2015年6月28日日曜日

非常時局読本(第二十三回)「現状維持の誤謬と日本精神に基づく革新」

日本精神による革新とは?

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

115ページより

 自由主義者の現状維持者は常に自分たちのみが正しい者のようなことを言って、現状を何処までもその儘維持しようとして、右も左も狂人だ、自分達が中庸を得た思想を持って威いる、穏健な思想を持っているというのであるが、これは大なる誤りであって却ってこれが国家を混乱に陥れるのである。大体日本には前述の如く思想は「イエス」か「ノー」かしかない。善いか悪いかがあるだけで、穏健も中正もそんな思想はないのである。つまり大義に背いた者は皆悪いので、大義名分に即した日本精神だけがあるはずである。自由主義者は穏健中正な思想だというが、これは自分自身が外国思想に囚われていてそれを基調をして物を考えている証拠である。一体現状を何処までも維持しようとするから無理が出来る。昔と比べて今日は飛行機も出来、自動車、汽船、無線電信、ラジオも出来、毒ガスも出来た。かくの如く世の中は毎日変わって来ている。東京でも震災の前と後では建物でも雲泥の差がある、何れも進歩発達している。故にこの進歩発達に対応して適切なる改革をして行かなければならぬ。それを止めようとすると却って爆発する。しかしながらその改革を間違って外国思想を以てやるとまた大変な混乱を導く。だから何処までも日本精神で改革して行かねばならぬ。そこを共に理解して現状を改革する事は必要である。だが国体を忘れてやってはいけない事を良く理解する必要がある。元々改新という事のお里は社会主義である。改革とか革新というのは社会主義から来ている。だから国体精神が余程しっかりしておらぬと、段々行く中に社会主義のお里に帰ってしまうのである。その点が改革論者の方もまた余程中止してなければならぬところである。殊に今日の様な事態になると、このままでは全てが行けぬことは明瞭であるから、革新論者も現状維持者も共に正しく冷静に考えて日本を破壊に導かぬようにせねばならない。

非常時局読本(第二十二回)「議会制度否認問題」

当時大政翼賛会などのように議会制度を否認するような動きがありました。これに対する批判です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

112ページより

 近時議会制度を否認する考えがあるようであるが、これもまた国体を真に理解せざる結果である。永年にわたって政党が腐敗しておったために、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということになって、感情的に起こってきた議論である。政党の悪いのはそれはそれとして別に考えこれを正すべきである。日本は神代の時から議会はあった、国体の根本精神は議会制度を認めている。ご承知の様に天孫降臨に際して天安河原に於いて、八百萬神が神集いに集い給い、神諮りに諮り給うたということになっている。これは今日でいうと議会を開いてどうしよう、こうしようと会議をされて、その結果天孫が天降りになったのである。即ち我が国は神代の昔から肇国の初めから議会というものが設けられいる。ただ神集いというのは神様が集って、即ち私心のない者が集って 天照皇大神の御心をその儘 天皇の大御心を心とせられている方々ばかりが会議されたのである。今日は私欲を持った代議士が集まるからいかぬのであって、決して議会制度そのものが悪いのではない。つまり人間に私心があって日本精神がないからいかぬ。だから昔の如く神集いに集い、神諮りに諮らんとする精神がないのが悪いので、議会そのものが日本の国体に合わないのではない。それで明治天皇は御自ら欽定憲法を作られ議会が出来上がった訳であるから、何処までも御意に添って皇運を翼賛するための議論ならば、論議は決して相克摩擦ではなくて、切磋琢磨になるのである。それを私心を持ってやったり感情を持ってやったりするから相克摩擦になる。そこをはっきり弁えなければならん。これを混同してはならない。もちろん選挙法等は何とか改正すべき点もあるであろうが、しかし兎にも角にも集まる人間が私心のない人間でなければならぬ。そのことがはっきりせぬから議会が悪いことになるのである。だから選挙する人もやはり私心を去り、感情を去り、本当に日本精神を以て大義名分のはっきり分かった人を選挙してそれを議員に送らなければならぬ。そういう議員を送って議会を天安河原に於ける神々の会議のような議会にすることを理想として行わなければならぬのである。

2015年6月21日日曜日

非常時局読本(第二十一回)「億兆一心と一国一党」

大政翼賛会への批判です。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

111ページより

二十一、億兆一心と一国一党

近頃は一国一党ばやりで「億兆心を一にして」ということを解釈してそれは一国一党という事だと詭弁を吐く人がある。これもまた国体を弁えない結果である。
 勅語の中に「国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済ませるはこれ我が国体の精華にして・・・」こう仰せられているのはこれは皇運を扶翼し奉るところに帰着しなければならないのである。それでその皇運を扶翼し奉る為に、世々厥の美を済ます為の億兆一心であるならば、日本国は一国一体一国無党であるべきで党派などはないのである。一国一党ということを殊更にそれは一国一体であるかの様に誤解する所に誤ちがあるのである。皇運を扶翼する為の団体、仮にそれを党と名付けるならば、即ち皇運を扶翼するために切磋琢磨して行く党ならばそれは何党であっても構わない、党の数は問題ではない。その党が日本精神を持っているかいないかということが問題である。殊更ながらに一党は一体なりというようなことにこじつけて行くと、それは非常に危険な結論に陥って行くのである。何事も指導原理が確かでないと直に現実の問題について誤ちが起こって来るのである。



非常時局読本(第二十回)「外国の全体主義と日本の一体主義」

今回は全体主義と日本精神、日本の一体主義との違いについてです。


非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

106ページより

二十、外国の全体主義と日本の一体主義

 それから、日本精神と全体主義、之もよく取り違える事である。全体主義を日本精神のように思っている人がある。全体主義というものは元来は個人主義から発展している。個人主義の反面であって根は同様である。名は全体主義であってもその基礎は個人主義である。だからそれは丁度海岸で砂を水で握り締めた様なもので、ちょっと投げつければ、またちょっと雨に合ってもパッと散ってしまう。それが彼等の全体主義であり、個人主義を軽視しながら個人に立脚する矛盾である。日本の方は君民一体の一体主義である。民は大君を現神と敬い 天皇は民を大御宝として愛撫される。即ち一家族の精神である。親と子と離れる事の出来ない一体主義である、個人が栄えれば総体が栄える一体である。総体が栄えれば個人もよくなる一体である。即ち宇宙の真性、宇宙の生成化育と同じ精神で上下一致して一体となっているのであるから、その発展状況は丁度植物の発育するようなものである。即ち根が水分を吸って幹を養い、幹は枝を養い、枝は葉を養い、葉は空気や光線を吸収して枝を養い、枝は幹を養い、幹は根を養ってお互いに一体となって相寄り相助け、各部栄えて行くと同時に一体として生育して行く、これが日本の国体精神であり、日本精神である。それを無理矢理に全体主義だ、何だと言って盆栽の様に外から無理な力を加えて行くのとは全くその撰を異にするのである。
 全体の為にこの枝は邪魔になるからこれを切れとか曲げてしまえとか、甚だしきに至っては木を逆さまにして植えるようなことまでしてとうとう木を枯らすようになる、これが流行の全体主義で、日本の一体主義即ち大自然のままの主義方針に適わぬのは当然である。日本の一体主義は平等の中に差別あり差別の中に平等ありで、天の摂理そのままをやっているから、これに優るものがある訳がないのである。ただ全体というと、それは日本の国体に合うように思う人があるけれども、その点は今言った様に非常に注意を要する点であって、そこがはっきりしていないと八紘一宇の精神をも取り違えることになると思う。八紘一宇ということは丁度彼の先のドイツの皇帝が武力をもって世界を併呑しようとしたのと同様、その覇道の様に考えている者があるようであるが、八紘一宇ということは即ち太陽の光線が無差別に万物に及んで、その慈愛を垂れこめて万物を生成化育せしめて同化さして、各々その所を得せしめて発展さして行く、これが八紘一宇の精神である。しかして同化されて一体となるものならばちっとも差し支えない、無理がなくついて来るものである。それだから今度の戦にせよ何も領土的野心があるとかないとかいう必要はない。領土的野心なしという議論は領土的野心ありということを前提としての論理と同様になるので、この思想を認めたことになってしまう、そんなことをいう必要はない。所謂皇道翼賛、つまり天業を恢弘して行くことに依って同化されて日本のものになり、陛下の御稜威について来るものならば喜んでそれを頂戴して育み育てて行けば宜しい。即ち無理なくして付いて来る者は取っても宜しい。無理をして取ることは皇道ではない。日本精神は絶対に無理をしない。天の摂理そのまま、恰も宇宙が出来て動植物が生えて育って行くそのままの原理を指導原理としているのが、所謂日本精神である。八紘一宇である。全体主義と日本主義と間違えると、八紘一宇を覇道であるかの如く考えて来るのである。それは恰も小節の信義を重んじて大綱の順逆を誤るのと同様になるのである。

全体主義と一体主義の違いは、無理矢理個人を一体化させる全体主義と、生物の細胞のように有機的に一体になっているのが一体主義のようです。