2014年2月17日月曜日

日本バドリオ事件顛末(第三回)

前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 45ページ

 満洲国の性格がソ連的であることは、協和会などを見てもよく判る。
 日本の陸軍が全体主義であると考えておる人が多かったが、その全体主義は必ずしもナチ的ファッショ的なものではなかった。それは彼等がナチ的であるかの如く装っていただけのことで、実は純粋のナチ的ではない、ナチ的より更に進んだものなのだ。多くの人はナチスとソヴェットを全然異なるもののように考えておるけれども、もしナチスのものをソヴェットのものといい、ソヴェットのものをナチスといって日本人に教えたとしても、多くの人はやはりそうかと思う。その一般の人の頭の盲点が巧みに利用されていたのだ。そういう巧妙でかつ高度な精神的指導は、軍のどういう所でやったかというと、それはもちろん統制派の幹部である。士官学校、陸大を優秀な成績で出て、欧州あたりも視て来ているから、相当のインテリジェンスがあるのは当然だ。
 日華事変というものが起こって来た。不拡大不拡大と言いながら、拡大しつつある。不拡大を唱える人は、陸軍大臣とか参謀総長とか表面陸軍をリードするが実権を持たない人々で、実権を持っている人達は黙々として拡大一方に進んでいる。もし本当に不拡大で行くならば、あるいはあの事変を勝利をもって片付けようと思ったならば、容易に片付け得たはずである。それは飛行機を製造する工場もなし、自動車も造れず、大砲や鉄砲もろくな物を持たない当時の中国兵と、最も近代的な装備を持つ日本の軍隊が本気で戦ったら、勝つも勝たぬもない、日本が勝たないのは嘘である。勝とうとしなかったのだ。何となれば戦争を止めたくないからだ。しかも中国と戦争をしていることが一番ラクなんだ。何時も自分がイニシアティブを持っていて、止めようと思えばいつだって止められる、敗けないんだから何時までだってやっていられる、これほど都合のよい戦争はない。 しかもこれで非常時、自分は傷付く心配のない非常時の大規模な展開、まさに思うつぼではないか。それでいて、いや支那は広いんだとか、やれ地形がどうだとか弁解しているが、そんなことを言うなら、秦の始皇帝や漢の高祖時代の戦争と同じではないか。どういう装備を持っていたか、そんなことは、問題にならぬではないか。全力を出す出さぬの沙汰ではない、まるで近代的の装備など、対中国戦争では用いてはいない。そっくり満洲に取ってある。それをたまたま使ったことがある、板垣征四郎が臺兒荘で敗けた時のことだ。敗けてはならぬから取つときの機械化部隊を持って行ったら直ぐ片が付いた。それをストックしているのである。ストックしている武器なり装備なりが不充分ならば、誰に遠慮することもない、直ちに支那の地形なり状況に適合するものを造り得るはずだ、それを造る努力もしていない、飛行機だって十分に使っていないのである。
 これに対して何等の批評をし得なかったことは日本人の重大な責任だ。軍の為すがままに委せて、彼等の宣伝をそのまま聴従していた、こんな馬鹿なことはない、もし実際中国のあの旧式な軍隊を対手にして引きずり回されてノンベンダラリとしていたというならば、どうして最も近代的な英米を向こうに回して戦さができるか、最も高度な近代工業を持っている、従って最も進歩した武器と装備を携え得る英米を相手にして戦うというのだから、それは相当の自信がなければならぬ、大した自信はないにしてもある程度の自信はあったであろう。つまり日華事変は対英米戦争に日本を巻き込む一つの基盤をなしたものと見得るのである。もしこの日華事変がなかったならば、あるいは対英米戦争を起こす口実が見出し得なかったかもしれない。

続く

2014年2月14日金曜日

日本バドリオ事件顛末(第二回)

前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 43ページより。

 満洲事変にしてもあれは昭和6年の9月18日に突発したものではない。既に予定計画があって、満洲で事を挙げると同時に十月革命を行って、国内に非常時を現出して、陸軍の政治力を伸ばそうという計画であったのだ。
 満洲事変後の満洲を観ると、決して帝国主義的な単なる大陸政策ではない。満洲に陸軍の支配に属する独立国家を作る、しかしてその独立の国家たるや、普通には帝国主義は資本主義の発展したものだと解釈されており、それが満蒙政策となり、満州国が出来たのだと理解されておるけれども、出来上がった満洲国は決してさようではない。日本の資本主義が製造する物資を満洲に販売し、満洲の産出する天然資源を日本の工業原料にする、という形式はあまり考えていない。満洲を満洲自身完全な独立国家としての機能を営ませる、日本と相関関係におくのではない、という構想の下に作られておる。例えば満洲重工業株式会社というのは、非常に高度の重工業で、飛行機も造り、自動車も作る、こんな重工業は帝国主義が植民地に興す事など考えられるものではない。満洲国を原料国にするなら、単に大豆を作り、石炭を掘り、あるいは鉄鉱石を掘るというに止まる、満洲に近代的な工業を興そうとするものがあれば、それを止めこそすれ、進める必要はどこにもない。満洲という完全な独立国家を作って、日本人という仮面を被っておりながら、実は日本人でない、即ち日本の陸軍軍人の支配する国にしよう、更に進んではこの満洲国をもって日本をリードして行こう、別言すれば満洲をテストプラントにして一応熟練して、日本もそれに持って行こうというのが一つ。それから満洲という大きな背景をもって日本における勢力をそれによって維持し発展せしめよう。故に始終にほんから掣肘されない独立の領地を有っていたかった、こう考えることが一番合理的なように思われる。
 そこで日本の陸軍は社会革命を描いた、それを実行するために政権が必要である。政権を獲得し、維持するために非常事態を必要とする。これがだんだん大きくなっていけば、対外戦争になるほかはない。こういう構想が出て来る訳だ。
 しからば満洲事変後、彼等の構想が果たしてスムースに実現したかどうか。満洲国はできた、種々な事業は緒に就いた、しかし満洲国の建設、満洲国内の開発は時日の経過に伴って、次第に非常時的性格を喪失して来た、多くの日本人は非常時とは感じなくなった。同時に陸軍の政治上の声望威力は漸次下り坂に向かっていった、陸軍にやってもらわなくたって、我々でもやれるではないかと一般の政治家が考えるようになった。こうなっては今一遍非常時を拡大しなければならなくなって、陸軍の人達は、未だ非常時は終わっていないのだ、これからが真の非常時だと声を大にして唱えたが、しかしかけ声だけで、一般国民の心理状態は、既に非常時は終わった、平静に戻ったと考えていた。そこで陸軍としては、国内か国外かどこでもよいから何かしら異変状態の起生することが必要になって来る。それ自身については各々目的や動機もあろうが、血盟団、五・一五、神兵隊、これらは非常事態を連続せしめるという一つの大きな構想が作用しているに違いなかった。
 従って我々は、陸軍は今に満洲から手を返して支那大陸で何か始めはしないかという予感があったところへかの二・二六は起こったのである。二・二六を実行した人達は、それまで陸軍をリードして来たし、またその後、太平洋戦争の終わるまで陸軍をリードしておった幹部に対する反抗であった。ところがこの反抗を巧みに活用して自分等の利益にしてしまった。これは彼等が非常に利巧であったからだ。二・二六は若い人達が冷静な判断を失って、気紛れといっては悪いが血気に逸って起こした事件である。それならばその若い人達が、それまでのリーダー達と真正面から反対したのかというと、そうではない。二・二六に蹶起した若い将校達は、いわゆる皇道派であったかのように言われておるが、実は皇道派でもなく統制派でもない、どちらかと言えば気分は皇道派に近かったかもわからないが、抱いている考え方は統制派に近いものであった。ただ統制派はいつでも幕僚を主流とするだんたいであり、二・二六の若い人達は第一線のすなわち幕僚でない将校であった。皇道派というものは、言われているほど有力なものではなかったと思うが、これも革新派ではあった。その意味において通ずるものがあるけれども、事実は革新派の中の最もプリミティブな復古主義者であった。もっとも全部がそうだというのではなく、皇道派と言われる人達の中に非常にリベラルな進歩的な人達もあった。これは表現の仕方は色々あっただろうが、一面リベラリストでありながら、しかも最も古い陸軍の伝統を多分に持ち続けていた人達、好い意味の大陸論者であった。それで幹部派即ち統制派が大川周明に近かったとするならば、二・二六の若い将校達は、北一輝に非常に近かった。ある人はこれを北と大川の喧嘩だと言ったぐらいだ。しかし統制派は必ずしも大川にリードされていたとは思わない、もっと進んだ・・・科学的社会主義の理論にまで進んだものであった。例えば満洲国のやり方を視ても、みんなトラストで行けるというように、ナチスにも近いが、より多くソヴエットに近い考えを持っていた。満洲国にアメリカの資本を入れようとしたのは鮎川義介君たちだが、しかし満洲の陸軍の人達の考えたのはアメリカの資本と同時に資本主義の這入って来ることは反対である。もし日本の資本主義が満洲の開発に協力しないならば日本の資本家は一切締出していっそソヴエットの援助を仰ごうかと考えたものもあったほどである。
 陸軍の中にもアメリカ資本説を持った人もあったけれども、それはカムフラージュであったような気がする。踊ってる人達は一生懸命踊っているのだが、後ろにいて踊らせてる人としては必ずしも本気じゃなかったように思われる。

続く

2014年2月12日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第一回)

近衛上奏文がどのような過程で出されたかの貴重な記録です。
真崎甚三郎グループが近衛文麿を使って天皇に日本の真の危機を伝え、東条内閣を倒すための活動です。
長いですが、ぜひお読み下さい。


文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 42ページより
まだ日本がアメリカに占領されていた時期の記事である。

日本バドリオ事件顛末                 法務総裁 殖田俊吉

 東條内閣を一挙に打倒して和平政権をつくらんとして、憲兵隊に検挙された、当時の「日本バドリオ事件」の真相が明らかにされた。本編は近衛文麿、吉田茂、真崎甚三郎、小畑敏四郎、岩淵辰雄等の諸氏を同志として暗躍した現法務総裁、殖田俊吉氏の回想録である。

 第一部 昭和軍閥に対する私の見解

 私は、田中内閣の時大蔵書記官で総理大臣秘書官を兼任していたが、昭和3年5月張作霖爆死事件というものが起こった。これは日本の関東軍の陰謀・・・大きく言えば日本陸軍の陰謀であった。しかるに陸軍はこれに対して何等責任を負わないのみならず、あたかも責任が田中大将にあるかのごとくに盛んに宣伝して、とうとう田中内閣を潰しておわった。その時のやり方が実に陰険であったので、私は陸軍というものを信用しないのみならず、これを唾棄し批判するに至った。日本の陸軍が真に日本の国防を託するに足るものであるや否や、非常に疑惑をもって見るようになったのである。
 その後昭和6年3月には三月事件というものがあった。これは未発に終わったけれども、やはり陸軍の陰謀である、これを陸軍はひた隠しに隠していたが、やがて我々の耳にも入って来た。続いて満洲事変、十月革命、いわゆる錦旗革命事件、陰謀の続発だ。更にこれは直接陸軍の計画ではなかったかも知れないが、血盟団とか、或は五一五事件、神兵隊事件、みんな陸軍と関係の深い連中がやった仕業だ。二二六は多少類を異にするものではあるが、やはり陸軍の陰謀だ。また小さい事件では、昭和10年夏の真崎追い出し事件や士官学校事件があった。永田鉄山事件は陰謀ではないが、その一連の中に入って来る。これらを仔細に研究してゆけばゆくほど、陸軍の性格がはなはだ信用すべからざるものであることが看取されるのである。
 私はこの陸軍の性格にかんして、日華事変が現れる以前に、一応の結論を得ておった。そうして早晩中国において事を起こすであろうと想像している時、果たして日華事変が発生した。これも決して突如として起こったものではない。既に私どもの頭の中に想定されていたことであって、かねて抱いていた陸軍に対する批判の結論が、この日華事変によって実証されたようなものである。

 陸軍にはかねてから政治を自分の手に掌握したいという考えが潜んでいた。陸軍が政権を掌握するためには非常事態の発生を必要とする。何かのチャンスで非常事態を惹起して、それによって政権を握ることが出来たなら、今度はその政権を維持するため、次の非常事態を必要とする。政権を継続せしめるために更に新たな非常事態を必要とする。かくのごとくにして、非常時は益々拡大し延長される結果となる。
 一番初めの張作霖事件からして、その意味をもって行われたものだと思われる。張作霖事件なるものは、満洲事変の伏線ではなくて、満洲事変の予行演習であった。もしあの事件が計画通りに進行しておったならば、当然満洲事変になるべかりしものである。それを中途で不発に終わらしめたのは、全く田中義一さんの力であった。もし田中さんが圧力を加えて軍を抑えなかったならば、あの時あれが即ち満洲事変に発展したものと考えてよろしい。
 それでは張作霖事件でも、また満洲事変でも、単なる陸軍の帝国主義の発露であるかというと、さように見えて実はそうではない。陸軍は古くからいわゆる大陸政策なるものを持っている。これは陸軍の北進政策、即ち満蒙に発展し、日本海を本当に日本の領土をもって囲まれた海にしよう、こういう考え方が昔からあるので、張作霖事件などは、その実行であるかの如く見えるけれども、これを仔細に検討すれば、決してそうではない。
 第一次世界大戦後、日本も世界的な風潮に感染して、陸軍というものが非常に社会主義的になった。いわゆる社会革命というようなものに、非常に興味を持つに至った。この社会主義的社会革命を革新政策という名で呼んでいた。陸軍の中には色々な種類と色々な段階とがある、ごく通常の形は国家社会主義である、それほどに至らない人は復古主義である、しかし更に進んだ人は遥かに左傾しておった。そこで社会革命いわゆる革新政策を自分たちの手によって実行して行く、それを実行するためには自分たちが政治力を持たなければならない。その政治力を獲得するためには即ち非常時が必要になって来る。これを人為的に作ろうとしたのが三月事件、これは直接政権を獲得しようとしたのだが、直接でなく間接な形でやろうとしたのが満洲事変、これと表裏をなすものが即ち十月革命、すなわち錦旗革命事件であろう。
 三月事件に関連して、宇垣さんの了解或は黙契があったとか無かったとか色々な見方もあるが、とにかくあの時に擬音爆弾三百個を陸軍から大日本正義団に渡した事実がある。これは陸軍大臣のサインがなければ渡せないもので、その時の陸軍大臣は宇垣さんである。しかしこっちの品物をあってへ動かすというような事は大臣がそんなに詳しく知らないでも、「大臣、これにサインして下さい」とい言われれば「うんそうか」とサインするのが常識である。だからそれにサインされたからといって、あの計画に参加していたかどうかはわかるものではない。宇垣さんは、自分はそうでなかったと弁明をしているのだ。とにかくあの計画を実行しないで中止された。それは主として小畑敏四郎大佐、真崎甚三郎中将の反対があったためだ。宇垣さんは計画の内容をご存知かどうか知らぬがこれを実行を中止するのに不賛成な道理はあるまい。しかるにその結果は如何なるわけか宇垣自らこの計画を裏切ったんだという印象を若い統制派の連中に与えたもののごとく、彼等はそれならば今後宇垣内閣の成立を妨害するという考えになったというのだ。この辺の経緯は相当複雑に考えなければならぬ。世間では宇垣内閣の妨害は軍縮問題が原因だと想像しておるが、しかしそれは実際に即しておらぬ。三月事件を裏切ったから宇垣内閣を妨害するといったのでは世間が承知しない。第一、三月事件はうやむやにしてしまったのだから、世間にわかりやすい軍縮問題を理由にしたのである。そこに陸軍の連中のいかにも奸知に長けた所を見るのである。

続く