2014年4月5日土曜日

日本バドリオ事件顛末(第七回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 49ページ

   第二部  我々は如何に戦ったか

 昭和二十年四月十五日の未明、まだみんな寝ておったところへ玄関のベルが鳴った。女中も居なかったから、家内が玄関へ出る。そして陸軍法務官の某という名刺を持って私のところへ来て、「大勢来ましたよ」と言う。
 ははあ、来たなと思って私は飛び起きた。その時にすぐ気がついたのは、私の持っている上奏文の原稿をどうするかということであった。
 その上奏文というのは、その前年東條内閣の当時、われわれの同志、吉田さん、岩淵君、近衛さん、真崎大将、小畑中将、真崎勝次少将、森岡次郎こう言った人々の間で、小林躋造(せいぞう)海軍大将を出して東條内閣に取って替わらせよう、こういうことを考えておった。その小林内閣では真崎大将か小畑中将をもって陸軍大臣にしよう、海軍大臣は小林さん自身に当たらせたらどうか、こういう案を考えておった。政治を軍部の手から離して、完全に新しい内閣の手に握ろう。そして腐敗しきっている軍の粛正をやって戦争を早くやめ、平和に持ってゆく。そのためには真崎とか小畑とかいう人を軍政に当たらせる必要がある。ところがそれらの人は予備役だ。予備役の人を軍部大臣にすることは、当時は出来なかった。現役の人の中からは、軍の粛正をすることを望んでも、これは思いもよらぬ。いわんや、平和への転換などということは考えられぬ。どうしても予備役のそれも少数の限られた人の中から後任の軍部大臣を選ばなければならない。もし、我々の希望する如く、小林さんに大命が降下したとしても、組閣の一番の難関は、陸軍大臣を現役から採らずに予備の将軍から任用する点だ。これをやるためには、陛下が充分にその必要を認識されて、小林さんの意見を採用されることが必要なわけである。それには、何故そうするかということを、一応申し上げるだろうが、その複雑な事情を陛下が直ちに呑み込まれるかどうか判らぬ。そこでその理由を詳しく判るように書いて、その時の役に立てる必要があるということになった。その時の小林さんの考えでは、陛下がそれを御採用にならぬ時は組閣は不可能だからご辞退する。しかし、なぜかような事を必要とするかはこれに書いてございますから、よくご覧を願います。と言って御手許に残して来る。その用意を持ってゆこうというので書いたのがその上奏文なのである。大命が降下した時に陛下の御前でもそれを読んで御承認を得ようというよりも、御承認がない時にそれを陛下の所へ残してお考えを願うことに役立てるために書いたものである。それによって、新しい内閣を作る事は不成功に終わっても、日本の政治の実情はこういうものだ、日本の陸海軍の真相はこういうものだ、この戦争はこういう段階にあるということを、ハッキリ陛下が認識される一つの機会にはなる。それだけでもよいのだ。恐らく陛下は何も真相をご承知ない。こう考えて長文のハッキリしたものを書こうということになった。そして私に書けということになって私が書いたのである。そういう意図のものであるから、簡単なものでなくて、ゆっくり読んでいただくような長いものになった。その原稿が出来て、小畑君が見て筆を入れておった。近衛さんには、簡単に見てもらったがその外の人達にには未だ見せてなかった。我々同志の中では内容を一々見る必要はない、話は決まっているのだから。しかし軍事との問題があるから、小畑君には特に相談したわけだ。

続く

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