2014年2月14日金曜日

日本バドリオ事件顛末(第二回)

前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 43ページより。

 満洲事変にしてもあれは昭和6年の9月18日に突発したものではない。既に予定計画があって、満洲で事を挙げると同時に十月革命を行って、国内に非常時を現出して、陸軍の政治力を伸ばそうという計画であったのだ。
 満洲事変後の満洲を観ると、決して帝国主義的な単なる大陸政策ではない。満洲に陸軍の支配に属する独立国家を作る、しかしてその独立の国家たるや、普通には帝国主義は資本主義の発展したものだと解釈されており、それが満蒙政策となり、満州国が出来たのだと理解されておるけれども、出来上がった満洲国は決してさようではない。日本の資本主義が製造する物資を満洲に販売し、満洲の産出する天然資源を日本の工業原料にする、という形式はあまり考えていない。満洲を満洲自身完全な独立国家としての機能を営ませる、日本と相関関係におくのではない、という構想の下に作られておる。例えば満洲重工業株式会社というのは、非常に高度の重工業で、飛行機も造り、自動車も作る、こんな重工業は帝国主義が植民地に興す事など考えられるものではない。満洲国を原料国にするなら、単に大豆を作り、石炭を掘り、あるいは鉄鉱石を掘るというに止まる、満洲に近代的な工業を興そうとするものがあれば、それを止めこそすれ、進める必要はどこにもない。満洲という完全な独立国家を作って、日本人という仮面を被っておりながら、実は日本人でない、即ち日本の陸軍軍人の支配する国にしよう、更に進んではこの満洲国をもって日本をリードして行こう、別言すれば満洲をテストプラントにして一応熟練して、日本もそれに持って行こうというのが一つ。それから満洲という大きな背景をもって日本における勢力をそれによって維持し発展せしめよう。故に始終にほんから掣肘されない独立の領地を有っていたかった、こう考えることが一番合理的なように思われる。
 そこで日本の陸軍は社会革命を描いた、それを実行するために政権が必要である。政権を獲得し、維持するために非常事態を必要とする。これがだんだん大きくなっていけば、対外戦争になるほかはない。こういう構想が出て来る訳だ。
 しからば満洲事変後、彼等の構想が果たしてスムースに実現したかどうか。満洲国はできた、種々な事業は緒に就いた、しかし満洲国の建設、満洲国内の開発は時日の経過に伴って、次第に非常時的性格を喪失して来た、多くの日本人は非常時とは感じなくなった。同時に陸軍の政治上の声望威力は漸次下り坂に向かっていった、陸軍にやってもらわなくたって、我々でもやれるではないかと一般の政治家が考えるようになった。こうなっては今一遍非常時を拡大しなければならなくなって、陸軍の人達は、未だ非常時は終わっていないのだ、これからが真の非常時だと声を大にして唱えたが、しかしかけ声だけで、一般国民の心理状態は、既に非常時は終わった、平静に戻ったと考えていた。そこで陸軍としては、国内か国外かどこでもよいから何かしら異変状態の起生することが必要になって来る。それ自身については各々目的や動機もあろうが、血盟団、五・一五、神兵隊、これらは非常事態を連続せしめるという一つの大きな構想が作用しているに違いなかった。
 従って我々は、陸軍は今に満洲から手を返して支那大陸で何か始めはしないかという予感があったところへかの二・二六は起こったのである。二・二六を実行した人達は、それまで陸軍をリードして来たし、またその後、太平洋戦争の終わるまで陸軍をリードしておった幹部に対する反抗であった。ところがこの反抗を巧みに活用して自分等の利益にしてしまった。これは彼等が非常に利巧であったからだ。二・二六は若い人達が冷静な判断を失って、気紛れといっては悪いが血気に逸って起こした事件である。それならばその若い人達が、それまでのリーダー達と真正面から反対したのかというと、そうではない。二・二六に蹶起した若い将校達は、いわゆる皇道派であったかのように言われておるが、実は皇道派でもなく統制派でもない、どちらかと言えば気分は皇道派に近かったかもわからないが、抱いている考え方は統制派に近いものであった。ただ統制派はいつでも幕僚を主流とするだんたいであり、二・二六の若い人達は第一線のすなわち幕僚でない将校であった。皇道派というものは、言われているほど有力なものではなかったと思うが、これも革新派ではあった。その意味において通ずるものがあるけれども、事実は革新派の中の最もプリミティブな復古主義者であった。もっとも全部がそうだというのではなく、皇道派と言われる人達の中に非常にリベラルな進歩的な人達もあった。これは表現の仕方は色々あっただろうが、一面リベラリストでありながら、しかも最も古い陸軍の伝統を多分に持ち続けていた人達、好い意味の大陸論者であった。それで幹部派即ち統制派が大川周明に近かったとするならば、二・二六の若い将校達は、北一輝に非常に近かった。ある人はこれを北と大川の喧嘩だと言ったぐらいだ。しかし統制派は必ずしも大川にリードされていたとは思わない、もっと進んだ・・・科学的社会主義の理論にまで進んだものであった。例えば満洲国のやり方を視ても、みんなトラストで行けるというように、ナチスにも近いが、より多くソヴエットに近い考えを持っていた。満洲国にアメリカの資本を入れようとしたのは鮎川義介君たちだが、しかし満洲の陸軍の人達の考えたのはアメリカの資本と同時に資本主義の這入って来ることは反対である。もし日本の資本主義が満洲の開発に協力しないならば日本の資本家は一切締出していっそソヴエットの援助を仰ごうかと考えたものもあったほどである。
 陸軍の中にもアメリカ資本説を持った人もあったけれども、それはカムフラージュであったような気がする。踊ってる人達は一生懸命踊っているのだが、後ろにいて踊らせてる人としては必ずしも本気じゃなかったように思われる。

続く

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