2018年7月5日木曜日

「大王(おおきみ)」とは天皇の尊称ではなく、単に「偉大なる我が主君」という意味。

最近の歴史書を読むとやたらに「倭」「倭王権」「大王」という文字が多く見られる。政治的というか思想的な悪意を感じるのは私だけだろうか。憲法学会だけでなく歴史学会も共産主義者に占領されてしまったのであろうか。「倭」という蔑称を「日本」に替えるように支那との外交交渉でやっと替えさせたのに、なぜ日本人が自らを蔑称で呼ばなければいけないのか。せめて仮名の「やまと」か、「大和」のやまとで良いではないか。
今は「天皇」と書いて「てんのう」と呼ぶが、元は「すめらみこと」「すめらき」「すめらぎ」であり、「治天下」と書いて「あめしたしらす」または同じ意味の「御宇」を「天皇」の頭につけて読んでいた(治天下天皇、または御宇天皇)。
上代では「すめらみこと」「すめらぎ」「すめらき」または「あまつきみ(天つ君)」という言葉があるのに、歴史の本や教科書でわざわざ「大王」という如何にも地位が低そうな名前を使う必要があるのか。
また「王権」という言葉も、本来は「kingship」という単に「王であること」という意味しかない。
それなのに、天皇を「権力を持った単なるどこの国でもいるような王様」と思わせようとする悪意を感じるのは私だけだろうか。

共産主義者は「天皇制廃止」のためだったら、何でもするようだ。歴史を塗り替えることだってしかねない。
私は歴史に関しては、素人である。しかし、プロであるはずの歴史学者がことごとく共産主義者になってしまったら、素人でも戦わなければならない。
素人の抵抗を見よ。

今回は「古代の『天皇』の尊称は本当に『大王(おおきみ)」だったのか」という主題で考える。

まず「大王説」の根拠になっているのが、稲荷山古墳から出土された鉄剣と、江田船山古墳出土の大刀の銘文である。

稲荷山古墳の鉄剣銘の内容を以下に記す。

「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」

これを読みやすくすると、
「辛亥の年(西暦471年?)七月に記す。乎獲居(おわけ)の臣(おみ、つまり臣下)の祖先の名は意富比垝(おほひこ)、その子の名は多加利足尼(たかりすくね)、その子の名は弖已加利獲居(てよかりわけ)、その子の名は多加披次獲居(たかひしわけ)、その子の名は多沙鬼獲居(たさきわけ)、その子の名は半弖比(はてひ)、その子の名は加差披余(かさはよ)、その子の名は乎獲居(おわけ)の臣(おみ)。世世杖刀人の首(かしら)となり、事(つか)え奉り來りて今に至る。獲加多支鹵の大王の寺、斯鬼宮(しきのみや)に在(いま)す時に、吾(われ)、天下を左(たす)け治む。この百錬の利刀を作ら令(し)め、吾が事(つか)え奉(まつ)れる根原を記(しる)すなり。」

江田船山古墳出土の大刀には、
「治天下獲加多支鹵(推定)大王世、・・・」と記されている。

これが、「天皇(すめらぎ、てんのう)」の称号が「大王(おおきみ)」であった根拠である。

本当にそうであろうか。

次に推古天皇と聖徳太子が作らせた法隆寺薬師像の光背銘の文を示す。

「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年召於大王天皇與太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然當時崩賜造不堪小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」

これを読みやすくすると、
「池邊(いけべ)の大宮に天(あめ)の下を治(し)らしめしし天皇(すめろき)大(おほ)御身(みみ)勞(いたつ)き賜(たまい)し時、歳(ほし)丙午(ひのえうま)に次(やど)るの年なり。大王(おほきみ)の天皇(すめろき)と太子(ひつぎのみこ)を召して、誓願(せいがん)し賜(たま)ひ、我が大(おほ)御病(みやまひ)太平(たひ)らぎなむと欲(おも)ほし坐(ま)す。故(かれ)将(まさ)に寺を造(つく)り薬師像を作り仕へ奉(まつ)らむと詔(の)りたまふ。然(しか)れども當時崩(かむさ)り賜(たま)ひて、造り堪(あ)へざれば、小治田(をはりだ)の大宮に天(あめ)の下治(し)らしめしし大王(おほきみ)の天皇(すめろき)及び東宮聖王と大命を受け賜(たま)ひて、歳は丁卯(ひのとう)に次(やど)る年に、仕(つか)へ奉(まつ)りき。」

これをわかりやすくすると、
「池邊の大宮に住まわれる日本国を統治されていたすめらみこと(天皇)のお体がお病気になられた時、それは干支でいうと丙午の年であった。おおきみ(大王)のすめろき(天皇)とひつぎのみこ(皇太子)をお呼びになられて、誓願をたてて、我が病が治るように欲している。それ故、そのために寺を建て、薬師如来像を作ってお仕えし奉るようにと詔された。しかし、その時すめらみことは崩御され、建て作れなかったので、小治田の大宮に住まわれ日本国を統治されていたおおきみ(大王)のすめろき(天皇)と東宮にお住いの聖王(聖徳太子)とがその(用明天皇の)大命を受け賜て、干支は丁卯の年に、仏像にお仕えし奉った。」

「池邊の大宮の天の下を治らしめししすめらみこと」は用明天皇のことである。当時は天皇毎に御殿が立てられていたので、その御殿を「〇〇の大宮」と呼んでいた。
「小治田の大宮の天の下を治らしめししおおきみのすめろき」は推古天皇のことである。

この文の中で『おおきみ(大王)』という言葉は二回出てくる。どちらも推古天皇にかかっている。しかし、用明天皇には『おおきみ(大王)』という言葉はかかっていない。
それから、『おおきみ(大王)』と「すめらき」が二重に使われている。
もし、『おおきみ(大王)』という言葉が天皇の尊称であるのであれば、用明天皇にもかからなければおかしいし、『おおきみ(大王)』と「すめらみこと(天皇)」を二重で使うことは意味がなくなる。
このことから推測されるのが、『おおきみ(大王)』とは天皇の尊称ではなく、この文を書いた人の直属の主君を指しているということである。
つまり、この文を書いた人は推古天皇の臣下であるから、推古天皇にのみ『おおきみ(大王)』という言葉を使っているのである。
『おおきみ(大王)』という言葉の意味は、「我が偉大なる主君」という意味である。
ここでややこしいのが、天皇の臣下が書いた文だと全て「おおきみ(大王)」となることである。

ここで、天皇以外に「おおきみ(大王)」を使った例を示そう。
聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が作らせたという「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」である。これは、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵されている、

その銘文は以下の通りである。

斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大
臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥 己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥
己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為
后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己
等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃 弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名
尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶 妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治
天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在
辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩
于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇
母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世 間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王
生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看 悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之
悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繍帷二張 画者東漢 末賢高麗
加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻

以下に読み下し文を示す。

斯帰斯麻(しきしま)宮に天の下治ろしめしし天皇 名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと) 巷奇(そが)の大臣(おおおみ) 名は伊奈米(いなめ)の足尼(すくね)の女(むすめ) 名は吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)を娶して大后(おおきさき)とし 生みませる名は多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと) 妹の名は等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと) 復(また)大后の弟 名は乎阿尼乃弥己等(おあねのみこと)を娶して后と為し 生みませる名は孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと) 斯帰斯麻天皇の子 名はヌ奈久羅之布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと) 庶妹 名は等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)を娶して 大后と為し 乎沙多(おさた)の宮に坐して 天の下治しめして 生みませる名は尾治王 多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと) 庶妹 名は孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと)を娶して 大后と為し 濱辺の宮に坐して 天の下治しめして 生みませる名は等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと) 尾治大王の女 名は多至波奈大女郎(たちばなおおいらつめ)を娶して后と為したまう 
歳は辛巳に在る十二月廿一日癸酉の日入に 孔部間人母王 崩(かむあが)りたまう 明年の二月廿二日申戌の夜半に 太子 崩りたまいぬ 時に多至波奈大女郎 悲哀(かな)しみ嘆息(なげ)きて 天皇の前に畏み白して曰さく「之を啓(もう)すは恐れありと雖も心に懐いて止使(やみ)難し 我が大王(大皇)と母王と 斯りし如く従遊まして 痛酷(むご)きこと比なし 我が大王の所告(のたま)いけらく『世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なり』と其の法を玩味(あじわい)みるに 我が大王は 応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う 而るに 彼の国の形は眼に看がたき所なり 稀(ねが)わくば図像に因りて大王の往生したまえる状(さま)を観(み)んと欲(おも)う」と天皇 之を聞こしめして 凄然たまいて告曰(のりたま)わく「一の我が子有り 啓す 所誠に以て然か為す」と諸の妥女等に勅して 繍帷二張を造らしめたまう
画ける者は 東漢末賢(やまとのあやのまけん) 高麗加世溢(こまのかせい) 又 漢奴加己利(あやのぬかこり) 令せる者は 椋部秦久麻(くらべのはたのくま)なり

上記読み下し文の大意です。

しきしまの宮(磯城嶋宮)に天の下治らしめしし天皇(すめらみこと)、名は「あめくにおしはるきひろにはのみこと(天國排開廣庭尊=欽明天皇)」、そが(蘇我)の大臣「いなめ(稲目)の足尼(すくね/宿禰)」の娘、名は「きたしひめのみこと(堅鹽媛命)」を娶りて大后(おおきさき)とし、名は「たちばなとよひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)」・妹(いも)の名は「とよみけかしきやひめのみこと(豐御食炊屋姫尊=推古天皇)を生みたまわれた。また大后の弟は 名は「おあねのみこと(小姉命)」を后とし、名は「あなほべはしひとのひめみこ(穴穂部泥部皇女)」を生みたまわれた。しきしまの天皇が御子、名は「ぬなくらのふとたましきのみこと(渟中倉太珠敷尊=敏達天皇)」、庶妹(ままいも)名は「とよみけかしきやひめのみこと」を娶りて大后となし、おさたの宮(譯田宮/他田宮)に坐(いま)して天の下を治らしめていた。名は尾治王(おはりのみこ)を生みたまわれた。「たちばなとよひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)」、庶妹(ままいも)名は「あなほべはしひとのひめみこ」を娶りて大后となし、いけのべの宮(池邊宮)に坐しまして天の下を治しめされた。名は「とよのみみのみこと(豐聰耳皇子=聖徳太子)」を生みたまわれた。尾治大王の娘、名は「橘大女郎(たちばなのおおいらつめ)」を娶りて后となされた。
辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日夕暮れ、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。我が大皇(太子)と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。我が大王(太子)は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。我が大王(太子)は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって大王(太子)の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繍帷二帳を作らせた。画者(図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)である。

この文の中で「大王(おおきみ)」は尾治大王と聖徳太子に対して使われている。それなのに、天皇(すめらみこと)である欽明天皇、敏逹天皇、用明天皇には使われていない。
この文の主体は、聖徳太子の后橘大女郎である。尾治王は橘大女郎の父であり、聖徳太子は夫である。
聖徳太子を「我が大王」と呼んでいるように、「大王」とは「偉大なる主人」という意味で、「天皇の称号」としての意味はない。尾治王は父なので、「偉大なる我が父」という意味で「大王」という言葉を使っていると思われる。

稲荷山古墳の鉄剣が作られたのが西暦471年、聖徳太子が亡くなったのが西暦622年と150年の間がある。しかし、この150年の間に「大王」の意味が変わるであろうか。
同時期に一人にしか使えない「天皇の尊称」を父や夫に使うようになるだろうか。
私は考えられないと思う。
稲荷山古墳の鉄剣の作者は「乎獲居(おわけ)の臣」であり、「乎獲居(おわけ)の臣」は「獲加多支鹵の大王」の正に「臣下」であった。
だから、「乎獲居(おわけ)の臣」にとって、「獲加多支鹵の大王」は「天皇」であり、「我が偉大なる主君」でもある訳だ。

このように、共産主義者が主張するような「大王」という天皇の称号はなかったのだ。
日本の歴史を抹消し、改竄しようとする悪意のある共産主義歴史学者が日本の学会にいて良いのだろうか。
学者と名乗ってさえいれば、大量に本を出し、教科書に内容を勝手に改竄して良いのだろうか。
日本国民、皆に問いたい。