2016年1月31日日曜日

家康百箇条(一節および二節)家康百箇条の由来、仁教に関する条々

明治41年7月に発行された有賀長雄著の『増訂 日本古代法釈義』からの転載ですが、読みやすいように原文の現代語表記及び現代語訳を載せています。

家康の百箇条は本物偽物が混ざっているのか、いくつかある様ですが、有賀長雄先生を信じて、これが本物と思って載せます。
私は徳川家康は日本の歴史上最大の政治家だと思っています。
その家康が日本をどのように統治しようとしていたのか、本人自身の記録が少ないため、あまり国民に理解されていません。
この百箇条はほとんど本にも載っていません。
これを公開し、日本人自身が日本の歴史を見直す機会になれば幸いです。
原文を読むのが煩わしい方は、後に書いてある現代語訳を参照下さい。

同書726ページ
第42章

家康百箇条

一節 家康百箇条の由来
家康百箇条は、徳川一家の家典とも、政策ともいうべきものなり。家康百箇条は、これを徳川百箇条と混同すべからず。徳川百箇条は、徳川の刑律を編纂したるものにして、松平定信の手に成れり。家康百箇条は、家康が、随時下筆して、子孫に垂訓せるところなり。故に、かつて、これを公布せず、宝庫に秘蔵して、代々将軍の外は、時々大老に内示せしのみなりという。その末条に書して曰く、「我が建つるところの条々、治国平天下の大綱、即ち、将軍の職分なり。つぶさに、我が子孫に遺訓するに至りては、山筆海墨、これを尽くすことあたわず。ただ、我が志を写して、一巻となし付属す。我が百年の後といえども、この条目に照らし、志を観よ。子孫、これに違背する者、これあれば、将軍の器にも当たらず、我が子孫にもあらず」と。以下数節に於いては、本文の条項を、事目に依りて分類したり。

二節 仁教に関する条々
徳川氏の治世は、仁教を以て、本拠としたること、左の条々を以て、これを見るべし。

一、武威に驕り、帝位をないがしろにし、天地君臣の礼を乱れるべからず。およそ、国をもつ職分は、民を安祥ならしむるにあり。先祖を輝かし、子孫を栄えしむるにあらず。湯武の聖徳も、この旨を主とすべしと知るべし。
一、文武、皆、仁より出づ。千経万機といえども、その理同じ。治国平天下の法、ここにありと知るべし。
一、天下は天下の天下にあらず、また一人の天下にあらず。ただ、仁に帰すること、深く研究すべきこと。
一、仁は、己にあり。四経九経、自ら備わる。この旨、一日も離れるばからざること。
一、本朝は、神武顕明の地なれども、文学、異域に劣れり。よろしく、学校を設け、これに依り、国家の盛を鳴らしむべきこと。
一、天理の公、己に知るいえども、その行正からざれば、その罪、知らざるよりも重く、家を亡ぼし、国を乱し、災い、必ず興らん。過を知りて改めざるを、過としるべきこと。
一、三代の、天下を失うもの、夏は、桀に至りて、禹王の制教を忘れ、殷は、紂に至りて湯王の聖典を乱れり、周は、幽厲(ゆうれい)に至りて、文武の政事を怠る。秦漢以来、歴代、皆然らざるはなし、我が子孫も、また、我が規条に相違すれば、即ち、また、これに殊なることなけん。この旨、皆然り。将軍、代々の亀鑑なるべきこと。
一、君は、民の愛を知らず、民は、君の患を知らざれば、悪政なしというとも、暴行、自ら出づ。国君、仁を好めば、天下、敵なしとは、この理たるべきこと。
一、万国の辜(こ)、威、帝位の不徳に帰す。天下の不平、皆、将軍の不肖に帰す。徳は、共に、一心にあり。貴賤隔てざる地なり。上たる者、暫くも遺失すべからざる事。
一、仁、天下に及べば、即ち、内外尊卑を隔つることなし。日月の照らすところ、浄穢(じょうえ)を隔てざるはなし。聖人、これによりて、法を立て、親疎の次第、階級、、三鋼、八條、確固として抜くべからざる規たり。一人、天下に将たれば、即ち、諸士、皆臣たり。四海を臣とするにあらず。他家、当家、外様、旗本の差あり。他家は、皆、時の権柄(けんぺい)によるものなり。譜代の士は、由緒、当家にあり。その先祖、一々忠勤の士なり。記録に載するところ、明らかに見るべし。その親愛、他家に越え、他家憤らざるもの、その本に基づくによるなり。即ち、天理なり。将の法なり。士の道なり。仁の術なり。志、これを怠る者は、我が子孫にあらざること。

これを意味がわかりやすくなるように、現代語訳にしてみます。
家康百箇条(現代語訳)

一、武威に驕り、天皇をないがしろにして、天地、君臣の礼を乱してはいけない。国政を司る者の職分は、国民を安心して暮らさせることにある。自分の先祖を輝かし、子孫を栄えさせる事ではない。支那の湯王や武王の聖なる徳もこのことを主としていたことを知らなければならない。
一、文武共にこれは「仁」から派生している。それはどんな時であってもその「理」の正しさは同じである。国を治め天下を平らげるための方法は、まさにここにあると知らなければならない。
一、天下とはは天下の民のための天下でもない。また天下とは一人の支配者のためのものでもない。天下を治めるということは全て「仁」の心から始まる。このことは深く研究しなければならない。
一、「仁」の心とは自分の中にある。四書九経のような儒学の書に書いてある内容は、自分の中に備わっている。このことを一日も考えずにいてはいけない。
一、我が日本は神武天皇が興した地であるが、学問に関しては外国に劣っている。良いように学校を設立し、国家の盛んさを世界に知らしめなければならない。
一、天の「理」(つまり「仁」が根本であるということ)のことは自分の中にあると言っても、その行いが正しくなければ、その罪は、天の理を知らない事よりも重く、我が徳川家を亡ぼし、日本国を乱し、災いが必ず起こるであろう。自分の過ちを知って改めないのことが過ちであることを知らなければならない。
一、古代支那の夏殷周の三王朝の時代、夏は桀王の代になり、禹王の律を守る制教を忘れ、殷は、紂王の代になって湯王の聖典の教えを守らなくなり、周は、幽厲(ゆうれい)王の代になり、文王や武王のような政事を怠ってしまった。秦漢以来、歴代、いつも同様である。我が子孫もまた、我が家康の規条と違う事を行えば、即ちまたこれと同様なことになるであろう。このようなことは皆同じである。将軍となったならば、代々の模範となるべきである。
一、君主がわざわざ国民の愛を知ることもなく、国民は君主の憂いを知ることがない状態であれば、悪政はないと言われているが、乱暴な行いは自然と起こってくる。国の君主が「仁」を好めば、天下に敵なしというのは、このような「理」のことである。
一、どのような国の罪、暴力もその国の君主の不徳にその原因がある。天下の国民の不平は皆、将軍の不肖によるものである。徳というものは、君主、将軍、国民共に心を一つにできるかによる。日本では尊い人も卑しい人も分け隔てしない国である。上にある者は、このことをずっと忘れないようにすべきである。
一、「仁」が天下に及べば、即ち国の内外も(上下としての)貴い人も卑しい人もを隔てることがなくなるであろう。しかし、日月の照らすところ、清い、穢れているの違いはある。堯舜や孔子のような聖人はそのために、法を立て、親疎の次第、階級、、三鋼(?)や八條(?)を確固として守るべき規範とした。一人の人が天下の将となれば、そのことにより諸々の武士は皆臣となる。しかし、天下の人全員を臣とするのではない。他家と当家、外様、旗本の差はどうしてもある。当家となるか他家となるかは、皆その時の権力を誰が握るかによるものである。譜代の士は、由緒が当家と関係している。その先祖は一人一人が忠勤の士であった。記録に載っているので、明らかに見ることができる。その親愛は他家を越えているので、他家としても憤ることができない。つまり、その(その親愛の関係という)本に基づくによるものである。即ちそれは天理である。将の法である。それは武士の道である。「仁」の術である。志としてこれを怠る者は、我が家康の子孫にあってはならない。

家康の政治は「仁」を基にしていたことがわかります。
日本古来の思想や儒教の思想が強く影響しています。

日本古来大切にされていた「仁」を今の政治にどう生かしていくのかが現代の日本人の課題です。
民主主義と「仁」の心はどう調和させるべきなのでしょうか。

次回は「権力編制に係る条々」です。