2013年6月20日木曜日

共産主義者の敵、真崎甚三郎大将

なぜか共産主義者たちは帝国陸軍の真崎甚三郎大将が大嫌いです。
皆さん真崎甚三郎大将って知っていますか?
なぜ大東亜戦争が起きたのかを調べて行くうちにわかってきました。
共産主義者達は戦前も戦時中も戦後も真崎甚三郎大将を常に貶めようとしていました。
共産主義者は自分たちがやったことを敵のせいにして、相手を貶め、自分を守ります。
とてもわかりやすい構図です。
だから、共産主義者が「ひどいことをした」と貶めている人が、共産主義者の敵であり、共産主義者の罪状を知っている人だということです。
真崎甚三郎大将は誰が日本を戦争に巻き込み、誰が多くの人たちを死なせたかを知っていました。
おそらく多くの人たちが死ぬことを止められなかったことを悔いながら、一生を終えたでしょう。
二二六事件という謀略の最大の目的は、共産主義のソ連を怖れ、国内の共産主義勢力を怖れ、戦線不拡大の方針の真崎甚三郎大将を失墜させ、戦線を拡大してこっそり共産主義革命を行いたい国家社会主義(隠れ共産主義)の反真崎グループ(統制経済を目指すという意味の統制派の陸軍幹部や宮中の人や官僚)が権力を握ることでした。
大臣達を殺すことになりながら、カウンタークーデター(他のグループがクーデターを起こした時にそれを制圧することで自分たちが結果的にクーデターを起こすこと)を起こし、見事に真崎甚三郎大将を収監させ、結果的に無罪になったが予備役として、二度と権力の座に上らせないようにした人たちは誰か?
真崎甚三郎はその正体を知っていました。
しかし、味方は弟のもと海軍少将の真崎勝次氏しかいませんでした。
多勢に無勢です。
戦後真崎甚三郎大将を貶め続けている人たちがいます。
この人たちはおそらく確信犯です。
真崎甚三郎大将の真実がばれると、困る理由があるからです。
かれらのイデオロギーを信じる人たちが大東亜戦争の本当の責任者だからです。

真崎甚三郎大将の言葉です。
「しからば青年将校などは何がゆえに二二六事件を起こしたかとの問いを縷々(るる)受けるが、私としてもその真意はわからぬのであるが、大体青年将校等が絶えず社会改革の理想にかられていた点を巧みに逆用して、軍の内部やまた外部の者で自分等の意に満たぬ者を一掃しようと計った大芝居であったと見ている。相澤事件(統制派筆頭の永田鉄山少将が相澤三郎中佐に惨殺された事件)との関連についても、よく言われているが、大体相澤を尊敬していた連中であった様だから、あるいはうまくいけば相澤を助けることができるとの錯覚に陥っていた者もあったかもしれないと思う。私も1年2ヶ月も刑務所に繋がれて散々苦しめられたが、私が青年将校達に人気があるのに難癖をつけて何とかしてこの点でひっかけようとしたのである。「なぜにお前は青年将校達にあんなに騒がれるのか」とその点のみを強く追求してくるから「なぜだか自分にも分からぬ。それが知りたければ陸軍の力をもって一人一人の青年将校に回答を求めれば、一番はっきりするのではないか」と言ってやったが、それはしないでこの点でうまく引っ掛けて事件に関係ありと持っていこうとしたのである。自分としては全然覚えのないことであるから、左の五ヶ条を提示して事件の根本的調査を申し入れた。
前もって西園寺公(公望)の元老が知っていたのはなぜか。
三月・十月事件と方法手段も全く同一だから、必ずやその背後にその時の黒幕があるはずだ。
青年将校はこの結果相澤中佐を救うことができるとて、ある人からだまされている節がある。その証拠は革新将校の大半が相澤の同情者である。
事件が起こるとその日、昼前に大阪辺りで真崎が踊らせていたごとく、怪文書が飛ばされたことは何人かが予め準備していた事を物語る。
首謀者の一人磯部淺一と刑務所で対決の際に磯部が「閣下とうとう彼らの術策に陥りました」と泣いていうので「彼らとは誰か」と反問しかけたところ、法務官は(その点は関係外のことですから)と言って遮って急いで退場させてしまった。
 以上のことを明瞭にすると、私との事件関係もはっきりするからと強く言ったが、うやむやでとうとうはっきりさせなかった。大体初めから何も関係ないものを関係あるがごとくひっかけて葬ってしまおうということが陰謀そのものである、取り調べが済んだものを幾度調べ直し直し一年二ヶ月も放り込まれてしまった。
(真崎勝次著「亡国の回想」より抜粋、現代でも読みやすいように改変)


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