2017年5月5日金曜日

帝国憲法制定の精神 四(下)

金子堅太郎著
「帝国憲法制定の精神、欧米各国学者政治家の評論」
文部省、昭和10年8月発行
38ページからの引用です。

 ここに一つ諸君にお話し申したい事があります。憲法の草案は明治二十一年の四月に我々四人にて審査議決し、伊藤公より上奏になりました。そうして枢密院が新たに創立せられて、憲法草案は御諮詢になりまして、同年五月より翌二十二年の一月まで憲法会議が開かれました。この会議には毎回 明治天皇は臨御になりまして唯の一回も御欠席になったことはございませんでした。そうして会議の初めから終わりまで御熱心に議事を聞き召されましたことは、我々御側におったものは実に恐懼の至りにも堪えませんでした。なお畏れ多いことは、我々書記官に仰せられて、その日その日の修正の点を御手許にある草案に朱書きを以って書き込んで奉呈するようにと御意遊ばれたこともしばしばありました。そうして我々が朱字で書き込んで奉呈致しましたものをその晩親しく御研究になりまして、もし御不審の点があれば翌日の会議の前に伊藤議長を召されて御質問になる位に御勉強あらせられました。
 また明治二十一年七月以後の厳暑の際、憲法会議が開かれた時ーその場所は只今の青山離宮内にして、その建物は現在明治神宮外にある憲法記念館ー午後になると西日の烈光が差し込みまして御膝元まで参ります。そうして御膝も炎天の光で照らすようになっている。けれども少しも暑いとは仰せになりませぬ。その時黒田総理大臣がその席に列しておりましたが、恐懼措くところを知らず自ら立って板戸を締めて、御膝に西日の当たるのを防いだ位でありました。また冬の十二月、一月の厳寒の気候になりますとストーブは今と違って一つよりない。広い間は余りにも寒いので火鉢を入れてありますが、顧問官などは誰も皆寒い寒いと言いますけれども、 明治天皇には何とも仰せられない。この如く暑寒共に厭わせられず、憲法会議に御精励遊ばされて、この不磨の大典ができたのであります。
 殊に我々が恐懼に堪えざりしことは、ある会議の日に、侍従が慌ただしく会議室に這入って来て、伊藤議長に耳打ちをした。何事を囁いたのか無論誰も分からない。すると伊藤議長は直ちに立って御側に進み低い声で何事か 陛下に言上された。そうしてまた元の席に還って会議を聴いておられたがやがてその討議も終わり決をを取るや否や伊藤議長はまた立って 陛下に何事か奏聞され 陛下は直に入御あらせられた。入御の後伊藤議長は立って宣告して曰く、実は先刻侍従が来て只今皇子昭宮が薨去せられたから上奏ありたしと言うから、私はその旨を上奏し、昭宮薨去と承る以上は 御上には入御遊ばされ会議はこれにて中止いたしましょうと申し上げたところが 陛下には会議は中止するには及ばぬ、このまま継続して審議中の一条の終わった後、内儀に帰るから、それまでは議事を進行せよ、と仰せられたにより只今まで議事を続け、その一条を議了したからここにここに会を閉じ 陛下は入御遊ばされたのであると。その時列席の人々は顔を挙げることができず皆首を垂れて唯々恐れ入るのみであった。その時我々は 陛下の御意中如何かは分かりませぬが、我々の恐察するところでは、憲法は皇祖皇宗の偉業を御継ぎになって、これを皇子孫に伝え給う国家の大典である。この重大なる会議の中ばに於いてたとえ皇子の薨去ありたりとはいえ、これは皇国の重大政務である。故に御親子の情に於いては忍び給わせられざるところであるが、この会議を中止することは然るべからずとの御思し召しであったであろうと恐察し奉った。そのくらいに憲法制定については、大御心を注がせ給うたのであります。当時目の当たりこれらの光景を拝しました者は今日私一人よりこの世に残存している者はない。私が憲法のことについて今ここに演説するのも、決して弁を好むためではない。また私が憲法起草に関係ありとして、自己の広告をするのでもない。ただ残存者の一人として今日の如く世の一部の学者が憲法の精神を誤解し、謬言妄説を以って後進を誤らしむることは 明治天皇に対し奉って恐多い次第であるから、忌憚なく自分の実験したことを諸君に申すのであります。
 また憲法第十二条の陸海軍の編制及び常備兵額また第五十五条の大臣補弼の責任につき如何に伊藤公が深思熟考し何回となく会議を開きて欧米諸国の欠点を補い国防に充実を完全ならしめられたること、又第六十七条の 天皇の大権に関する既定の歳出につき欧米に先例なき条項を設けられたる沿革及び理由を詳しく申し述べますとこの席では終了しませんから、ここに省略することに致しました。しかし第一条と第四条だけをお話しすれば、それで憲法講習会をお聞きになった趣意に適応すると思います。その他の条章については後日また機会があればお話し申すことに致しまして、これより欧米各国の政治家及び学者が如何に日本の憲法について批評したかを申し述べようと思います。

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