2014年4月13日日曜日

日本バドリオ事件顛末(第八回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 50ページ

 ところが間もなく東條内閣が倒れた。けれども小林のコの字も後継内閣の噂に出て来ない。若槻さんも我々の考えを知っているシンパであったけれども、重臣会議の席上で宇垣さんを推したらしい。近衛さんも小林ということは、とうとう言われずに終わった。小林さんは我々の間で考えただけで、具体的な問題にならなかった。従って、折角私が書いたけれども、それを小林さんは私がそれを書いていることもご承知なかったかも知れない。—小磯内閣が出来上がった。事は破れたわけである。その原稿は焼き捨てればよいのであったが、我々はそのために大きな目的を捨てず、また次の機会を狙おうということになった。なにも小林さんと限ったことはない。誰でも我々の同志が出て行って組閣をするという問題にぶつかれば、この上奏文は必ず必要になる。のみならず、政変、組閣の際でなくとも、近衛さんでも拝謁ができて陛下にお話を申し上げるという時には、それは有力な参考資料になると考えておったものだから、私はそれをそのまま取っておいたのである。
 とにかく人に見られたら大変なものであるからどこかへ仕舞い込んで、いざという時に始末が出来ないようなことでは困る思って、私はこの上奏文を、普段、すぐ枕元の 小引出しに入れておいたのであった。ところが、さて憲兵が十人も来て家を囲まれて見ると、その平素の用意が何もならない。どう処分のしようもない。すぐ寝床から下りて寝巻きを着替えながら、まっすぐに飛びついたのがその引出しである。大きなレター・ペーパーに50枚くらい、こまかく書いてある。そうして畳んで封筒に入れてある。それを懐中に入れてみたけれども、どうも具合が悪い。茶の間の外が中庭になっておる。その向こうには物置もあるし、隣家もある、そこへいって見たらば何とかなるかもしれぬと思い、茶の間の雨戸をあけて見たら、中庭にカーキー服を着てチャンと立っている。急いで雨戸を締めてまた引き返した。丁度その時に家内が寝巻きにモンペに着替えておった。ハッと思いついて「お前、これをモンペの下に入れてくれないか」と言ったら、「それじゃ便所へ持っていきましょうか」「いや、便所は駄目だよ。中廊下にも見張りがいるし、便所なんかへ入れても必ず覗かれるだろう。何かあるなと思って拾い上げて見られたらおしまいだからそれは駄目だ。それよりモンペの下へ入れといてくれないか。まさか女を裸にもしないだろう。」私としては裸にして取られたら、それはその時のことだと思って頼んだのだが、結局それが成功したのである。しかし、この上奏文は、後に焼き捨てられている。

続く

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