2014年6月29日日曜日

非常時局読本(第九回)「大義名分は日本人の生命である」

 今回は「大義名分」についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

47ページより

九、大義名分は日本人の生命である。

 日本国はその大義が通ってこそ日本国である。即ち大義名分ということが日本人の生命であり、日本国の生命である。これが乱れた時は必ず日本国は動揺する。これは恰も物理学に於ける振り子の運動のようなものである、振り子が垂直に垂れていれば左右の動揺は起こらないが、これがはずれれば直に左右に振れる。即ち大義名分が日本を貫いていれば日本に非常時は来ないのであるが、大義名分が暗くなれば即ち振り子が中心の垂直線から脱すれば直に左右に振れるように国家に必ず動揺が起こるのである。しかして、振り子が中心線で遂には留まるように、大義名分の力に依って最後には動揺が日本では止むのである、それで天地と共に悠久に続くのである。外国には国体がない、それで大義名分というものもないから、一度起こった動揺は何時迄も続き、右に振れ左に振れつつ歩くのである。即ち易姓革命という国家の大混乱は免れないのである。しかして中心線に動揺を制止する力がないのが外国である。歴史を見ると、日本にも多少世に汚隆があったけれども、やがてはその中心線たる大義名分に抑制せられて、即ち正気時に光を放って、真の日本の正体に復するに至るのである。
 それで往年正気が光を放って、国体明徴等が叫ばれたけれども、世を被って間違った思想に左右せられておった時代であるから、その方が却って悪いように解する者もあり、またその悪思想に感染していた者には何よりも恐ろしき消毒剤であるから、却って余計な事をいう者があるから世が騒がしくなる等と考えて、真剣な者を危険視するような暗黒時代となった。しかしさすがは日本人であるから血の中には日本国体を理解しているから、表面ではやむを得ずこれは大変だとは称えたが、さりながら内面的にはそんな事を言う人を悪人にしてしまったのである。その後歴代の内閣は政綱の第一に国体明徴を掲げるようにはなったが、今日に至るまでなお日本精神を説く者が注意人物であるような気分が漂っているところに思想混乱の根本があり思想不統制の原因があるのである。大抵の者が国体は明徴だ、そんな事は言わなくて分かっている等というが、灰色にしか分かっていないのだる。先般神兵隊の宇野裁判長がこんなに裁判が長引いては、上御一人に対し奉り申し訳ないと言ったと新聞に出たが、その時にある裁判官が私にそれを喜んで褒めて言ったから、私はそれを聞いて、そんなことは当たり前ではないかとこう思ったが、その人の言うのには中々さようでない。近頃は天皇の御名に於いて行う裁判を理解せず、また御名代の意味で裁判をやっているのに真にそんな気持ちで任に当たっている者はなかなか少ない、大抵はいわゆる権力至上主義、法律中心主義、つまり法律の番人の気持ちであり、いわゆる外国の国家の役人と同様の考えになって権力の行使者になっているとかように語った。本当に日本の国体が分かり、忠良なる陛下の官吏でありまた假令罪のある人でも 陛下の赤子たる事を考うる日本精神の所有者であるならば、親が子を裁判するような御上の気持ちが理解されて、その気になって裁判するようになるはずである。ただ法律の末節に引っ掛けて人民を敵視するような冷酷なる気にはなれないはずである。被告もまた親に接する気で裁判に応ずるのである、そこまで行って初めて義は君臣情は父子の国体が明徴になったと言えるのである。
 またある子どもはその父親が、ある事件に関係したからと言って、学校の校長さんがその子どもの入校を渋って許さなかったと言うことであるが、これらも本当に校長さんがいわゆる日本精神に目覚めていない証拠である。申すも畏れ多きことながら、日本の御皇室は斯くの如き浅薄なる御徳ではない。万物皆その御仁徳に浴する広大無辺の御聖徳にあらせられ、これまで天変地異に際してさえも、それは 朕が不徳の致すところであると仰せになっているのは真に感涙すべき事である。また昔、仁徳天皇様は民家の炊煙が立ち上るのを見られて「朕は富めり、民が富むのは朕の富だ」と仰せられた。また 明治天皇様は「天下一人でもそのところを得ざる者があるのはそれは朕の罪だ」と仰せられたように、真に親が子を見るように御覧になっているのが我が御皇室である。不具の子ほど親は可愛いと言う、ちょうどそれが我が大君の思し召しである。しかるに中間の者がその御徳を忖度し得ず、いわゆる外国の国家の権力の下にある役人の如くに思ってしまって、ただ自分の都合あるいは自分の権勢に捉われ、あるいは自分の出世のために具合が悪いと言ってそういう子どもを入れることを拒むということになるので、これはいうまでもなく親の心子知らずで、外国思想に捉われている結果の致すところである。日本の御皇室は 天照皇大神宮様そのままの御現れであり全然神の心を心とせられている御方である。それだから、天皇を現神と申し上ぐるのである。そこを分からないで灰色であるから、国体明徴だとい言いながら最も大事な大義を誤った足利尊氏を礼賛するような事になるのである。彼は政治的手腕があった、また人格もあったと言ってそれに惚れ込んで、取り返しのつかぬ脱線をする事になるのである。これは大義名分そのものが日本人の生命であり、日本国の生命であるという事を忘れている証拠である。
 私は日本人であるかないかと言う事は、その人が大義名分がよく分かっているか分かっていないかによってはっきり分かるものだと思うのである。
 頼山陽は「丈夫の要は順逆を知るを尊ぶ」とこういう風に詩に作っているが、私は日本人であるか、日本人でないかは、その人が大義名分を知るか否かによってはっきり分けられると思う。この大義名分と言う点がはっきりしていないために外国の思想にかぶれてしまうことになるのである。

つづく

私自身は「大義名分」をきちんと理解しているだろうか?

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