2014年3月14日金曜日

日本バドリオ事件顛末(第六回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 48ページ

 我々同志の最大の問題は、陸軍を政治から追っ払うこと、それには陸軍大臣にその人を得て陸軍を粛正する外は無い。その陸軍大臣に誰を充てるか。私共は真崎甚三郎大将を考えた。ところが、真崎さんに対しては当時非常な誤解がある。統制派が非常な努力をして真崎さんに対する誤伝を世上に流布したものだが、この真崎さんを囲む一団の人々がある、その最も有力であったのが小畑敏四郎、あるいは松浦、山岡、また柳川などもそうであった。その中で真崎、小畑が最も信用の出来る人だ。陸軍の実情を認識して、陸軍の粛正を実行し得る人は、この二人殊に真崎さんを措いて他に人は無い。真崎が大臣ならば小畑は次官になるであろう。ところが二人とも予備だ、予備のしかも非常に誤解されておる真崎さんを陸軍大臣に起用する政府を作らなければならない。それを身に以て実行する決心をした人を総理大臣に択ばねばならぬ。これが我々の建前であった。
 真崎、小畑の二人と我々との結び付きに就いて言えば、我々の盟友の一人である岩淵辰雄君がこの二人と非常に親しかった。私もこの二人とは親しかった。そうして私も岩淵君も吉田さんとは頗る親しい、こういう関係で結合するに至ったが、後に近衛さんが第三次近衛内閣を投げ出して陸軍に振り捨てられてから、その全部と親しい我々と一緒になるようになったのである。しかしそれは近衛さんだけでこれがために従前近衛さんを取り巻いておった人々と密接な関係を生ずることは無かった。もちろん至って少数の例外はある。
 そうやって我々が非常に憂えているうちに、遂に三国同盟が出来、翼賛会が出来、日米交渉という場面になった。日米交渉というものは非常に矛盾したものである。けれども近衛さんは真面目に考えた、ああいう矛盾したコースが近衛さんのとってはナチュラルであったのだろう。近衛さんはあの交渉の成功せんことを切に祈った。私は駄目だと思った、吉田さんもやはり駄目だと思いながらも、非常に親しかったグルー氏やクレーギー氏あたりに向かって熱心に努力されたものである。既にその頃は憲兵が我々を追っかけていた。吉田さんの平河町の邸は憲兵に取り囲まれていた、私共はそれを承知していたけれども、そんな事は構わない、平気で出入りしておった。
 そこへ松岡がソヴェットから帰って来て、真っ先に日米交渉をぶち壊しに懸かった。南仏印進駐をやった。これは日米和平の退路を絶ったようなものだ、それでもアメリカも非常な努力をした。もし日本が誠意を以て平和的妥結に持って行こうとするならば、それは立派にできていたと思う、それを軍が壊そうという建前だから出来っこない、遂に不成功に終わった。
 そこで我々は、この日本の政治の真相を、先ず重臣に認識してもらわなければならないと考えたので、吉田さんと私が、手を替え品を替えて重臣の間を説いて歩いた。若槻を説き、牧野さんを説き、岡田にも、平沼にも、幣原にも、池田成彬にも説き、私は町田忠治にも話した。
 宇垣さんにも話した。そうしておるうちに、遂に太平洋戦争に突入してしまって、それから近衛さんの反省と煩悶が始まったわけだ。
 ある冬の寒い日、私は小畑敏四郎君と一緒に湯河原の近衛さんの別邸に往って、私の見解を数時間に亘って述べた、それを近衛さんは熱心に聴いてくれた。近衛という人は聴き上手だそうだから騙されてはいけないと思ったけれども、そうではなかった。
 「殖田さん、私は三遍組閣して、その間相当長い年月も経っているし、あらゆる人と密接な交渉もあった。いろんな場面にも会っている、その体験からいうと、あなたのお話は思い当たる事ばかりです。何故私にもっと早く話しをしてくれなかったか」、これに対して私は、「敵の重囲の中におられるあなたに話をすることは出来ませんでした。話をして、私も重囲の中に陥って殺されることは厭わないが、私が殺されたら、志を継ぐ人が無い、自惚れとは思ったけれども、そう考えたから危うきに近寄らなかったのだ」という話をした。

続く

次回から第二部です。

日本バドリオ事件顛末(第五回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 47ページ

 私は日華事変の始まった当時から、陸軍にこの国家が任して置かれるか、何としてでも政権を早く陸軍から奪い返すことが最大の時務であることを痛感していた。そこで国を憂える人々に対して、まず日華事変を早く止めなければならないと説いていた。
 そこで当面する問題は、陸軍を政治から追っ払うこと、これが解決されれば、あとは自然に解決される、困難は他にも色々あるけれども、それは大した問題でない、というのが我々の考え方であった。だから三国同盟については、戦争に巻き込まれる危険を怖れて、私は常に反対しておった。
 陸軍が日華事変を止めたくなかったことは、ドイツ大使トラウトマンの仲裁に応じなかったのを見ても判るし、「蒋介石を相手とせず」もそうだ。もっとも平和交渉に応ずるというゼスチュアだけはする。これを見て陸軍が良くなった、平和論になったと思って、一生懸命努力してみると、最後の土壇場へ行けば必ずひっくり返る、何時でもそうだ、これは近衛さんが切実に経験されたところである。
 その三国同盟の頃、吉田茂さんがイギリスから帰って来られたから、私は吉田さんと旧交を温めた。だんだんと提携を密にして行くようになって、吉田さんを中心に、我々後輩が集まって運動を続けたわけである。
 ここで吉田さんと私の関係を簡単に述べると、無論吉田さんは私よりずっと先輩で、昭和二年田中内閣の時、田中外務大臣の下で外務次官になられた。田中さんはほとんど毎日のように外務省に来て事務をとっておった。私は総理大臣秘書官で、外務大臣秘書官を兼ねてはいなかったけれども、事実上は外務大臣秘書官の仕事もしていたわけで、次官、局長あたりとは密接な関係があった。吉田さんの前の次官は出淵勝次で、これは私の親戚であった。吉田さんはその頃から、極くいい意味の政治家の風を備えておられた。事務官というよりも政治家であった。吉田さんは一つの政治的識見を持っておられて、外交を政治の一環として、進めて行こうという、ハッキリそれを意識して、外交事務ではなしに政治をやる意味で外交をやっておられたのだと思う。それで私は親類である出淵より吉田さんの方が親しみをもって接することが出来た。というのは、吉田さんは最も忠実に田中首相を助けて、田中と一心同体に働いておられた。出淵次官はいつまでも次官で残ってはいない、遠からず米国大使になって出て行くと言うことが決まっておったから、腰掛けの次官と言うところがあったが、吉田さんになって本腰を据えた次官という感じであった。—

2014年3月5日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第四回)

 前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 46ページ

 それではなぜ対英米戦争をやる気になったか。あの頃しきりに反英の空気を煽って、反英理論を宣伝したものだが、これはソヴェットにおいて、カール・ラデックが世界に向かってしきりに論陣を張っていた反英理論とそっくりなものである。ラデックはドイツ系の ユダヤ人で、後に粛正されて、あとで寛大な処置を与えられた男であるが、その当時はソヴェットの有力なるスピーカーであった。そのスピーカーの主張通りの主張が日本においてしきりに行われたのである。反英的空気はあってもソヴェットと争う考えは微塵もなかった。陸軍の中には対ソ論者がたくさんいたけれども、その人達はリーダーの位置から皆追われてしまった。皇道派は二二六を契機としてみんな退けられてしまった。石原莞爾なども初めは対ソ論者だったが、後には考えが変わって「東亜連盟論」を書いたりした。これは東洋においてソヴェットを作るということなのだ。ある人は彼はコミュニストであるとはっきり言っておる。なるほど今の左翼の人々は、陸軍とは仲良くなかったであろう。しかしまた陸軍と仲良かった左翼もたくさんおったのである。三月事件前後から陸軍は左翼と非常に密接な関係をもっておった。いかなる人々がそうであったかこのところでは差し控えるが石原はあの当時の統制派の代表者だったから、この連中と特に親しくしていたようだ。しかしその他の連中にしても左翼の人達に対してすこぶる敬意を払っておったようだ。
 そこで陸軍はソヴェットと争うことは絶対に避けた。張鼓峰、ノモンハン、あれは日本の陸軍がハッキリ負けた。それでも黙って引き下がった。ノモンハンでは一箇師団の兵隊を失っている。それでも黙った引き下がった。あの戦争に参加した関東軍の幹部は全部罰を食らっている。北京郊外盧溝橋の銃声一発が日本の軍隊を侮辱したといって、あれほど戦を始めたくらいなら、一箇師団の兵隊を失って何で黙って引き下がる理由があるか。当時は日華事変をやっておったから、両方に的を迎えることはできなかった、ことに新鋭の武器を持ったソヴェットの軍隊を向こうに回すことは到底できないことだった、と言う説がある。しからば日華事変のあの大泥沼に足を突っ込んでヘトヘトになっている日本の軍隊が、なぜ英米と戦ったのか。日本の陸軍は何十年来伝統的に大陸政策即ち北進政策を主張して来た。支那本部に事を構え、更に南方に向かって日本の権益を拡張するなんぞということは、日本の陸軍の夢にも考えざるところである。海軍は平和的南進論を夢見ておったが、陸軍はこれを軽蔑していた。それが突如として南に向かって、大東亜共栄圏ということになった。ドイツのナチみたいな汎独主義のような最初から強調され、その実現に向かって進んでいったというならば南進論もわかるけれども、日本の陸軍はそんなものは持ってはいない。日華事変の後で南進を実行するにおよんででっち上げたものが大東亜共栄圏だ。そこに日本の陸軍が昔の陸軍と大変な相違のあることが看取できるのである。
 彼等はそれからブロック経済論を唱えた。ブロック経済というのは大陸政策であって、南洋のような海上に散在する島々は、ブロックにできるものではない。大英帝国の崩壊を笑ったのは誰だ。大英帝国は本当のブロックではない、海の上の島々を単に頭の上で連結したに過ぎないから弱いのだ、世界の政治の上から消えるのだ、こう言って批評していた日本が、何を好んで海の上にブロックを考えるのか、論理上の矛盾撞着も甚だしいではないか。
 かの日本の陸軍は世界中に優秀なる情報網を持って、ふだんから戦略を研究しているし、戦力の基礎をなす経済力とか政治の状況を知悉(ちしつ)してるはずだ。そのデータを精細に集めて研究しているならば、英米と戦争して勝てるなどと考えるわけはない。そんな馬鹿な参謀達ではあるまい。あるいはナチの赫々(かくかく)たる戦果に眩惑されて、自分自身には大した用意もなし自信もないけれども、ドイツの戦勝に便乗しようと安価なことを考えたのではないか、と論ずる人もある。しかし私はそれも採るに足らぬ説だと思う。ダンケルクでイギリスを追い落とした当時のことならいざ知らず、日本が世界戦争に入ったのは、あれから二年も後のことだ。しかもドイツがソヴェットに対して戦争を開始していた時のことだ。戦史を知っている者ならば誰でもわかる。ドイツという国は、二正面作戦、しかも長期戦争で勝ったためしがない国だ。
 それがわからぬ陸軍ではない。
 彼等は今まで詳述したように、戦さをするための戦さをする。国家の利益とか、国民の福祉とかは、真剣に考えたことはない。彼等は負け戦さを承知の上で、戦争の相手を次々と変え、拡大していく。これほど危険なことがあろうか— これが私の一貫した持論であった。

続く

2014年2月17日月曜日

日本バドリオ事件顛末(第三回)

前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 45ページ

 満洲国の性格がソ連的であることは、協和会などを見てもよく判る。
 日本の陸軍が全体主義であると考えておる人が多かったが、その全体主義は必ずしもナチ的ファッショ的なものではなかった。それは彼等がナチ的であるかの如く装っていただけのことで、実は純粋のナチ的ではない、ナチ的より更に進んだものなのだ。多くの人はナチスとソヴェットを全然異なるもののように考えておるけれども、もしナチスのものをソヴェットのものといい、ソヴェットのものをナチスといって日本人に教えたとしても、多くの人はやはりそうかと思う。その一般の人の頭の盲点が巧みに利用されていたのだ。そういう巧妙でかつ高度な精神的指導は、軍のどういう所でやったかというと、それはもちろん統制派の幹部である。士官学校、陸大を優秀な成績で出て、欧州あたりも視て来ているから、相当のインテリジェンスがあるのは当然だ。
 日華事変というものが起こって来た。不拡大不拡大と言いながら、拡大しつつある。不拡大を唱える人は、陸軍大臣とか参謀総長とか表面陸軍をリードするが実権を持たない人々で、実権を持っている人達は黙々として拡大一方に進んでいる。もし本当に不拡大で行くならば、あるいはあの事変を勝利をもって片付けようと思ったならば、容易に片付け得たはずである。それは飛行機を製造する工場もなし、自動車も造れず、大砲や鉄砲もろくな物を持たない当時の中国兵と、最も近代的な装備を持つ日本の軍隊が本気で戦ったら、勝つも勝たぬもない、日本が勝たないのは嘘である。勝とうとしなかったのだ。何となれば戦争を止めたくないからだ。しかも中国と戦争をしていることが一番ラクなんだ。何時も自分がイニシアティブを持っていて、止めようと思えばいつだって止められる、敗けないんだから何時までだってやっていられる、これほど都合のよい戦争はない。 しかもこれで非常時、自分は傷付く心配のない非常時の大規模な展開、まさに思うつぼではないか。それでいて、いや支那は広いんだとか、やれ地形がどうだとか弁解しているが、そんなことを言うなら、秦の始皇帝や漢の高祖時代の戦争と同じではないか。どういう装備を持っていたか、そんなことは、問題にならぬではないか。全力を出す出さぬの沙汰ではない、まるで近代的の装備など、対中国戦争では用いてはいない。そっくり満洲に取ってある。それをたまたま使ったことがある、板垣征四郎が臺兒荘で敗けた時のことだ。敗けてはならぬから取つときの機械化部隊を持って行ったら直ぐ片が付いた。それをストックしているのである。ストックしている武器なり装備なりが不充分ならば、誰に遠慮することもない、直ちに支那の地形なり状況に適合するものを造り得るはずだ、それを造る努力もしていない、飛行機だって十分に使っていないのである。
 これに対して何等の批評をし得なかったことは日本人の重大な責任だ。軍の為すがままに委せて、彼等の宣伝をそのまま聴従していた、こんな馬鹿なことはない、もし実際中国のあの旧式な軍隊を対手にして引きずり回されてノンベンダラリとしていたというならば、どうして最も近代的な英米を向こうに回して戦さができるか、最も高度な近代工業を持っている、従って最も進歩した武器と装備を携え得る英米を相手にして戦うというのだから、それは相当の自信がなければならぬ、大した自信はないにしてもある程度の自信はあったであろう。つまり日華事変は対英米戦争に日本を巻き込む一つの基盤をなしたものと見得るのである。もしこの日華事変がなかったならば、あるいは対英米戦争を起こす口実が見出し得なかったかもしれない。

続く

2014年2月14日金曜日

日本バドリオ事件顛末(第二回)

前回の続きです。文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 43ページより。

 満洲事変にしてもあれは昭和6年の9月18日に突発したものではない。既に予定計画があって、満洲で事を挙げると同時に十月革命を行って、国内に非常時を現出して、陸軍の政治力を伸ばそうという計画であったのだ。
 満洲事変後の満洲を観ると、決して帝国主義的な単なる大陸政策ではない。満洲に陸軍の支配に属する独立国家を作る、しかしてその独立の国家たるや、普通には帝国主義は資本主義の発展したものだと解釈されており、それが満蒙政策となり、満州国が出来たのだと理解されておるけれども、出来上がった満洲国は決してさようではない。日本の資本主義が製造する物資を満洲に販売し、満洲の産出する天然資源を日本の工業原料にする、という形式はあまり考えていない。満洲を満洲自身完全な独立国家としての機能を営ませる、日本と相関関係におくのではない、という構想の下に作られておる。例えば満洲重工業株式会社というのは、非常に高度の重工業で、飛行機も造り、自動車も作る、こんな重工業は帝国主義が植民地に興す事など考えられるものではない。満洲国を原料国にするなら、単に大豆を作り、石炭を掘り、あるいは鉄鉱石を掘るというに止まる、満洲に近代的な工業を興そうとするものがあれば、それを止めこそすれ、進める必要はどこにもない。満洲という完全な独立国家を作って、日本人という仮面を被っておりながら、実は日本人でない、即ち日本の陸軍軍人の支配する国にしよう、更に進んではこの満洲国をもって日本をリードして行こう、別言すれば満洲をテストプラントにして一応熟練して、日本もそれに持って行こうというのが一つ。それから満洲という大きな背景をもって日本における勢力をそれによって維持し発展せしめよう。故に始終にほんから掣肘されない独立の領地を有っていたかった、こう考えることが一番合理的なように思われる。
 そこで日本の陸軍は社会革命を描いた、それを実行するために政権が必要である。政権を獲得し、維持するために非常事態を必要とする。これがだんだん大きくなっていけば、対外戦争になるほかはない。こういう構想が出て来る訳だ。
 しからば満洲事変後、彼等の構想が果たしてスムースに実現したかどうか。満洲国はできた、種々な事業は緒に就いた、しかし満洲国の建設、満洲国内の開発は時日の経過に伴って、次第に非常時的性格を喪失して来た、多くの日本人は非常時とは感じなくなった。同時に陸軍の政治上の声望威力は漸次下り坂に向かっていった、陸軍にやってもらわなくたって、我々でもやれるではないかと一般の政治家が考えるようになった。こうなっては今一遍非常時を拡大しなければならなくなって、陸軍の人達は、未だ非常時は終わっていないのだ、これからが真の非常時だと声を大にして唱えたが、しかしかけ声だけで、一般国民の心理状態は、既に非常時は終わった、平静に戻ったと考えていた。そこで陸軍としては、国内か国外かどこでもよいから何かしら異変状態の起生することが必要になって来る。それ自身については各々目的や動機もあろうが、血盟団、五・一五、神兵隊、これらは非常事態を連続せしめるという一つの大きな構想が作用しているに違いなかった。
 従って我々は、陸軍は今に満洲から手を返して支那大陸で何か始めはしないかという予感があったところへかの二・二六は起こったのである。二・二六を実行した人達は、それまで陸軍をリードして来たし、またその後、太平洋戦争の終わるまで陸軍をリードしておった幹部に対する反抗であった。ところがこの反抗を巧みに活用して自分等の利益にしてしまった。これは彼等が非常に利巧であったからだ。二・二六は若い人達が冷静な判断を失って、気紛れといっては悪いが血気に逸って起こした事件である。それならばその若い人達が、それまでのリーダー達と真正面から反対したのかというと、そうではない。二・二六に蹶起した若い将校達は、いわゆる皇道派であったかのように言われておるが、実は皇道派でもなく統制派でもない、どちらかと言えば気分は皇道派に近かったかもわからないが、抱いている考え方は統制派に近いものであった。ただ統制派はいつでも幕僚を主流とするだんたいであり、二・二六の若い人達は第一線のすなわち幕僚でない将校であった。皇道派というものは、言われているほど有力なものではなかったと思うが、これも革新派ではあった。その意味において通ずるものがあるけれども、事実は革新派の中の最もプリミティブな復古主義者であった。もっとも全部がそうだというのではなく、皇道派と言われる人達の中に非常にリベラルな進歩的な人達もあった。これは表現の仕方は色々あっただろうが、一面リベラリストでありながら、しかも最も古い陸軍の伝統を多分に持ち続けていた人達、好い意味の大陸論者であった。それで幹部派即ち統制派が大川周明に近かったとするならば、二・二六の若い将校達は、北一輝に非常に近かった。ある人はこれを北と大川の喧嘩だと言ったぐらいだ。しかし統制派は必ずしも大川にリードされていたとは思わない、もっと進んだ・・・科学的社会主義の理論にまで進んだものであった。例えば満洲国のやり方を視ても、みんなトラストで行けるというように、ナチスにも近いが、より多くソヴエットに近い考えを持っていた。満洲国にアメリカの資本を入れようとしたのは鮎川義介君たちだが、しかし満洲の陸軍の人達の考えたのはアメリカの資本と同時に資本主義の這入って来ることは反対である。もし日本の資本主義が満洲の開発に協力しないならば日本の資本家は一切締出していっそソヴエットの援助を仰ごうかと考えたものもあったほどである。
 陸軍の中にもアメリカ資本説を持った人もあったけれども、それはカムフラージュであったような気がする。踊ってる人達は一生懸命踊っているのだが、後ろにいて踊らせてる人としては必ずしも本気じゃなかったように思われる。

続く

2014年2月12日水曜日

日本バドリオ事件顛末(第一回)

近衛上奏文がどのような過程で出されたかの貴重な記録です。
真崎甚三郎グループが近衛文麿を使って天皇に日本の真の危機を伝え、東条内閣を倒すための活動です。
長いですが、ぜひお読み下さい。


文藝春秋 第27巻第12号 昭和24年12月号 42ページより
まだ日本がアメリカに占領されていた時期の記事である。

日本バドリオ事件顛末                 法務総裁 殖田俊吉

 東條内閣を一挙に打倒して和平政権をつくらんとして、憲兵隊に検挙された、当時の「日本バドリオ事件」の真相が明らかにされた。本編は近衛文麿、吉田茂、真崎甚三郎、小畑敏四郎、岩淵辰雄等の諸氏を同志として暗躍した現法務総裁、殖田俊吉氏の回想録である。

 第一部 昭和軍閥に対する私の見解

 私は、田中内閣の時大蔵書記官で総理大臣秘書官を兼任していたが、昭和3年5月張作霖爆死事件というものが起こった。これは日本の関東軍の陰謀・・・大きく言えば日本陸軍の陰謀であった。しかるに陸軍はこれに対して何等責任を負わないのみならず、あたかも責任が田中大将にあるかのごとくに盛んに宣伝して、とうとう田中内閣を潰しておわった。その時のやり方が実に陰険であったので、私は陸軍というものを信用しないのみならず、これを唾棄し批判するに至った。日本の陸軍が真に日本の国防を託するに足るものであるや否や、非常に疑惑をもって見るようになったのである。
 その後昭和6年3月には三月事件というものがあった。これは未発に終わったけれども、やはり陸軍の陰謀である、これを陸軍はひた隠しに隠していたが、やがて我々の耳にも入って来た。続いて満洲事変、十月革命、いわゆる錦旗革命事件、陰謀の続発だ。更にこれは直接陸軍の計画ではなかったかも知れないが、血盟団とか、或は五一五事件、神兵隊事件、みんな陸軍と関係の深い連中がやった仕業だ。二二六は多少類を異にするものではあるが、やはり陸軍の陰謀だ。また小さい事件では、昭和10年夏の真崎追い出し事件や士官学校事件があった。永田鉄山事件は陰謀ではないが、その一連の中に入って来る。これらを仔細に研究してゆけばゆくほど、陸軍の性格がはなはだ信用すべからざるものであることが看取されるのである。
 私はこの陸軍の性格にかんして、日華事変が現れる以前に、一応の結論を得ておった。そうして早晩中国において事を起こすであろうと想像している時、果たして日華事変が発生した。これも決して突如として起こったものではない。既に私どもの頭の中に想定されていたことであって、かねて抱いていた陸軍に対する批判の結論が、この日華事変によって実証されたようなものである。

 陸軍にはかねてから政治を自分の手に掌握したいという考えが潜んでいた。陸軍が政権を掌握するためには非常事態の発生を必要とする。何かのチャンスで非常事態を惹起して、それによって政権を握ることが出来たなら、今度はその政権を維持するため、次の非常事態を必要とする。政権を継続せしめるために更に新たな非常事態を必要とする。かくのごとくにして、非常時は益々拡大し延長される結果となる。
 一番初めの張作霖事件からして、その意味をもって行われたものだと思われる。張作霖事件なるものは、満洲事変の伏線ではなくて、満洲事変の予行演習であった。もしあの事件が計画通りに進行しておったならば、当然満洲事変になるべかりしものである。それを中途で不発に終わらしめたのは、全く田中義一さんの力であった。もし田中さんが圧力を加えて軍を抑えなかったならば、あの時あれが即ち満洲事変に発展したものと考えてよろしい。
 それでは張作霖事件でも、また満洲事変でも、単なる陸軍の帝国主義の発露であるかというと、さように見えて実はそうではない。陸軍は古くからいわゆる大陸政策なるものを持っている。これは陸軍の北進政策、即ち満蒙に発展し、日本海を本当に日本の領土をもって囲まれた海にしよう、こういう考え方が昔からあるので、張作霖事件などは、その実行であるかの如く見えるけれども、これを仔細に検討すれば、決してそうではない。
 第一次世界大戦後、日本も世界的な風潮に感染して、陸軍というものが非常に社会主義的になった。いわゆる社会革命というようなものに、非常に興味を持つに至った。この社会主義的社会革命を革新政策という名で呼んでいた。陸軍の中には色々な種類と色々な段階とがある、ごく通常の形は国家社会主義である、それほどに至らない人は復古主義である、しかし更に進んだ人は遥かに左傾しておった。そこで社会革命いわゆる革新政策を自分たちの手によって実行して行く、それを実行するためには自分たちが政治力を持たなければならない。その政治力を獲得するためには即ち非常時が必要になって来る。これを人為的に作ろうとしたのが三月事件、これは直接政権を獲得しようとしたのだが、直接でなく間接な形でやろうとしたのが満洲事変、これと表裏をなすものが即ち十月革命、すなわち錦旗革命事件であろう。
 三月事件に関連して、宇垣さんの了解或は黙契があったとか無かったとか色々な見方もあるが、とにかくあの時に擬音爆弾三百個を陸軍から大日本正義団に渡した事実がある。これは陸軍大臣のサインがなければ渡せないもので、その時の陸軍大臣は宇垣さんである。しかしこっちの品物をあってへ動かすというような事は大臣がそんなに詳しく知らないでも、「大臣、これにサインして下さい」とい言われれば「うんそうか」とサインするのが常識である。だからそれにサインされたからといって、あの計画に参加していたかどうかはわかるものではない。宇垣さんは、自分はそうでなかったと弁明をしているのだ。とにかくあの計画を実行しないで中止された。それは主として小畑敏四郎大佐、真崎甚三郎中将の反対があったためだ。宇垣さんは計画の内容をご存知かどうか知らぬがこれを実行を中止するのに不賛成な道理はあるまい。しかるにその結果は如何なるわけか宇垣自らこの計画を裏切ったんだという印象を若い統制派の連中に与えたもののごとく、彼等はそれならば今後宇垣内閣の成立を妨害するという考えになったというのだ。この辺の経緯は相当複雑に考えなければならぬ。世間では宇垣内閣の妨害は軍縮問題が原因だと想像しておるが、しかしそれは実際に即しておらぬ。三月事件を裏切ったから宇垣内閣を妨害するといったのでは世間が承知しない。第一、三月事件はうやむやにしてしまったのだから、世間にわかりやすい軍縮問題を理由にしたのである。そこに陸軍の連中のいかにも奸知に長けた所を見るのである。

続く


2014年1月18日土曜日

日本の復活

日本の復活において、共産主義者との戦いでの勝利が不可欠です。
皆さん頑張りましょう!
名護市長選挙、東京都知事選挙ともに思想戦、情報戦です。