておったものは貴族であった。貴族は土地を持っているしまた財産を持っているから従って勢力があった。これらの貴族がラネミードという野原にジョン王を呼び出して、かかる暴政を行われては我々英国民が困る、よってこれから国王の施政の方針はこの「マグナ・カーター」によるべしと誓われたい、と言ってこれを突き付けてジョン王の調印を求めた。王は弱いからついにこれに調印した。この「マグナ・カーター」がイギリス憲法の骨子と言わるるもので、これが憲法の始めである。それから段々政治が発達してきたのである。しかるにその後チャールス一世が暴政を行った。今度は貴族と国民が国王を引っ張り出してきてついに殺戮した。この時も多くは貴族が牛耳を執った。人民も参加したが、貴族が主動者であった。
 そこで今度はクロムウェルという野心家で、そうして偉い人がコモンウェルス即ち「共和政府」を創設した。これは僅かに十一年続いたが、彼の死後共和政府は倒れ再び王政の復古を見た。そうしてチャールス二世を迎えてキング即ち国王にした。この十一年間のクロムウェルの共和政府の時代をイギリスの歴史には共和政府と書いてあるけれども、正当にはインター・レグナムという。インター・レグナムという文字はラテン語で「帝政と帝政の間の時期」ということである。これ即ちイギリスは古来国王が中心となって政治をする主義の国であるから、十一年間共和政治を行ったことは英国の歴史を傷つけるから、それで「帝政と帝政の間の時期」即ちインター・レグナムという文字をもってこれを避けている次第である。とにかくイギリスは君民共治の国であってフランスのように主権民にありとする国ではない。またドイツのように諸王国の君主の連邦政治でもない。イギリスはその点だけは一貫している。そこでイギリスの憲法を調べてみるとKing in Parliament(議会における国王)Lord in Parliament(議会における貴族)Commons in Parliament(議会における人民)というように国王と貴族と人民との三種族が議会に集って英国の政治をするという君民共治がイギリスの主義である。これを称してFundamental Political Principle of England(英国の基礎的政治の原則)という。この三種族の中の一つを欠けば基礎的政治の原則が破壊さるることになる。かの千八百四十八年のフランスの革命の猖獗なるときに、イギリスでも国論が沸騰して共和政治に変更せんとした。その時にかの有名なる下院の議員エドマンド・バークが、もし共和政府にすればイギリスの基礎的政治の原則が破壊せらるるから、そういう事は断然排斥しなければいかぬと絶叫した。それ故にフランス革命の余波が遂にイギリスに侵入しなかった。これを要するにイギリスの基礎的政治の原則は、国王、貴族、人民の三種族が共同して英国を治める主義であるからである。
 それで我々が以上三ヶ国の憲法について考えて見た時、フランスは無論日本に適用ができない。ドイツもまたその精神が日本に適用できない。しかしてイギリスの基礎的政治の原則は国王と貴族と人民が政治を共治するにあるからこれもまた採用することはできない。しかしイギリスの基礎的政治の原則という文字はこれを日本語に当てはめてみると、日本の国体という文字にやや似たところがある。しかるに日本の国体という文字はこれをイギリスにもフランスにもドイツにも見出すことはできない。何となれば日本の国体という文字は日本特殊の政治語であるからである。かつて私は欧米の碩儒にも会ってこの問題につき談論したこともあるが外国人には国体という文字の真髄は分からない。何となれば二千五百年以上も万世一系の 天皇が連綿として君臨せらるる国は世界広しといえどもどこにもない。従って欧米の政治学者、憲法学者の頭には国体という文字の分かるはずがない。ただ一人これに似寄った文字は前に述べた仏国革命のおりエドモンド・バークが絶叫して、革命の害毒を防いだ時の言葉即ち英国の基礎的政治の原則という文字が、やや日本の国体という言葉に近いと思わるるくらいである。

2017年3月5日日曜日

帝国憲法制定の精神 三(上)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
17ページからの引用です。

 そこで明治二十三年に国会を開くまではここに十ヶ年の準備期間がある。政府も準備せなければならぬ。国民も準備しなければならぬ。そこで政府は段々廟議を尽くして、元老院から奉呈になっている国憲草案では、まだ足らぬ所があるということになった。蓋し元老院の国憲草案は 明治天皇の御沙汰の如く国体に基づいて海外諸国の成法を斟酌せよというご趣旨には足らないから、誰かをヨーロッパに遣ろうということになった。明治十四年頃のヨーロッパは、ドイツが千八百七十年にフランスに打ち勝ち、新たにドイツ帝国を建設し、また大宰相ビスマルクが皇帝ウィリアム一世を輔翼してヨーロッパを震撼せしめた勢いの盛んな時代であり、このドイツ帝国は世界の憲法国の中でも君権の赫赫(かくかく)たる国であるからそこに伊藤公を派遣して憲法を取り調べさせようということに廟議が極まった。しかして伊藤公の出発に先だって 明治天皇から勅語を賜った。その勅語をここで読み上げます。これは明治十五年三月三日に賜ったのであります。

 朕明治十四年十月十二日の詔旨を履(ふ)み立憲の政体を大成するの規模は固(もと)より一定する所ありと雖もその経営措画に至りては各国の政治を斟酌して以って採択に備わるの要用なるがために今爾(なんじ)をして欧州立憲の各国に至りその政府または碩学の士と相接しその組織及び実際の情形に至るまで観察して餘蘊(ようん)無からしめんとす。ここに爾(なんじ)を以って特派理事の任に当たらしめ爾が万里の行を労とせずしてこの重任を負担し帰朝するを期す

 この御沙汰と共に取り調べ問題数十科目を御下附になりました。今この御沙汰書を拝読して見ますと、立憲政体の基礎は固より 明治天皇は御極めになっているけれども、なお外国に行って立憲政体の組織とその実際の運用の状況を能く見て来るようにとの御沙汰である。それから伊藤公は数多(あまた)の僚属(りょうぞく)を随えドイツに行き一ケ年半ばかりベルリンに滞留し明治十六年の秋帰朝せられて、翌十七年の春、憲法起草の大命を拝せられた。伊藤公はこの大命を拝せられたから、井上毅、伊東巳代治、私の三人を憲法起草委員に命ぜられた。
 前に申す通り、日本の憲法は各国の成典を斟酌して起草するようにとの御沙汰でありますから、我々三人の調べた材料の中にはベルギーの憲法もあれば、イタリア、ザクセン、プロシアのもある。その他色々の国の憲法がありますが、それはここに一々申し上げると長くなりますから、省きまして、ここにはフランスとドイツとイギリスの憲法について調べたことを極めて簡単にその要領だけを陳述することに致します。
 フランスの憲法政治の歴史は、諸君のご承知の通りルイ十六世が帝政の時代に暴虐なる政治を行ったがために、人民が蜂起してとうとうルイ十六世の帝政を倒して共和政府を樹立した。これが千七百九十二年である。しかるにその共和政府もまた永く続かずして、英雄ナポレオン一世が現れ、共和政府を改めて帝政となし、自ら皇帝となった。ナポレオン一世が創立した帝国政府もルイ・フィリップの皇帝の時代に、民心が皇帝に叛き、千八百四十八年の革命の時帝政を廃して共和政府を再興し、ルイ・ナポレオン即ち後のナポレオン三世が選ばれて大統領になった。ナポレオン三世は非常にフランス国のために働いたから、その権威を以って共和政府を改めて帝政に戻って、自ら皇帝の位に就いた。しかしこのナポレオン三世も千八百七十年にプロシアと戦って大敗北し、セダンで捕虜となった。その結果フランスは三度共和政体の国となった。これは千八百七十五年のことである。
 かくの如くフランスは、帝政が倒れては共和政となり、共和政が倒れるとまた帝政になり、その帝政が倒れて三度目の共和政になった。由来フランスという国は、主権民にありという論を学者も唱え、人民もこれを信じ、これが国論となっている。故に気に入らなければ皇帝であろうと何であろうと、忽ちこれを廃して共和政府を建てる。共和政府でやって見ていけなければ、また皇帝になるべき人を選んでその位に即かせる。皇帝はほとんど人民の選ぶがままになっている。それでフランスでは皇帝も大統領も、ただ人民が自由勝手にする機関になっている。したがってこの国の憲法の原則は主権民にありとて皇帝また大統領は機関なりという理論の上に組み立てられたものであって、所詮わが国には適用すべきはずのものではない。よって我々は一応調べることは調べたが、まづこれをテーブルの上に束ねて置くことにした。
 続いて調べたのはドイツの憲法であります。明治十七年頃のドイツは帝威隆々たるものであって、当時ほとんど日本の大学卒業生のごときも、留学といえばドイツを目指して行ったくらいのものであった。泰西の学問は政治学でも経済学でも憲法学でも、何でも彼でもドイツドイツというほど、ドイツ国の旺盛な時であった。それで伊藤公がドイツに行かれたのも、あの帝権の赫赫(かくかく)たるドイツに行ったならば、日本の如き君主親裁の国において参考とすべきことがありてゃしないかと思って行かれた。そうしてグナイストとかスタインとかいうような学者に就いて憲法の講義を聴き、また彼の国の政治家などなども論談して、大いに得るところがあって帰られた。そういう国柄でありますから、我々も大なる期待を以って取り調べに掛かりました。そうしてその取り調べた結果はどうであったか。この事は諸君も学者であるから既にご承知のことであろうと思いますので、極めて簡単に申し述ぶるに止めて起きます。
 ドイツ帝国の興ったのはプロシア王ウィリアム一世がビスマルクという大政治家を股肱として国政を行い、また名将モルトケを参謀総長に任じて軍事を司らしめたのに原因する。ビスマルクはかねてより北ヨーロッパにドイツ帝国を建設する大望を抱き、この大望を成就するにはまづ北ドイツ連盟を作り、プロシア王国をしてその連盟の牛耳を取らしめ、更に進んで連盟を改めてドイツ帝国とし、プロシア国王をしてドイツ皇帝たらしめんことを望んでおった。そこでまづ北ドイツ全般を勢力範囲としておるオーストリアを、その方面から駆逐しなければならぬという計画を立て、盛んに軍備拡張を企てた。ところが、プロシア国の議会はかかる大望のあると知らず、毎年軍備拡張案を否決した。そこで、ビスマルクは四年間にわたって毎年毎年議会の決議を省みず政府の原案を執行して軍備を拡張した。しかるに千八百六十六年にプロシアとオーストリアとの間に戦争が起こって、プロシアは七週間の短時日にオーストリアを叩きつけた。その結果としてマイン河を境に北ドイツからオーストリアの勢力を駆逐して、北ドイツは一切オーストリアの勢力範囲以外ということをオーストリアに誓わせた。このビスマルクのことを鉄血宰相と言い、また鉄と血の力で造ったこの国のことを北ドイツ連盟(ノース・ジャーマン・コンフェデレーション)という。しかして北ドイツ連盟の中には、従来主権を有する数多の王国がいくらもある。しかしてその中で一番強大なる国はプロシアである。またこれらの王国の他になお自由都市のフランクフルト・アム・マインとかブレーメンとかいうような都市があった。日本で言えば大阪のような都市が、王国以外に独立している。その自由都市と、独立王国に分かれた十何ヶ国の王国、あたかも日本の昔の大名のようなものが、北ドイツ連盟を造って、プロシアという大大名がその盟主となったのである。しかして、これらの連盟で協議の結果プロシア王をもって大統領にした。皇帝にはしない。あたかも北米合衆国の各連邦が、各州で選んで大統領にするように、プロシア王を兼ね北ドイツ連盟の大統領とした。これ即ち連盟の機関である。
 しかしビスマルクはそんな事では満足ができなかった。どうしてもドイツ帝国を造らなければならぬというので、北ドイツ連盟を踏み台としてナポレオン三世と戦ってセダンでこれを虜にし、そうしてヴェルサイユ宮殿に於いてドイツ帝国を創立して本来の目的を達した。これより先きマイン河の南にあるドイツ系の諸王国のバヴァリヤ、ヴェルテンブルグ、バーデン、ヘッセン等の如きも今まではオーストリアの勢力範囲に属しておったが、プロシアの勢力が強くなったのと、またその人種はドイツ系であるというので、ドイツ連盟の仲間入りをすることになった。そこでこれらの南方の諸王国をも一括して初めて当初の目的たるドイツ帝国を建設した。ここに於いて連盟の大統領を改めてドイツ帝国の皇帝とせねばならぬ。しかるにプロシア王ウィリアムは容易に承諾しなかったからドイツ帝国を組織する三十ばかりの諸国王の代表者と、人民を代表とする三十人をして、プロシア国王ウィリアムを推薦してドイツ皇帝たらしめた。これによってこれを見れば、大統領たる機関を改名して皇帝と称するのみである。これがドイツ帝国建設の歴史であるから、ドイツの憲法学の論理によれば皇帝を機関ということは当然のことであります。
 さてドイツ帝国の憲法によれば上院と下院の二院がある。上院の議員は、プロシアを初めドイツ国内において従来から独立して君主権を持っている三十ばかりの王国の君主の代表者である。そこでプロシア国王も代表者を出す。また諸王国の君主でも代表者を出す。これが上院の組織である。また下院はどうかというと、元来ドイツという国は民衆主義が多い所である。かのプロシアのフレデリック大王がフランスのボールテーヤを招聘して、ポツダムの宮殿の中に住まわせてボールテーヤの学説を聴いた。以来仏国の文化と共に主権民にありという学説が伝播して、ドイツは実際主権在民という思想が随分盛んであった。よってビスマルクは極力この思想を排斥しようと思ってもいかんともすることができなかったので、新たに創設したるドイツ帝国の下院だけは最初から普通選挙にして、二十歳以上の男子ならば何人といえども下院の議員となることができることのして、人民を懐柔する政策を取った。そこで上院の方は、各連邦の王国の君主を代表する人をもってこれを組織し、しかして下院の方は普通選挙により選出する議員をもって組織する。この組織によれば氷炭相容れざる、二種の階級即ち主権は国王にありとする者と、主権民にありとする者とをもって一議院内において政治を論議せしむるから中々困難である。しかるにさすがはビスマルクのことであるから、いろいろ策略を用いてこれを操っておったが、皇帝ウィリアム二世の時代になって、ビスマルクを追っ払って、自ら政務を専決せられることになった。
 かくのごとくドイツの憲法によれば、上院においては主権は諸王国にあるという代表者があり、また下院においては主権民にありという人民の代表者がいる。そうしてその上にあるドイツ皇帝であるから、諸王国の代表者の如くも見えまた人民の代表者の如くも見えて、その真実の名称から言えば洵(  )に憲法上首尾一貫しておらない。しかしながらドイツ皇帝は帝国建設の歴史から見てもまたその議院の組織から論ずるも国家の機関なりということは適当であろう。よってドイツの憲法は我が日本憲法に採用することはできなかった。これは 明治天皇が我が建国の体に基づいて憲法を起草せよと仰せられた御沙汰に沿わざるがためである。そこで残るところはイギリスの憲法である。


2017年1月9日月曜日

帝国憲法制定の精神 二

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
5ページからの引用です。

 これから憲法制定の由来を申し述べます。話の順序としてはあるいは諸君のご承知のことを申すかもしれませんが、なるべくそういうことは簡単に話すことに致します。世は王政維新となり明治の政府となるや、明治元年の三月に 明治天皇は天神地祇皇祖皇宗に御誓いになって五箇条の御誓文を御示しになった。それが即ち日本の国是でありまたそれが日本の憲法政治の淵源である。この五箇条の御誓文の沿革もまた非常に長い、また非常に必要な事でありますけれども、これは省略致します。
 さてこの五箇条の御誓文の中に「広く会議を興し万機公論に決すべし」という一箇条があり、また他の箇条には「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」ということがある。これは諸君のご承知の通りこの二箇条から憲法政治が出てきている。また議会も生まれてきている。しかして議会を開くについては憲法が必要である。さて憲法が発布せられ議会が開かれた後の政治は如何にするかということは 明治天皇の御思し召しでは「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」とあって、世界中から智識を取り入れて、日本の皇基を振起せよとこういう御思し召しであらせられたと恐察し奉る。それ故に日本の憲法学者が皇基即ち皇室の基礎を知らずして、徒らに欧米の学理をそのまま日本の憲法に応用した時には、恰も基礎工事を施していない地面に鉄筋コンクリートのビルディングを建てるようなものである。蓋し憲法を布き議会を開きて立派な政治を行わんとするならば、先づもってその基礎は泥であるか砂であるか或いは岩であるかを知って、然る後に高層堅牢なる建物を造るべきである。然るに日本人は往々ヨーロッパ、アメリカに行くと、かの国の文明と学問の進歩に目を晦まして、我が日本の歴史及び国体を軽視し、徒らに外国の学術の理論を盾として日本の憲法を論議する者がある。この事が即ち全ての間違いの本である。  明治天皇は「智識を世界に求め」よと仰せられたけれども、それは何の為に求めるのか、「大いに皇基を振起」する為だと御沙汰になっているではないか。然るに欧米に留学する日本人中に唯智識を世界に求める事にのみ熱中して、学問の大目的たる皇基を振起する事を忘るるものがある。蓋し日本国民として、そういう誤りたる考えであったならば、立憲国の国民となる資格はないと思う。
 さて日本で誰が一番早く憲法政治について研究したかというと、それは伊藤公である。伊藤公は明治三年に憲法政治ということを既に念頭に持っておられたのである。それは事実が明らかに示しております。明治三年閏十月三日に伊藤公は政況及び財政調査のためにアメリカに行かれた。その時にアメリカの大統領及び国務長官と話された際には、日本も世界の仲間入りをしたについては、諸官衙(かんが)の構成も欧米各国の通りにしたいが、先づアメリカの組織を調べに来たと言われた。それから段々にアメリカ政府の官制などを調べられた。その時の国務長官はフィッシュという人であった。この人が各省の官制というものはアメリカの憲法を本として制定せられてあるからこの成典(Statute book)から研究なさいと言うてその書冊を贈与された。そうしてアメリカ政府がこの憲法を作るに当たっては、独立戦争の後、政治家も学者も国民も非常に研究した結果、漸く憲法ができたのである。憲法政治を実施するについてはアメリカの政治家ハミルトン、マデソン、ゼイの三人が申し合わせて憲法を起草した。然れども憲法政治を実施するについては国民を教育しなければならぬと思うて、この三人が外国の例を調べてパブリカスという匿名で印刷物を出版し、これを称して「フェダラリスト」(Federalist)というた。「フェダラリスト」は共和という意味であります。その後憲法が実施されてからこの書類を一括して書籍となした。これが今日アメリカ憲法を講究する第一の教科書になっておる。これをお読みになれば如何にして米国民の祖先が憲法を起草したかが分かる、と言って伊藤公にその本を贈与した。故に明治三年に伊藤公がアメリカでこの本を貰われて以来、これについて研究された。しかして枢密院で憲法の会議の終わりになるまで常に座右に置いて、何か問題が起こればその本を繰り返し読まれた。ほとんど二十年間座右を手放さなかった本であります。私は明治九年ハーバード大学に於いて憲法を研究する際、この「フェダラリスト」は憲法の研究には最も必要であるから、これを読めと言って、私の先生から教えてもらいました。故に日本で誰が一番早く憲法政治について研究されたかというと、それは伊藤公である。
 次に明治七年一月前参議後藤象二郎、板垣退助、副島種臣、江藤新平等が民選議員開設の建議をなしたるより、世論は議員政治の事を講究するに至りました。
 次に明治七年の三月七日二、宮内少輔吉井友実が宮内省を罷めて、ヨーロッパに視察に行かれた。それは何のために行かれたのか、私も段々調べましたが分からない。吉井は自費で洋行したことになっているけれども段々調べて見ますと御内帑金を賜っている。そうして帰朝の後拝謁して 明治天皇に捧呈されたのが、イギリス人アルフィヤス・トッドが著述した「英国議院政治」(Parliamentary Goverment in England)と言うこの原書である。しかしなぜにこの「英国議院政治」という洋書を捧呈されたか、その理由はいろいろ調べましたけれども少しも分かりませぬ。しかし諸君のご承知の通り、イギリスの憲法はイギリスの歴史の中に包含せられてある。故にイギリスの歴史を知らなければイギリス憲法は分からないことが、この書物に詳細に記述してある。
 次いで明治八年に元老院が創立され、その翌九年の九月六日に 明治天皇は当時の元老院議長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を御学問所に召されて、勅語を賜った。その勅語は
  朕爰(ここ)に我が建国の体に基づき広く海外各国の成法を斟酌し以って国憲を定めんとす。夫(そ)れ宜しく汝らこれが草案を起創し以って聞かせよ。朕将(まさ)にこれを撰ばんとす。

 日本の憲法は最初は国憲と言っておりました。元老院の憲法取り調べの委員は国憲取り調べ委員と称しておりましたが伊藤公が憲法起草の大命を拝してから憲法ということになりました。この勅語の依れば日本の憲法は 明治天皇の叡慮にある御方針を以って起草せよ、とお沙汰になったものである。即ち憲法は日本の国体に基づいて起草せよ、外国の憲法は斟酌して、悪い点があるなら捨てて、良い所があったらなら取れという仰せである。しかしてここに驚くべきことは、この勅語を有栖川議長宮に下し賜い、これに依ってよく研究せよと仰せになって、御手づからこれを御下賜になったことである。当時憲法に関する書類は数多(あまた)ある中に、独りこのアルフィヤス・トッドの本を御下賜になった御思し召はいかがであるか分からないけれども、或いはイギリスの憲法は歴史の中にあるからこれを研究して憲法を起草せよとの厚き御思し召ではなかったと私は恐察し奉ります。
 さて明治九年に憲法起草のことを元老院に御沙汰になると、日本国中憲法政治憲法政治と言って憲法に関する外国の書冊を研究するようになった。この時最も勢力のあったものは、フランス人モンテスキューの書いた「万法精理」(Spirit of Law)である。これは主権民
にありという原則から書いた書冊で、行政、立法、司法は各々独立して三権鼎立すべきものである、互いに相干犯せざるを以って憲法政治の骨子とするというのである。これは一時ヨーロッパ、アメリカを風靡した学説で大いに人心を指導した。この書は長崎人何禮之が日本語に翻訳したものである。それからまたフランス人ではルーソーが書いた「民約論」(Social Contract)これは中江篤介が翻訳したものである。この二書はなかなか広く読まれたものであります。当時わが国ではモンテスキューの三権分立論とルーソーの「民約論」が最も人心を風靡したものであります。
 この時に当たりドイツ学者と世に評判せられた東京大学総理の加藤弘之がドイツの原書を基としてドイツの学説を日本に紹介した。それは「真政大意」と「国体新論」という書冊でありました。これもまた当時広く読まれました。当時の東京府知事は府会議事堂に加藤弘之を招請して、「国体新論」の講義を公衆に聴かせた。私はその説には感服しなかった。果たせるかなこの「真政大意」と「国体新論」に対して世人の非難の声が囂々(ごうごう)として起こって来た。その言う所に依れば苟(いやしく)も官吏である東京大学の総理(今の総長)の地位にある者が天賦人権論に依り国体に反する議論を唱えることは、怪しからぬと言って非常な攻撃であった。海江田信義の如きは東京大学総理として斯くの如き論を為すことは不都合である、加藤の説は国体に反している、我輩は自ら加藤を処分せんと言って憤慨した。また世古某は三條太政大臣に建白するなど随分やかましいことであった。そこで段々加藤も考えたと見えて自分が「真政大意」と「国体新論」を著したのは全く自分の学問が足らなかったためであった、あのような謬言妄説を世に流布して、後進を誤っては申し訳ない次第であるから、私はあの二つの書物は滅版にしますと内務省に届き出で、また長い文章を以って滅版の理由を書いて、新聞紙に広告した。そこで内務卿の山田顕義は、明治十四年十一月に加藤のこの二つの書物を、発売禁止を命ずることにした。
 これより先、明治十二年の夏、先の北米合衆国の大統領グラントが、家族を連れて世界漫遊をしたその帰途に日本に立ち寄った。日本では前大統領のことであるから、皇室の御待遇、政府の接待は実に非常に慇懃を極めたものである。そうして 明治天皇は浜離宮にグラントを召されて午餐を賜った。その陪席者は三條太政大臣、岩倉右大臣及び諸参議であった。午餐の後、只今も浜離宮にある中の島の御茶屋で珈琲や煙草を召し上がりつつ 明治天皇は色々政治上の事についてグラントに御下問になった。その時グラント将軍は、承る所に依りますれば日本も国会開設の議論がある由、何れ憲法を御制定になることと存じますが、何事も忌憚なく言上せよとの御沙汰であるから申し上げます。日本の憲法は日本の歴史及び習慣を基にして御起草遊ばさるることこそ願わしく存じますと言上した。これは余程 明治天皇の御思し召に適った様に拝します。この事はグラント将軍の秘書役たるヤングが書いた「グラント将軍世界漫遊記」の中にも書いてあります。
 明治十三年十二月かつて勅命を以って起草に従事した国憲の草案が、元老院議長大木喬任から三條太政大臣を経て上奏された。そこで三條太政大臣から各参議に対して意見を徴された。その意見はなかなか参考になることがたくさんあります。けれどもここに一々申し申しませぬ。ただその結論だけを述べますれば、国会開設なお早しという説が多数である。またある人はこの国憲草案にはまだ不備の点があるから、再調すべしという論を述べた者もある。とにかく各参議の意見書は出ましたが、一人大隈参議だけが出さない。再三催促されて初めて出された。それが明治十四年三月です。今の方々はこういうことは御承知ないでしょうが、昔の参議は直接 陛下に書類を奉呈することはできないもので、今の次官が直接奉呈することができないのと同じでありまして、昔の参議は 陛下に奏上したりまた書類を差し上げて御裁可を請う時には太政大臣か左右大臣かを経るのほかは参議は御前に出られないのであります。参議はいわゆる参議であって太政官の議に参画するだけで上奏をしたり勅裁を請うたりする権限はない。依って大隈参議は有栖川左大臣宮に意見を出された。有栖川宮は大いに驚かれ岩倉右大臣と謀り伊藤参議に相談せられたから、伊藤参議は三條太政大臣を経て 陛下のお手許にある大隈参議の意見書の御下渡しを願い出られて、奏議全部を自ら書写されてその末文に「明治十四年六月二十七日三條太政大臣に乞うて 陛下の御手元より内借一読の上自写之博文」と認められた。この書類は伊藤家の秘書の内に保存されてある。これは海軍中将刑部齋という人が本書と少しも違わないように印版せられている。
 さて大隈参議の意見書が 陛下の御手許までいったか否かについて従来不明であったから、先年私は大隈さんに会って、あなたの意見書は有栖川宮の所に留まっておったのかまた、陛下の御手許にいったのかと尋ねました時、大隈さんは僕はその事は知らぬ、僕はただ有栖川宮に差し上げたのみ、それから先はどうなっておったか知らぬと言われたことがありましたが、実は 明治天皇の御手許に達しておった。とにかく伊藤公は大隈参議の意見書を見て大いに驚いた。この大隈参議の奏議は第一より第七までに分かれた長文でありますから、これを述べることは省略します。その中にある第五、明治十五年末に議員を選挙し、十六年を以って議会を開くべき事につき伊藤公は驚いた。斯くの如き重大なる事件を内閣の同僚にも諮らず単独に密奏を企つる者とは席を内閣に列することはできないと言って辞表を出された。これが大騒動になって大隈参議は職を罷め、そうして明治二十三年を期して国会を開くという詔勅が出た。これが明治十四年の十月である。以上が日本の憲法政治の十四年までの沿革であります。

次回に続きます。憲法とは国の最高法規というよりも、「その国の歴史伝統文化を基に最上と思われる国のかたち(統治のかたち)」であるとわかります。