2014年5月3日土曜日

日本バドリオ事件顛末(第九回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 51ページ

 一方引っぱって行かれた私にすれば、この一文が取られたのか取られていないのか、判らない。憲兵に「君、あれを取って来ましたか」と訊くわけにもゆかんし、「何か僕を調べる材料があるのか」と訊くわけにもゆかぬ。憲兵がそれを持っていると否とでは、私に対する考え方がまるで違うであろうし、こっちの答弁も違うわけだ。けれども中途半端に妥協的なことを考えて答弁してはいかぬ。つまり隠せるだけは隠していた。そして、事実、これは取られてないのであったから、肝腎なところが憲兵にもおせなかったのである。
 私が家内にモンペの中へ入れるように頼んでいると、「急いで下さい。早くして下さい。」と言う。それから私は和服に着替えて、応接間へみんなを呼び入れた。ドヤドヤッと大勢が入って来て、机の上に紙を出した。それが軍法会議の拘引状である。「あなたを拘引してゆきます。そして家宅捜索をいたします。」と言うから「承知しました。それでは洋服に着替えますから」と言って私は背広に着替えた。家内に「ちょいと言って来るよ」と言って玄関に出た。門前に自動車が待っていて、私を真ん中に挟んで憲兵が二人付き添って自動車に乗せられ九段の憲兵隊に連れて行かれすぐ調室へ引き出された。先刻の法務官がまた出て来て、私の被疑事実を述べるのだ。「あなたは隣組の常会へ出て、戦は負けるという話をしたそうですね」「したことはありません。第一、隣組常会など一遍も出たことはありません」問答はそれで終わりだ。向こうは私が常会に出たこともないし、そんな話をしたこともないのを承知の上で、ただ被疑事実として拵えて引っ張っただけなのだ。そして私は憲兵に引き渡された。
 私はこれはきっと一味みんなやられたんだろうと考え、それでは誰と誰であろうと、注意していると一日二日経つうちに、ハッキリは判らないが大体のことは判った。吉田さんと岩淵君が捕まったことは、ほぼ確実に判った。近衛さんもてっきりやられただろうと思ったが捕えられていない事が判った。真崎大将も引っ張ってなかった。小畑君も引っ張られてなかった。しかし、これは引っ張ったと同じに、憲兵が家へ行って調書を取っている。二週間位軟禁されている。前述の小林さんはこの頃は既に翼政会総裁で我々とは離れた立場に居られた。
 私はその日一日、ズッと真夜中まで、何ということなしに、雑談風な話をしながら憲兵に調べられた。戦争の見透しはどうだとか、そういうことばかり言ってその日は暮らした。
 そうしているうち翌晩になって、調室へ大きな椅子を持ち込んで来た。誰が来るのかと思っていると、司令官がお見えになる、と言っている。私は憲兵司令官が来るのかと思った。ところが、司令官というのは東京憲兵隊長のことで、それを当時は機構が変わって、そういう厳しい名前に代わっていたのである。やがてデップリ太った大佐が、大勢のお供を連れてやって来た。その大佐が戦犯に指定されながら逃げ回ってこの間捕まった大谷大佐だ。初めはいと丁重な言葉で「近衛さんが拝謁したことは知ってるでしょう」と言った。私はハッ思ったけれども、「私はそんなこと知りません。近衛さんには今年の一月お目に掛かったきりお目に掛からない。だから拝謁したことは知りません」「そんなことはないでしょう。何もかも知ってるでしょう」「何も知りません」「それでは、近衛さんが上奏したのを知っているでしょう」ははあ、来たなと思ったけれども、「知りません。上奏されたんですか」「知らない筈はない」「いや知りません。どうせ私たちの行動はあなた方が知っているんだから。私がこの頃近衛さんに会ってないこともご存知でしょう。私は拝謁のことも知らんし、上奏のことも知りません。私は近衛さんから聞く以外に近衛さんの行動を知る手がありません。まさか陛下が、近衛がおれに拝謁してこんなことを上奏したよ、という話を私にされる筈はない。一体近衛さんと陛下だけの話をあなた方が知ってる、そのことがおかしいじゃないか」と言った。すると突如として大谷が「今度の事件は貴様が張本人だッ。厳重に調べろッ。」と言って、靴を蹴って出ていった。その「今度の事件」と言われたので、私はハッキリ判ったのである。

続く

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