2014年9月4日木曜日

非常時局読本(第十二回)「大義に殉ぜる大楠公」

今回は楠木正成についてです。

非常時局読本 海軍少将 真崎勝次著
慶文社 昭和14年3月15日発行

70ページより

一二、大義に殉ぜる大楠公

 日本人は大義名分を本として思想をよく理解し、ものを判断し、説明してやらぬと飛んでもない間違った所に行くのである。もしあの場合に南洲翁が勝っておられたならば今日で言えば所謂西郷内閣が出来たであろうけれども、やはり後には足利尊氏同様に乱臣賊子の中に数えられ日本人全部から爪弾きをされて、誰でも尊敬等はせぬどころか悪罵の的になっておったろうと考えられる。そこまで、はっきりと南洲翁を見てくれる人は少ないようである。それが日本人の生命であるところの所謂大義を現代人が軽く見ている証拠である。また大楠公の場合もそうである。大義を抜いて大楠公を考えるならば、大楠公の死も、権助が首をくくって死んだ死も、死としては差別はない。大義名分から見てこそ楠公の死は万世に尊いのである。また今日支那事変に於いてたくさんの尊い戦死者があるが、これも大義名分のためであるから尊いのであって、これを抜きにして考えるならば何の意味もないことになる、大義のために戦う聖戦のための戦死であるからこそ万世の尊い戦死であるのである。結局日本に於いては大義名分に総てのものの判断の基調があるのである。
 またこれは自分が外国に勤務しておった時の話であるが、外国にいると日本精神を忘れやすいから、外国文字ばかり読まずに日本の本を読もうと思って折々に日本書を愛読していた。取り分け詩の本を愛読しておったのであるが、その中に頼山陽の「下(二)筑後河(一)過(二)菊池正観公戦處(一)感而有(レ)作」と題する詩の中に「丈夫要貴(レ)知(二)順逆(一)小貮大友何狗鼠」という文句がある。私はこれを中学時代から非常に喜んで読んでいたが、特に海外に於いて各種の困難な事に遭遇し辛苦をしておった折り読むとその感が大変な違いである。たまたま一夜遅く風呂に入ってこの詩を歌っておったが、突然「楠公の偉いところはここだな」ということに気付いたのである。それはどういう訳かというと、つまり歴史の上では順逆の道というものははっきりする。歴史がこれをはっきり教えてくれるからである。けれどもこれが今日の出来事となると、どれが順であるか、どれが逆であるか、誰が大義に適っているか、適っていないかということを一々判別するには余程大義に徹底し、国体に徹底した人でないと分からない、これが非常に大切なことである。楠公といえども当時はあの空気では大逆賊と言われておられたに相違ないと考えた。事実は足利二百五十何年の間は「楠家は非常に人を殺す系統であって吸血兒の血統を引いた家だ、こういう血統は絶やさなければいかぬ」というので非常に残酷に取り扱われていたのである。
 当時大楠公に従った者は三千騎くらいであった。今日で言えば大楠公は連隊長位の地位しかない。これに反して足利尊氏はご承知の通り貴族の出で、今日の大臣級の地位である。そして当時の日本の空気所謂与論思想というものは六十余州挙って(こぞって)尊氏に就く程唯物的になっておったから左様に考えたのであったが、後日日本に帰ってから建武中興の歴史に詳しい平泉博士にこのことを聞いてみると、あなたの説の通りである、足利時代二百何十年間は大楠公は大逆賊になっておられたと言われた。天下晴れて楠公が大忠臣と謳われる様になったのは実に水戸義公が「嗚呼忠臣楠子」ということを称えられて大義名分をはっきり天下に示されて初めて楠公は大忠臣であるということになったが、それまで実に三百年という長い間大楠公は大逆賊として扱われておったような次第である。だから大義に余程徹底していないと、今日自分のやっていることが順であるか、逆であるか、これを知ることは非常に難しいのである。「丈夫要貴(レ)知(二)順逆(一)」なるほどあの暗澹たる世の中に、日本六十余州挙って尊氏を助ける時代に、楠公だけが大義名分を弁えられて「一族郎党末代までも大義のために殉ぜよ、七度生まれ代わって大義の賊を討伐しよう」というような所に大楠公の正しい、絶対無限に尊い所がある。楠公の死はそのためのの死であるから絶対に尊いのである。ただ戦死者というばかりなら今日までたくさんの戦死者があるのである。しかして翻って今日はどうかと考えて見ると、今日は足利時代以上にこの大義名分というものが暗黒になっているのではなかろうかと思う。というのは、皆さんもこの数年来の日本の種々の出来事を御覧になると、新聞記事等で見ても大義名分はどこにあるかと思う様な事が沢山あるのである。ところが知識階級もそんな事があっても、その事に一向に気がつかぬほどに大義心が麻痺している。また気が付いてもそれを大事件と考えないのである。これは先より申した様に大義を軽く考えこれが乱れているからである。
 御一新後明治十五年に 明治天皇が軍隊に賜りたる御勅諭の中に「朕、幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ(御一新が出来た事)是文武の忠臣良弼ありて朕を補翼せる功績(いさを)なり歴世祖宗の専蒼生を憐れみ給いし御遺沢(ごゆいたく)なりといえとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁え大義の重きを知れるか故にこそあれ」・・・「兵馬の大権は朕か統ふる(すふる)所なれは其司司をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攪り(とり)肯て(あえて)臣下に委ねへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯(この)旨を伝え天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体(武家政治即ち中間権力政治)なからんことを望むなり」・・・と仰せられておられる。即ち明治維新が出来たのは大義名分を国民が知っておったからだと仰せられている。これを詳しく言えば 陛下の官吏 陛下の臣民ということを知っておったからであると仰せられておられるのである。
 もし人臣が「自分等は徳川幕府の臣民だ、徳川幕府の役人だ」こう考えておったならば、この御一新は出来ても大変な混乱に陥ったのである。特にこの点を軍人が誤るといけないから軍人に賜ったものである。次にまた再び中世以後七百年の間武家政治の様に幕府を作るようなことにならぬようにせねばいかぬぞ。そのために統帥権は独立して朕親から之を握るぞ、そうして司司を臣下に委す、こう仰せられて軍人の注意と人民の心掛けを教えられたのである。また斯くの如く陛下御自身が兵馬の権を御握りになるから皇軍というのであって、この点に関しては軍人の最も注意しなければならぬ点である。既に皇軍たる以上は皇道翼賛のための外には動くことはない筈である。故に皇軍の戦は常に聖戦であるべきであって、何も今度の事変に限ったことではないのである。

 楠木正成、水戸光圀、維新の志士と受け継がれて来た「大義名分」。それを天皇陛下の下で臣民が「大義名分」に沿って行動する。
 残念ながら、戦前も今もこれを理解出来る人と出来ない人がいる。親の愛情をたっぷり受けながら育った人はわかるけど、残念ながら親の愛情をあまり受けずに育った人は理解出来ない。

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