2014年5月14日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第十一回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 54ページ

 その話が梅津から陸軍に洩れたために、これは大変な陰謀だと陸軍は感じたらしい。そこで直ちに陰謀団を捕まえよということになった。この陰謀団については、かねて彼等は内定済みであるから、近衛とか、吉田とか、岩淵とか、私なんかを一網打尽にしようと思ったのであろうが、いろいろな事情で全部は捕まえなかったわけだ。これは小磯内閣の時で、これを知った陸軍の兵務局と軍務局との両方で、直ちに捕えようという案を出した。その時は杉山元が陸軍大臣で、杉山は若い連中の言いなり次第になる人であったが、これには署名しなかったそうだ。あまりに重大なので、自分が責任を取るのが嫌だったのであろう。それで一ヶ月以上もたつうちに小磯内閣が退陣して鈴木内閣になった。その機会に陸軍大臣が阿南ということになった。阿南という男は正直な人だから、陸軍の強要に遭って、真っ正直に受け取ってサインしたのだろうと思う。

 この間も、吉田さんと会った時、この時の話が出て、吉田さんも「どうして、奴等は我々を殺さなかったんだろう。闇から闇へ葬ることだって、あの時ならできたのに・・・」と言ったものだ。それをしなかったのは、やっぱり戦局が非常に悪く、それをする程の意志力がもう、軍になくなっていたのだろう。もっとも証拠は何もない。私達は別段、紙に何にも書いてない。電話なんかは聞かれているかもしれないと、これも用心している。内容のある話を電話でしたことはない。ただ、いつ何日に誰と会う、こういう位のことは話した。それは全部彼等に取られていたけれども、その外具体的なことはなかった。東條内閣の倒閣運動をどうしてやったか、などと訊ねる位で、あんまり大きな収穫は彼等にはなかった。
 拷問はもとよりしなかった。非常に丁重ということもないけれども、手荒なことはしなかった。もっとも岩淵君なんか、三晩位寝かされなかったことがあるそうだ。つまり彼等はわれわれを目して、吉田茂陰謀団という見方をしていたらしい。また事実、大陰謀団であったのだ。われわれは実はいろいろのプランを持っていた。近衛さんに大命が降下する。その晩のうちに、真崎陸軍大臣と近衛総理大臣と二人だけの親任式をやり、宮中を退出せずにそのままかねてのプラン通り、用意しているリストに依って、陸軍省、参謀本部の首脳部を一遍に首切って、予備役に編入してしまう。参謀総長も次長も、陸軍省の軍務局長も兵務局長はもちろんもっと下の奴から、憲兵司令官まで全部予備役にしてしまう。そして、「近衛はどうしたんだろう、大命が降下して宮中に入ったはずだけれども出てこない、どうしたんだろう」と人々が言っている頃には、スッカリ首切りが終わって宮中を出て来る。翌朝になれば近衛一連隊を指揮して、予備役にした主な将校の家を包囲して逮捕もし、家宅捜索をしよう。そして国民になぜかかる断乎たる処分をしたかをハッキリと声明して、出先の各派遣軍に向かっても事情を明らかにしよう。陸軍の粛正が終わったらば、更に次の工作に移ろう。こういう構想を持っておった。いわば夢物語みたいなものであったからかも知れぬが奴等は一向に気がつかなかったらしい。もっとも我々の側でもこんな細かい具体的な問題は小畑君や岩淵君や私の如き参謀連のテクニカルな問題として考えられておったに過ぎないものも多かった。
 いずれにせよ、憲兵が毎日毎日愚にもつかんことを訊くのだ。それで「どうせ、あなた方はわれわれが嫌いなんだろう。いっそ死刑にしたらどうですか」と言った。そうしたら「死刑にしたいんだ。しかし法治国の悲しさ、それが出来ない」と言っていた。
 憲兵隊では別々の留置場に入れられて、しかも他の人と混みだから、混雑しておったし、食い物も悪かったし、シラミがいっぱいいるし、着て寝る毛布も枕もない。ずいぶん惨憺たるものであった。十八日ばかりそこにおってから、手錠をはめられて代々木の陸軍刑務所へやられた。そこへ行ったら、吉田さんと私は隣り合った独房へ一人ずつ入れられ岩淵君は独房がなかったので混みであったけれども、人数の少ない、割り合いに善良な奴と一緒におかれた。優遇されたわけだろう。ところが五月二十五日の空襲で刑務所が焼けたので、その夕方逃げていた代々木の練兵場から、東横沿線の都立高校という駅のそばにある八雲小学校、そこが仮の陸軍刑務所になって、そこに五日ばかりおって、仮釈放ということでトラックに乗せられて帰されたのである。
 吉田さんの家は二十四日の晩、岩淵君と私の家は二十五日に焼かれた。帰って見たら、家には誰もいなかった。それまで何にも連絡がなかったので、これは家族はやられたかなと思っておった。万一やられていなければと思いつつ、帰って見ると予期の如く、全部やられていた。その時長男は兵隊に行ってるから家にはいないと思っていた。ところがそれがその日に帰って来て、家族と一緒に逃げたが彼だけ助かって、ほかの者はみんな全滅したのである。悉く私の責任であって死んで行った者に対して何とも申し訳が無い。(了)

 
 以上が近衛上奏文に関わった人達の動向です。皆さん、少しは参考になったでしょうか?
 次回からは真崎甚三郎大将の弟勝次少将の「非常時局読本」の連載を始めます。戦前は陸軍、戦後はGHQがこの本を隠蔽しようとした「幻の本」です。お楽しみに。

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