2017年3月5日日曜日

帝国憲法制定の精神 三(上)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
17ページからの引用です。

 そこで明治二十三年に国会を開くまではここに十ヶ年の準備期間がある。政府も準備せなければならぬ。国民も準備しなければならぬ。そこで政府は段々廟議を尽くして、元老院から奉呈になっている国憲草案では、まだ足らぬ所があるということになった。蓋し元老院の国憲草案は 明治天皇の御沙汰の如く国体に基づいて海外諸国の成法を斟酌せよというご趣旨には足らないから、誰かをヨーロッパに遣ろうということになった。明治十四年頃のヨーロッパは、ドイツが千八百七十年にフランスに打ち勝ち、新たにドイツ帝国を建設し、また大宰相ビスマルクが皇帝ウィリアム一世を輔翼してヨーロッパを震撼せしめた勢いの盛んな時代であり、このドイツ帝国は世界の憲法国の中でも君権の赫赫(かくかく)たる国であるからそこに伊藤公を派遣して憲法を取り調べさせようということに廟議が極まった。しかして伊藤公の出発に先だって 明治天皇から勅語を賜った。その勅語をここで読み上げます。これは明治十五年三月三日に賜ったのであります。

 朕明治十四年十月十二日の詔旨を履(ふ)み立憲の政体を大成するの規模は固(もと)より一定する所ありと雖もその経営措画に至りては各国の政治を斟酌して以って採択に備わるの要用なるがために今爾(なんじ)をして欧州立憲の各国に至りその政府または碩学の士と相接しその組織及び実際の情形に至るまで観察して餘蘊(ようん)無からしめんとす。ここに爾(なんじ)を以って特派理事の任に当たらしめ爾が万里の行を労とせずしてこの重任を負担し帰朝するを期す

 この御沙汰と共に取り調べ問題数十科目を御下附になりました。今この御沙汰書を拝読して見ますと、立憲政体の基礎は固より 明治天皇は御極めになっているけれども、なお外国に行って立憲政体の組織とその実際の運用の状況を能く見て来るようにとの御沙汰である。それから伊藤公は数多(あまた)の僚属(りょうぞく)を随えドイツに行き一ケ年半ばかりベルリンに滞留し明治十六年の秋帰朝せられて、翌十七年の春、憲法起草の大命を拝せられた。伊藤公はこの大命を拝せられたから、井上毅、伊東巳代治、私の三人を憲法起草委員に命ぜられた。
 前に申す通り、日本の憲法は各国の成典を斟酌して起草するようにとの御沙汰でありますから、我々三人の調べた材料の中にはベルギーの憲法もあれば、イタリア、ザクセン、プロシアのもある。その他色々の国の憲法がありますが、それはここに一々申し上げると長くなりますから、省きまして、ここにはフランスとドイツとイギリスの憲法について調べたことを極めて簡単にその要領だけを陳述することに致します。
 フランスの憲法政治の歴史は、諸君のご承知の通りルイ十六世が帝政の時代に暴虐なる政治を行ったがために、人民が蜂起してとうとうルイ十六世の帝政を倒して共和政府を樹立した。これが千七百九十二年である。しかるにその共和政府もまた永く続かずして、英雄ナポレオン一世が現れ、共和政府を改めて帝政となし、自ら皇帝となった。ナポレオン一世が創立した帝国政府もルイ・フィリップの皇帝の時代に、民心が皇帝に叛き、千八百四十八年の革命の時帝政を廃して共和政府を再興し、ルイ・ナポレオン即ち後のナポレオン三世が選ばれて大統領になった。ナポレオン三世は非常にフランス国のために働いたから、その権威を以って共和政府を改めて帝政に戻って、自ら皇帝の位に就いた。しかしこのナポレオン三世も千八百七十年にプロシアと戦って大敗北し、セダンで捕虜となった。その結果フランスは三度共和政体の国となった。これは千八百七十五年のことである。
 かくの如くフランスは、帝政が倒れては共和政となり、共和政が倒れるとまた帝政になり、その帝政が倒れて三度目の共和政になった。由来フランスという国は、主権民にありという論を学者も唱え、人民もこれを信じ、これが国論となっている。故に気に入らなければ皇帝であろうと何であろうと、忽ちこれを廃して共和政府を建てる。共和政府でやって見ていけなければ、また皇帝になるべき人を選んでその位に即かせる。皇帝はほとんど人民の選ぶがままになっている。それでフランスでは皇帝も大統領も、ただ人民が自由勝手にする機関になっている。したがってこの国の憲法の原則は主権民にありとて皇帝また大統領は機関なりという理論の上に組み立てられたものであって、所詮わが国には適用すべきはずのものではない。よって我々は一応調べることは調べたが、まづこれをテーブルの上に束ねて置くことにした。
 続いて調べたのはドイツの憲法であります。明治十七年頃のドイツは帝威隆々たるものであって、当時ほとんど日本の大学卒業生のごときも、留学といえばドイツを目指して行ったくらいのものであった。泰西の学問は政治学でも経済学でも憲法学でも、何でも彼でもドイツドイツというほど、ドイツ国の旺盛な時であった。それで伊藤公がドイツに行かれたのも、あの帝権の赫赫(かくかく)たるドイツに行ったならば、日本の如き君主親裁の国において参考とすべきことがありてゃしないかと思って行かれた。そうしてグナイストとかスタインとかいうような学者に就いて憲法の講義を聴き、また彼の国の政治家などなども論談して、大いに得るところがあって帰られた。そういう国柄でありますから、我々も大なる期待を以って取り調べに掛かりました。そうしてその取り調べた結果はどうであったか。この事は諸君も学者であるから既にご承知のことであろうと思いますので、極めて簡単に申し述ぶるに止めて起きます。
 ドイツ帝国の興ったのはプロシア王ウィリアム一世がビスマルクという大政治家を股肱として国政を行い、また名将モルトケを参謀総長に任じて軍事を司らしめたのに原因する。ビスマルクはかねてより北ヨーロッパにドイツ帝国を建設する大望を抱き、この大望を成就するにはまづ北ドイツ連盟を作り、プロシア王国をしてその連盟の牛耳を取らしめ、更に進んで連盟を改めてドイツ帝国とし、プロシア国王をしてドイツ皇帝たらしめんことを望んでおった。そこでまづ北ドイツ全般を勢力範囲としておるオーストリアを、その方面から駆逐しなければならぬという計画を立て、盛んに軍備拡張を企てた。ところが、プロシア国の議会はかかる大望のあると知らず、毎年軍備拡張案を否決した。そこで、ビスマルクは四年間にわたって毎年毎年議会の決議を省みず政府の原案を執行して軍備を拡張した。しかるに千八百六十六年にプロシアとオーストリアとの間に戦争が起こって、プロシアは七週間の短時日にオーストリアを叩きつけた。その結果としてマイン河を境に北ドイツからオーストリアの勢力を駆逐して、北ドイツは一切オーストリアの勢力範囲以外ということをオーストリアに誓わせた。このビスマルクのことを鉄血宰相と言い、また鉄と血の力で造ったこの国のことを北ドイツ連盟(ノース・ジャーマン・コンフェデレーション)という。しかして北ドイツ連盟の中には、従来主権を有する数多の王国がいくらもある。しかしてその中で一番強大なる国はプロシアである。またこれらの王国の他になお自由都市のフランクフルト・アム・マインとかブレーメンとかいうような都市があった。日本で言えば大阪のような都市が、王国以外に独立している。その自由都市と、独立王国に分かれた十何ヶ国の王国、あたかも日本の昔の大名のようなものが、北ドイツ連盟を造って、プロシアという大大名がその盟主となったのである。しかして、これらの連盟で協議の結果プロシア王をもって大統領にした。皇帝にはしない。あたかも北米合衆国の各連邦が、各州で選んで大統領にするように、プロシア王を兼ね北ドイツ連盟の大統領とした。これ即ち連盟の機関である。
 しかしビスマルクはそんな事では満足ができなかった。どうしてもドイツ帝国を造らなければならぬというので、北ドイツ連盟を踏み台としてナポレオン三世と戦ってセダンでこれを虜にし、そうしてヴェルサイユ宮殿に於いてドイツ帝国を創立して本来の目的を達した。これより先きマイン河の南にあるドイツ系の諸王国のバヴァリヤ、ヴェルテンブルグ、バーデン、ヘッセン等の如きも今まではオーストリアの勢力範囲に属しておったが、プロシアの勢力が強くなったのと、またその人種はドイツ系であるというので、ドイツ連盟の仲間入りをすることになった。そこでこれらの南方の諸王国をも一括して初めて当初の目的たるドイツ帝国を建設した。ここに於いて連盟の大統領を改めてドイツ帝国の皇帝とせねばならぬ。しかるにプロシア王ウィリアムは容易に承諾しなかったからドイツ帝国を組織する三十ばかりの諸国王の代表者と、人民を代表とする三十人をして、プロシア国王ウィリアムを推薦してドイツ皇帝たらしめた。これによってこれを見れば、大統領たる機関を改名して皇帝と称するのみである。これがドイツ帝国建設の歴史であるから、ドイツの憲法学の論理によれば皇帝を機関ということは当然のことであります。
 さてドイツ帝国の憲法によれば上院と下院の二院がある。上院の議員は、プロシアを初めドイツ国内において従来から独立して君主権を持っている三十ばかりの王国の君主の代表者である。そこでプロシア国王も代表者を出す。また諸王国の君主でも代表者を出す。これが上院の組織である。また下院はどうかというと、元来ドイツという国は民衆主義が多い所である。かのプロシアのフレデリック大王がフランスのボールテーヤを招聘して、ポツダムの宮殿の中に住まわせてボールテーヤの学説を聴いた。以来仏国の文化と共に主権民にありという学説が伝播して、ドイツは実際主権在民という思想が随分盛んであった。よってビスマルクは極力この思想を排斥しようと思ってもいかんともすることができなかったので、新たに創設したるドイツ帝国の下院だけは最初から普通選挙にして、二十歳以上の男子ならば何人といえども下院の議員となることができることのして、人民を懐柔する政策を取った。そこで上院の方は、各連邦の王国の君主を代表する人をもってこれを組織し、しかして下院の方は普通選挙により選出する議員をもって組織する。この組織によれば氷炭相容れざる、二種の階級即ち主権は国王にありとする者と、主権民にありとする者とをもって一議院内において政治を論議せしむるから中々困難である。しかるにさすがはビスマルクのことであるから、いろいろ策略を用いてこれを操っておったが、皇帝ウィリアム二世の時代になって、ビスマルクを追っ払って、自ら政務を専決せられることになった。
 かくのごとくドイツの憲法によれば、上院においては主権は諸王国にあるという代表者があり、また下院においては主権民にありという人民の代表者がいる。そうしてその上にあるドイツ皇帝であるから、諸王国の代表者の如くも見えまた人民の代表者の如くも見えて、その真実の名称から言えば洵(  )に憲法上首尾一貫しておらない。しかしながらドイツ皇帝は帝国建設の歴史から見てもまたその議院の組織から論ずるも国家の機関なりということは適当であろう。よってドイツの憲法は我が日本憲法に採用することはできなかった。これは 明治天皇が我が建国の体に基づいて憲法を起草せよと仰せられた御沙汰に沿わざるがためである。そこで残るところはイギリスの憲法である。